「ここの湖ってね、そんなに深くないの。必ず太陽の光が届くようになっている。だからね、死のうとして飛び込んでも、死なないのよ。苦しいだけで。ずっと昔から、この湖にはそういう魔法がかけられているの。だから、ここに沈んだ寂しい気持ちはみんな、まだ息をしている。わたしたちはそれを、いつかそのときが来るまで、見守っているのよ。」

久々に訪れた湖の底は、漣のようにきらきらと輝いています。レイスはその光を踏んで歩きながら、水中に響く誰かの声を聞いていました。
姿の見えないものの声を聞くことは、レイスにとって、特段珍しいことではありません。それでもきらきらとした光に胸が苦しくなるのは、その光が何であるか、そのひとつひとつに、うっすら心当たりがあるからでした。少しの沈黙のあと、レイスは問いかけました。

「寂しさが、まだ息をしている?」

「気持ちを捨てることは、難しいことなの。」

返事はすぐに返ってきました。

「ただゴミ箱に入れるだけなら簡単だけど、それだけではふとした瞬間に、すぐに思い出してしまう。いつ、どこで思い出してしまうか予測もできない状態では、まっすぐ歩くこともままならない。でも、もしほんとうに処分しようと思ったら、たくさんのエネルギーを使わないといけないわ。それには知識が必要だし、技術が要る。時間がかかるし、痛みも伴う。だからみんな、捨てたことにして、忘れたふりをするの。生きていくためにね。だからここに集まるのは、捨てられた気持ちではあるけれど、同時に捨てられなかった気持ちでもある。」

避けて歩こうと思っても、水底はそこらじゅう光の欠片でいっぱいだったので、レイスはそれを踏み付けざるを得ませんでした。こんな風に光を踏むことも、水の中を歩くことも、知らない誰かの声を聞くのも、全部、街に住む他のみんなとは違うことです。他のみんなとは、違うこと。
湖の中をどこまで歩いても、その声の主を見つけることはできませんでした。やがて、レイスは諦めて、立ち止まります。

「あなたはここで、そのような気持ちを守っているのですね。地面がきらきらと輝くのは、そのせいですか。あなたが魔法をかけているから?」

「光というのはね、昼間の中だけのものではないわ。夜の中にも、寂しさの中にも、光はあるのよ。そして、あなたの中にも。もしかしたら、あなたの気持ちもここにあるんじゃないかしら、レイス=ヴァン?」

レイスには心当たりがありました。だから、何も言い返さずに、唇を噛みました。それは大切な記憶でした。そしてそれは、寂しさではないはず、の。

水底に手を潜らせると、光の粒は簡単に捕まえることができました。
例えば両手に渾身の力を込めてぎゅっと握りしめたとしても、この光を「処分」することはできないのだ、とレイスは察しました。その逆で、おそらく、両手にそっと包んで温め、癒してやるようなことが、その光を消す唯一の方法なのです。
水の中ではぼんやりと光るその光も、外に出せば鋭く光り、触れればきっと傷付くことでしょう。助けようとして近付いたひとにだって、同じように鋭く切りつけたはずです。だからみんな、どうすることも出来ずに、それは湖の底に沈んでいきます。
レイスは自分がどうしてこんなところに呼ばれたのか、分かったような気がしました。

「今の僕には、これを持ち帰ることは出来ません。まだ、覚悟ができないんです。ごめんなさい。でも、これが何なのか、心当たりがあります。大切な気持ちだったんです。」

「あなたを責めようというんじゃないのよ。ただ、知ってほしかったの。今はまだ、上手に心を使えないかもしれないけれど、この光はいつか、あなたの味方になるものだから。」

「いつか」の日。そのあまりの距離に、あまりの遠さに、泣きそうになります。果たして本当に、そんなに遠くまで、この足で歩いていけるのでしょうか。もうこんなに汚れてしまったのに。
ずっと、他の誰とも違う道を歩いてきました。沈んだ光のひとつひとつも、恐らくそのように、他と違う道を選んできたのでしょう。捨てられなかった悲しみはまだ息をしていて、道は続いています。続いている限り、歩き続けなければなりません。
この道の先にあるものを、誰も知りませんでした。

#ヘキライ 第41回テーマ ひかりのうろこ