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[論考]戦争の言説について隅っこで思うこと

どうも、沙羅です。
一応生存しています。就職しました。
まあもうどうでもいいですけどね。細々と生きてます。

さて、本題。
安保法制云々や戦後70年のせいか、戦争に関する言説があちこちで見られますが、それに関して一言言いたいのです。
まず、日経で見た某漫画家さんの作品についてのこと。メタファーを用いて戦争を表現した作品だそうで、史実に即した他作品もあるとか。普通、という言葉を強調していたと思います。 
あるいは、とある作品で文壇にデビューした方。戦後世代が描いた戦争ということで話題になりました。リアリティーがあることに驚いたのだとか。
あるいは、反安保法制デモとか。
あるいは、70年に絡めたニュースとか。

その多くに、「戦争を知らない」とか「戦争を語り継ぐ」とかいう言葉が躍ります。

違和感。私には違和感しかないのです。
戦争を経験していない人間は、伝聞でしか戦争を知りません。または、理論や知識。
知らなくて当然ではないかと。
または、語り継ぐと磨耗するということ。真実味は語り継ぐ毎に削れていく。語るとはそういうことです。あくまでも擬似的であり、極端に言えばゲームと変わらない。想像するしかないのですから。
私たちは本当に戦争を悲惨だと言えるのですか。
ただ死の恐怖、普遍的なその恐怖から避けているだけでは?
戦争を肯定するつもりはありません。しかし、否定する言説があまりに欺瞞的ではないかと言いたいのです。結局自分がしたくないだけなのに、無理な論理を盾にしているということです。ただ、人殺しにはなりたくない、と言うだけでいいのに。
そしてそれは自己保身です。
それを分かっていますか?
あくまでも私は、自覚を促すだけです。肯定も否定もしません。
ただ、知っているふりをして言説を垂れ流すのが承服できないだけです。
メディア(マスメディアに限らず、情報を得る媒体全て)が取捨選択した情報だけで判断すべきではないのです。様々なことを勘案すべきです。
常套的な言い方かもしれないですが、戦争を「知る」ことは(不)可能的ということ。その上で、それを自覚して語らねばならないのです。聞かねばならないのです。
そして、「語り得ぬことは、沈黙せねばならない」。
少しカッコつけに聞こえますが、これにて終わります。

柄にもなく政治の話でした。
またいつか。

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[レビュー]石原慎太郎を思いながら。

どうも、こんばんは。こんな時間に失礼します。
更新が滞りがちですが、忙しいわけではありません。
怠惰?いや、寧ろ何をしていいかわからない、という感じです。就職活動もあるのですが、卒業論文もあるのですが、何だかそれに集中できないというか。
それで遊びと学びになるみたいな。無意味なり。はは。

まあ、そんなことはどうでもいいのです。私のことなんて。
さて、レビューです。時間が経ってしまったのであれなのですけれどね。



共喰い。田中慎弥です。
先の記事にも書きましたが、これは円城の作品と対比的な評価です。正直なところ。なのでこれをお読みの方は面白く読める記事になると思います(謎の自己言及)。
さて。
この作品の眼目はおそらく、父子の特に性的な側面の遺伝と、因縁ですかね。この類型は実は色々な作品があるのですが、まあいいでしょう。中上建次とか?それをこの作品のような結末に持っていく、というのはまあ新奇といえば新奇なのかな。
しかし。
これ、別に面白いところなくないですか?
文学的な達成もあるのですか?
よく解りません。他の因縁みたいな関係を主とした作品ならば、心情に割かれる文章が必然的に多くなります。あるいは、それを感じさせなくてはならない。だって、因縁なのだから。それは葛藤を主として描かれます。それは、私小説の類型に含まれる作品のいくつかを参照すれば事足りるでしょう。しかし、それがこれにはない。
寧ろ、この作品の主人公は「ヤリたい盛りの少年」でしかないように思えるのです。何ら葛藤などなく、不安の表象もほとんどない。父親嫌いのただの子供にしか思えません。父親嫌いが父親に回収される、それくらいしか父子の因縁を感じない。全く文学的だといえる要素がない。青年期ならば、それに、葛藤に類する物語を語るならば、もっと語らなくてはならないものが多い。語られないから、私にはその辺にいる馬鹿な高校生にしか思えませんでした。全く深みがない。足りない。
だから、石原慎太郎は受賞に猛反対したように私は思っています。彼の時代の、いや彼の文学から照らして本作は失格です。足りないどころではない。及第点ですらない。これで受賞委員が変ったことは、私には日本文学の斜陽を感じさせます。
寧ろ、まだここで賞を与えるべきではなかったのでは?と思います。恐らく、田中慎弥の文体は心情をあまり書かないし、想起もさせない。文体と内容が一致していない。これが結論かもしれません。

あと、付言しますが。
この文庫に書かれている瀬戸内寂聴さんとの対談。『源氏物語』に関する解釈が一部書かれていますが、あまりに誤解に満ちている。恣意的な解釈です。研究者でないから、求めるべきものではないのかもしれませんが、公の場での発言でそのようなことを言ってしまうのはいただけない。父子関係に執着するのはいいのですが、それは視野を狭くします。作家としての耐用年数が減るのでは?などと。

以上です。
それでは、また。
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[レビュー]分らない、とは何か。

どうも、沙羅です。
何だか久しぶりですね。あまり書く時間が取れなかったので。
まあ、授業の山を越えたようなので書けるのです。発表が多くてですね。あと、就職活動と被っていたりして。
まだ、芥川賞系を脱出できていないですけれど。

さて、それでは本題です。


円城塔さんの作品です。
この人の作品は、購入したまま積んでいる本はあるのですが、初読でした。評判では、理系的な知識が満載されていて、というか、それが中心の作品なので忌避していました。あるいは、本の後ろのあらすじが「?」となる作品が多いので。「訳が分らないという面白さ」という表現も聞いたことがあります。それは、個人的にどうなのか、と思っていたのです。
しかし、これを読んで一変しました。
これは、「訳が分らない」などという言葉で片付けるべき作品ではありません。
いや、現在「文學界」で連載している『プロローグ』もこれと同列の作品でしょう。言葉について書かれた作品たちです。特に、「道化師の蝶」は「書く」の問題、併収作「松ノ枝の記」はそれに加えて「翻訳」の問題が書かれています。そうした問題に関しては、円城塔が日本においては先進的だ、と言えるでしょう。関心のある私としては、とても面白く読ませていただきました。「松ノ枝」の方は、話を大げさにしている感じがして少し萎えるのは否めないのですが、「蝶」についてはそのまま読んでも面白い構成になっているので良いと思います。
気が引ける、と円城塔の作品を読まずにいた方は、一読してみてもいいのではないでしょうか。

ちなみに、同時に受賞した田中慎弥よりも明らかにこちらの方が良質であり、所謂「文学的達成」(この言葉はあまり好きではないのですが)が為されているのはこちらです。

それでは、この辺りで。
では、次はいつ更新するかは分かりませんがまた。

[レビュー]没落の表象と、作者と。

どうも、沙羅です。
卒論ゼミも決まり、忙しくなりそうな今日この頃です。
本当は、色々すべきことがあるのですが、何故か趣味に走るという……。
ただの現実逃避ですね……(´・ω・)
自覚しています。でも、好きなことへ邁進すべし、という信条で。
曲げたくないものです。曲げなくてはいけなくても。

さて、本題へはいりませう。



芥川賞地獄、第四弾。『冥土めぐり』です。
端的に云うならば、及第点です。まあ、賞でもいいかな、くらい。他の「劣った」作品に比べたら、まあきちんと主題もはっきりしていて、読むに耐える文章で、多少演出過多ではあるのですが、だからそれが苛々したりもするのですが、まあ読後感は良い感じでした。まあ、陰鬱とはしているのですが。もう一つの併録作は、ヤンデレ姉妹百合(多少デフォルメしてますが)だったので、ドキドキしました。百合脳すみませぬ。
さて、この作品について一つ提起したい問題を挙げるのならば、宣伝文句です。いや、受賞当時の作者の言動ですかね。「失われた時代」についてを強調していました。あのバブル崩壊後のごたごたした時代ですね。まあ、作品を読んで、そのことをふと考えてみれば合致はすると思われます。
しかし、「ふと考えてみれば」です。
この作品は、もっと「没落と記憶の『枷』」のような普遍的な主題として考えることもできると思われるのです。作者が、「失われた時代」とかのタームを挙げてしまうことで、この作品の価値は「開かれ」ない。某解釈学の本で、某教授が「テクスト内に留まることは価値を低めてないか」ということを書いていましたが、それ以上に、テクスト外的事実・言説によってこの作品の価値を低くしてしまうのではないでしょうか。
このことは最近盛んに思うことです。歴史によってテクスト価値を規定する向きが往々にして正当なものとしてまかり通っていますが、もっと普遍的に広がることができるのではないでしょうか。ずっと思っています。
まあ、私の研究室の志向性とは違うのですがね。
この作品の場合、尾崎士郎(多分、ご存じの方は少ないと思いますが)の「没落」論的な文脈でとらえ直せるものです。その文脈は、歴史的、ということではなく、同一主題である、という文脈です。時間的なものは「地」でしかないのです。
多少脱線しましたね。まあ、これだけ議論を広げていける作品だということです。もう少し論じられる主題(夫の障害の表現についてとか、最後のオチについてとか)はあるのですが、私が一番思ったのはこの件についてでした。

以上です。長くなってしまいましたね。
長文失礼しました。

異論等あればコメント下されば。まあ、これは記録でしかないのですけれど。
それでは、また(^o^)ノ

[レビュー]いかに評価すべきか。

どうも、沙羅です。
授業が始まりました。卒論ゼミの発表があったりで戦々恐々な感じです。まあ、大げさに言ってますが。新入生もいたりして、正直、色々処し方に困っていたり…もともと、年下は苦手なのです。
さて、レビューです。



芥川賞地獄の成果をきちんと記録する、という性質なのでしばらくお付き合いください。
「abさんご」。受賞当時は話題になりましたね。
表題作は、かなり文体に難があります。本当に、狙いが分らない。音にだけ執着する系の話でもありません。記号論的な複数多義性?とでも呼ぶべきものがあるのかもしれないですが、私には読解不能でした。
しかし、内容的には、実に文学として成り立つような特殊な状況だと思われます。旧華族、と読むのが正しいのかな。推測にすぎないものですが。しかし、言明だけを追っていくと、簡潔に説明しても作品として成り立つのではないか、と思わされます。それは筆者の意図に合わないのかもですけれど。日本の「失われた時を求めて」だ、とする評もあったと思いますが、それにしてはあまりに虚構的すぎます。あの作品にある「想起」(私は噂でしか知らないのですが)、それはこの作品にはありません。私には読めない。
文体のせいで避ける人もいるでしょう。私もそのつもりでしたので。
しかし、一読には値するでしょう。
まあ、もっと分かりやすく書けるだろ、が正直なところなのですがね。
併録されている作品(この本は、後ろから読むかたち)は、少女の心情を巧く書いていると思います。私小説的…かな。でも、取り立てて評する作品でもないですかね。揺れや葛藤を楽しむよりも、あるある、に近い感覚。

以上です。意外と長くなってしまいました。
実は、次に書く「冥土めぐり」のことを考えていたのですがね。完全に忘れてた。
まあ、ご参考までのレビューでした。

それではー

あ、新しいサイト、というよりもカテゴリ分けすればいいのかな、などと思ってます。
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