ぱらり、ぱらり。
本のページを捲る乾いた音と、シャープペンシルが文字を刻む音ばかりが響く、静かな空間。
その中で一人本を読んでいた亜麻色の髪の少女はふっと息を吐き出す。
ぱたん、と読んでいた本を閉じると、太陽光に照らされて埃がきらきらと煌めいて見えた。
ちら、と時計を見る。
彼女……フィアが此処に来てから既に二時間ちょっとが経過している。
此処に来た時には真上にあった太陽も少し、傾いているように見えた。
読んでいた本を返しに行きがてら窓辺に向かうと、分厚い窓ガラス越しにジワジワジワ、と蝉が鳴く声が聞こえた。
それを耳にしてフィアは思わず眉を寄せる。
「本当に……暑いな」
やれやれ。
此処……図書館で本を読んだり勉強をしたりしている他の生徒たちの邪魔にならない程度の声で呟いた彼女は本を棚に戻し、自分が座っていた席に戻った。
鞄の中にしまっていた携帯電話を取り出して電源を入れれば、スクリーンに今日の天気が表示される。
"猛暑時々曇り"……
そんな天気予報に思わず苦笑がこぼれた。
猛暑、は天気ではないだろう。
そんなツッコミを心の中でしつつ、フィアは携帯を鞄に戻し、小さく息を吐き出した。
今日は朝から気温が高かった。
冷房なしで部屋で過ごしていたら恐らく熱中症で倒れるだろうと容易に予測が付くほどに。
別に自宅で冷房を入れて過ごしていても良かったのだけれど、暑さに比較的強い兄が出かけてしまっているためにフィアは家に一人きりだった。
それは何だか退屈だし、課題はもう既にだいぶ手を付けている。
さて何処にいったものか、と悩んだフィアは結局こうして、学校の図書館にきて本を読むことで時間を潰していたのだった。
夏休みに入った図書館。
思ったより人が多く、かといって賑やかなわけでもなく。
そんな空間はフィアにとっては心地よいものだった。
何より、夏の象徴ともいえる蝉の声が此処ならばあまり聞こえない。
蝉とて必死に相手を探して啼いていることはよくよくわかっているのだが、如何せんあの声を聞いていると体感温度が増すのだ。
その声だけで暑くて茹だりそうになる。
防音、とまではいかずとも外の声があまり聞こえない静かな図書館でこうして本を読んで過ごしたい、とフィアは思ったのだった。
とはいえ、だ。
一冊本を読み終えてしまった。
次の本を選ぼうか。
あぁでも、そろそろ買い物にでもいって夕飯の支度をしないと……兄が帰ってくるまでに夕飯の支度を終えることは出来ないだろうか。
フィアがそう思いながら晴れ渡った外の世界を窓ガラス越しにぼんやりと見つめていた、その時。
とん、と肩に誰かが触れた。
驚いて振り向く。
そんな彼の蒼の瞳に映ったのは、よく見知った従兄の姿。
図書館で会うことが殆ど無い彼……ルカの姿にフィアは一層驚いたのか、切れ長の瞳をまん丸くして、声をあげた。
「る……!」
ルカ。
思わずその名を口に出せば、当人……ルカはふっと笑って、自身の唇に人差し指をあてた。
静かに。
そんな仕草にフィアははっとしたように息を飲んでから、眉を寄せた。
そしてやや乱暴にルカの腕を掴んで、外に出る。
閲覧室の外に出ただけでも冷房の冷気は弱く、じわりと肌を蝕むような暑さが体を包んだ。
「何だいきなり、肩をつつくな、驚くだろう」
「いや、悪い悪い。此処にいるだろうと思ってさ」
ルカは苦笑まじりにそういう。
制服姿のフィアと違い、ルカは部活のランニングウェア姿。
確か今日は部活だといっていたっけ。
微かに汗のにおいがする。
「……汗臭い」
「おいおい……この炎天下部活頑張ってきた従兄にそんな酷いこと言うか?」
苦笑まじりにそういうルカ。
それを聞いてフィアはふん、と小さく鼻を鳴らした。
「……それで?何故わざわざ図書館に?
此処にいるだろうと思って、ってことは私を探していたのか?」
フィアはそういいながら首を傾げる。
ルカはこくり、と頷きながら、言った。
「あぁ。部活も終わったし……フィアも多分此処にいるだろうと思ったから、一緒に帰ろうかと思ってさ」
一人で帰るのも退屈だし。
ルカはそういって、笑う。
フィアはなるほど、というように小さく頷いて、言った。
「まぁ、付き合ってやらんこともない……私もそろそろ帰ろうと思っていたし」
買い物にも行かなきゃいけない。
フィアはそう呟く。
ルカはそれを聞いて眉を寄せつつ、言った。
「買い物はもう少し後にしとけ。
こんな炎天下で出かけたら、お前絶対途中でぶっ倒れるだろ」
「……そんな気はするな」
フィアがあっさり認めると、ルカはくっくっと笑った。
そして軽くフィアの肩を叩いて、"帰ろう"と促す。
彼の言葉にフィアは小さく頷いて、鞄を持ち直したのだった。
***
「ほら、後ろ乗れ」
ルカは自分の自転車を駐輪場から引っ張りだしつつ、フィアに言う。
いつものように、フィアを後ろに乗せて帰ろうとしているのだ。
フィアは自転車に乗れない。
そんな彼女も連れて学校に行くとき、ルカはこうしてフィアを自転車の後ろに乗せていくのだ。
大きな部活用の鞄を籠に放り込んだルカにそういわれて、フィアはおとなしくサドルに跨るルカの後ろの荷台に腰かける。
そして顔を顰めつつ、呟いた。
「汗臭い」
「……歩くか?俺はそれでも構わないけど」
ルカがそういうと、フィアはふん、と鼻を鳴らして、大人しくルカの背中に腕を回した。
柔らかいフィアの腕の感触に小さく笑ったルカはペダルに足をかけ、自転車をこぎ出した。
じりじりと照り付けるような陽射しに、フィアはサファイアの瞳を細める。
彼女の色白な肌はそれだけでも薄く赤くなってしまっていた。
「ちゃんと日焼け止め塗ったか?」
「学校を出るときに塗った。……それでも焼ける」
痛いからいやなんだが。
フィアはそう呟いて溜息を吐き出す。
ルカはそれをきいて"だよなぁ……"と呟くと……
「あ、そうだ」
そう呟いて、ルカは不意に自転車を止めた。
いきなり止まったそれにフィアは驚いてルカの方を見る。
「……何だよ?」
いきなり止まるな。
文句を言うフィアを見て、ルカは小さく詫びる。
「否、もう少し陽射しがマシになるまで涼もうかと思ってさ」
「涼む?」
ルカの言葉にフィアは顔を上げる。
そしてぱっと顔を輝かせた。
……フィアと親しい人間でないとわからない程度の表情変化だが、彼女の嬉しそうな表情に、ルカはふっと笑みを浮かべた。
ルカが自転車を止めたのは、一軒のカフェの前。
ルカの母親であるイブもカフェを経営してはいるが、それとはまた違う店。
それをみてフィアは少し戸惑った顔をする。
「……良いのか?商売敵だろう」
「偵察、って思えばいいんだよ。というか、母さんは大して気にしないだろ」
ほら、早く。
そういうとルカはフィアの手を引いて、カフェに入った。
小さなカフェ。
店内にはぽつりぽつりと客が居るが、全体的に落ち着いた雰囲気だ。
小さめの音で、クラシック音楽がかかっている。
ドアベルの音に気がついた店員に案内されて二人は席に着く。
ほんの少し自転車で移動しただけで噴き出していた汗がすぅと引いていくのを感じた。
「寒くないか?」
「……平気だ、そこまでひ弱じゃない」
ルカの気遣いの言葉にもそっけなく返すフィアは、既にそわそわとメニューを見ている。
くっくっと笑って、ルカは言った。
「俺の勝手で図書館から連れ出したから、おごってやるよ」
「!本当か?」
「あぁ。……お前が食べる量なんかたかが知れてるしな」
俺の小遣いでも十分どうにかなるだろ。
ルカはそういって笑う。
フィアは一瞬嬉しそうに表情を綻ばせた後はっとして、表情を引き締めながら、メニューを捲った。
―― もっと子供っぽくたっていいだろうに。
ルカはそう思いながら、店員が運んできた水を一口飲んだ。
少しすると、店員が注文を聞きに来る。
ルカはアイスコーヒーを頼み、フィアの注文を聞いた。
「あ……苺練乳のかき氷と、アイスカフェラテを……」
フィアは少し恥ずかしそうにそう注文する。
店員がにっこりと笑って戻っていくのを見送ってから、ルカは少し意外そうにフィアに言った。
「ガトーショコラじゃないんだな」
ガトーショコラはフィアの大好物だ。
てっきりそれを頼むと思ったのだけれど……
ルカがそういうと、フィアはぷいとそっぽを向きながら、言った。
「ガトーショコラは、伯母上のでないと嫌だ。
それに、……暑いし、冷たいものが食べたかった」
フィアはぼそぼそと呟くようにそういう。
ルカは彼女の発言に目を細める。
「なるほどね」
可愛らしい所もあるものだ。
自分の母に今のフィアの台詞を聞かせてやればきっと喜ぶことだろう。
ルカはそう思って笑みを浮かべたのだった。
***
運ばれてきたかき氷をフィアは口に含む。
ふわふわとした柔らかな氷に絡む甘い甘いシロップ。
夏祭りの夜店で食べるようなただ甘い砂糖の味ではなく、イチゴジャムのような香りと、味。
幾らか果肉が入ったそれをしゃくりと噛むと、フィアは幸せそうに表情を綻ばせた。
「美味い?」
「あぁ。美味しい」
フィアはこくんと頷きながら、練乳がたっぷりかかった所をスプーンで掬った。
客が来たのか、ドアベルがちりん、と鳴る。
「あ」
手首を軽く掴まれ、驚いた顔をするフィア。
そんな彼のスプーンに乗ったかき氷をぱくり、と食べたルカはふっと笑った。
「ん、美味いな」
ぺろ、と舌なめずりをする彼を見てフィアは暫し茫然としていたが、やがて頬を真っ赤に染めてばしっとルカの頭をはたいた。
「痛っ」
「ば、馬鹿者!食べたいならもう一つスプーンをもらえばいいだろうが!!」
食うな、とはいわないんだな。
そう思いながら顔を赤くして怒っているフィアを見つめ、ルカはルビーの瞳を細め、首を傾げる。
「良いだろ別に。従兄妹同士なんだし……昔はよくや……」
「あぁああああ煩い煩い!!馬鹿!!」
もう!と声を上げたフィアはしゃくしゃくしゃく、とかき氷を口に運ぶ。
しかしあまりに一杯口に運んだ所為で頭痛がしたのだろう。
小さく呻いて頭を抱えてしまう彼を見て、ルカは可笑しそうに笑う。
たまには、こんな時間も悪くない。
そう思いながらルカは少し氷の溶けた自分のアイスコーヒーを一口飲んだのだった。
―― ある夏の日の午後 ――
(こうして彼奴と一緒に過ごす時間も、だいぶ減ったものだから。
たまには子供の頃みたいに一緒に過ごすのも悪くないかと思ったんだ)
(暑さを避けて逃げ込んだカフェ。
変わらぬ無邪気さの従兄と過ごす、夏の午後)