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忘れられない日

ちょっと吐き出し。


昔、大学の保健管理センター担当の精神科医の講演を聞く機会があった。
その日のテーマは学生のメンタルヘルスとか、
大学の保健管理センターの支援の現状だったと思う。

その先生が、現場で長年学生と話して気づいたことの一つとして、挙げた話。

家庭環境等に問題はなくても、早い子は小学校低学年位からずっと、
死にたい、と思い続けてきている子どもがどうも一定数いるようだ。
保健管理センターで学生と話をしていて、そんな学生に「もしかして君、小さい頃から…」って聞くと、
「そうなんですよ!」って驚かれる。
本人はそんな気持ちを抱き続けてきたというのは、
周囲に受け入れられない、周囲の人間は普通そんなことを考えて生き続けていない、
というのを理解していて、だからこそ自分がそう問いかけると、
一種理解者に会えた安心感のようなものを抱くようだ。

ちょっとわき道にそれるけど、という感じで聞いたんだけど、
当時、ぞわっとしたのを覚えてる。

小さい頃からずっと、特に問題もないのにずっと死にたいと思っているなんて、
正直理解出来なかった。
友達から仲間外れにされた、とんでもない失敗をした、親から怒られた。
そういう様々な嫌なことでそう思うんじゃない、
何もないのに自然に死にたい、なんて思い続けながら生きてきたなんて。
しかもそれが10才にも満たないような頃からなんて。

その話を聞いて真っ先に思い出したのは、
(不謹慎なのを承知で書くと)細胞の分化の話と、ミツバチの話だった。

受精卵が細胞分裂していって人間になる。
最初球状だった受精卵が人間のかたちになるということは、
人間のかたちになるように細胞が増えているだけじゃない。
人間のかたちになるように周囲の細胞が死ぬ、そういう命令が出ているという話。

ミツバチはどうわけても働かない集団が一定割合で出来る、という話。
(これは最近の研究で解明されましたね)

この2つの話が漠然と浮かんできて、何だかうすら寒くなった。

何を問うても、改善案を考えても、死者には届かない。彼の役には立たない。
何もかもが、生きていればこそ、だ。

御冥福をお祈りします。
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