レポート提出期限の最終日、半分以上白紙のままの指定用紙を携えてライブラリ・ルームへ駆け込んだサムは、思いがけない光景に出くわして足を止めた。
 デスクに突っ伏した小さな肩。三台のモバイルをまるで衝立のように周囲に並べて、その壁の中でセキ・レイ・シロエが目を閉じ、うたた寝をしていた。

(珍しいもん見ちまった)

 静かに下ろされた瞼は、普段の高慢な眼差しを丁寧に覆い隠してくれている。
 こうして眠っている様子を眺めていると、彼はやはり自分よりも年下の、まだ何者かの庇護を必要とする繊細な少年のように見えた。細い手足、伸びきらない背、神経質そうに尖った顎。その全てが脆く、少し力を込めればポキリと折れてしまいそうだ。

「こうやって黙ってりゃ、可愛げもあるのにな」

 シロエの周囲には、プリントアウトされた資料やデータベース化されていない旧時代の文献が散乱していた。おそらく彼も何がしかの講義のレポートを作成しようとしていたのだろう。シロエの右手は、キーボードに伸ばされたまま動きを止めていた。
 勉強に疲れて居眠りか、と思うと、急に目の前の少年のことが身近で微笑ましく感じられた。こういう類の感情は、あの何につけても完璧な親友と共にいる時に、しばしばサムの胸の内に湧き上がってくるものだ。
 正反対のように見えて、案外この二人は似た者同士なのかも知れない。そんなことを口にすれば、きっと両方から冷ややかな視線と否定の言葉を投げかけられるだろうけれど。
 眠っているシロエは妙に静かだ。いつもは挑発的で、上級生に食ってかかる彼しか目にすることがないから余計にそう思うのかも知れないが、それにしても寝息ひとつ聞こえてこない。
 かすかな不安に駆られて、サムはシロエの寝顔をのぞき込んだ。よく見れば、顔色が青白い。長い睫毛は穏やかに伏せられているが、夢見がよくないのか、眉間のあたりにはほんの少し険が漂っているように見えた。
 ライブラリ・ルームの空調は利用者が快適に過ごせるよう管理されているから、このまま眠り続けても風邪を引くようなことはないだろう。それでもここに彼を放置していくのはよくない気がして、サムはシロエの肩を揺すった。
 心許ないくらい手応えのない感触にあまり強く揺さぶるのもためらわれて、二度三度と軽く背を叩いた。しかし反応がない。シロエ、と声をかけるもその耳には届かないようだった。
 シロエは小さな体を投げ出して、昏々と眠り続けている。
 ……これではまるで。まるで、長い長い道のりを歩き続けてきた旅人が、ついに精根尽き果ててぷっつりと事切れてしまったみたいじゃないか。
 不吉な想像をサムはすぐに打ち消したが、不思議なことにそのイメージは、目の前のシロエにしっくりと馴染んだ。

「……お前、大丈夫なのか?」

 形の見えない影が胸をよぎった。おれは何を心配しているんだろう。予感めいた警鐘の正体を、サムには見極めることができなかった。
 また余計な世話を焼いているな、と自分で自分をたしなめながら、サムはシロエの腕をとった。そして脱力した上半身を抱え上げ、苦心してシロエを背に負う。
 とりあえず彼の部屋に運んで、ベッドに放り込んでしまおう。彼の私物は、後で取りにくればいい。
 シロエを背負ってライブラリ・ルームを出た。通行人からは奇異の目で見られたが、サムは開き直ったように顔を上げて通り過ぎた。
 シロエは明らかに過労気味だ。それは当然だろう。ステーションに来てまだ一年足らずの新入生が、メンバーズ・エリート入り確定と思われる上級生とあらゆる面で競い、実技においても座学においても引けを取らない成績を修め続けているのだから。
 シロエは元々利発で優秀な少年なのだろうが、それにしたって競争相手はあのキース・アニアンだ。対等に渡り合おうとすれば、並大抵の努力ではきっと足りない。
 背に負った体の軽さに、サムの懸念は色濃くなった。こいつ、ろくに食べていないんじゃないだろうか。候補生の体調はコンピュータが管理し、個々人に必要な栄養メニューを考えた食事が毎日配膳されているはずだが、シロエならば機械に提供された食事を拒むことくらいはやりそうだ。
 充分な睡眠の次は、充分な栄養だな。余計な世話ついでにと、サムは後輩にスムーズに食事をとらせるためのシミュレーションを始めた。食料の全てがロボットによって調理されるこのステーションでは幼少時のような手料理などは望めないが、各自のコンパートメントにオートで給仕される食事よりは、大食堂でテーブルを囲んでのランチの方が食も進むかも知れない。
 いっそ、キースを相手に大食い競争でもけしかけてやろうか。妙なことに巻き込まれる親友には気の毒だが、対抗意識を燃やしたシロエが皿を空けていく様を想像したら、なかなか愉快で思わず笑みがこぼれた。
 その気配を感じとったのか、背負われても目覚めることなく体重を預けてきていた後輩が、サムの背中でわずかに身じろいだ。呻きとも囁きともつかない寝言がその唇からもれる。
 聞くともなしにその言葉に耳を傾けると、ママ、と懐かしい単語がサムに届いた。
 ……養父母の夢でも見ているのだろうか。それとも故郷の?成人検査をパスし、生まれ故郷を離れた自分たちに、もう思い出すほどの面影も残されてはいないというのに。

「おれはお前のママじゃないぞぉ」

 眠り続けるシロエをからかいながら、サムはこの後輩のために祈りたい気分になった。彼の見る夢が、どうか安らかなものであってほしいと。
 この小さな体いっぱいに情熱を漲らせて、寝食も忘れて高みへ上り詰めようとするシロエ。その原動力がどこから湧き出てくるものなのか、何に萌したものなのかをサムは知らない。
 それでも、彼と自分は今ここに、同じステーションの候補生として共に存在しているのだ。果てのない宇宙の中の、ちっぽけな一瞬の通過点。その一点で交わることができたのだから、叶うことなら大切にしたいと理屈でなく思う。
 そのためならな、とサムは微笑んだ。そのためなら、レポートの一つや二つ、落としたってどうってことねーよ。
 この後の追試を思うと多少うんざりしたが、今はそれ以上に、素直に託された背中の温もりが心地よかった。
 彼が目覚めたなら、温かい飲み物でも奢ってやって、そして下らない話をしよう。たくさん、しよう。


(今はおやすみ。よい夢を)
(せめてこの一瞬が、お前にとって少しでも幸福なものであるように)




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放置してた別サイトから転載。




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