母上様、と書き出してはその先が続かずに何度も止めて、書き損じた紙を幾枚も投げ捨てた。言葉は一つも文章にならずに、反故ばかりが山になった。
 やはり柄ではないのだと、溜息をついて筆を置く。こうして迷って諦めて、実家へ便りを出さなくなって数年が過ぎていた。故郷の面影はおぼろだ。我ながら薄情な息子だ。


 全身の力が萎えてしまって、背中からばったりと倒れ込んだ。倒れた拍子に筆が手から転がり落ちて、畳に細長い染みを作った。しまった仙蔵に怒られる。潔癖症の同居人は幸いにして委員会活動で留守中だ、奴が帰ってくる前に拭き取らねばとは思ったが、どうにも動くのが億劫だった。墨が乾いてゆくのを阿呆のように見送った。
 ……後で布団でも敷いて隠しちまえばいいか。

 換気のためにと開け放していた障子戸から風が吹き込んで、放り出された反故紙がはらりと舞った。その軽やかな軌跡を何とはなしに目で追う。紙は宙を泳ぎ、開かれた戸から廊下へと躍り出て、抜け殻のように床に滑り落ちた。
 その抜け殻を、細長い指がつまみ上げた。拾われた紙の行方を目線で辿ると、見知った顔に行き着いた。逆さまの視界の中に、食満留三郎が映っていた。

「勿体無ぇことすんなよ」

 聞き慣れた声音はいつもの如く不機嫌だった。そして常ならば俺はその声に弾かれたように反発するのだが、今はその気力を奮い立たせることさえ面倒だった。書き損じの反故紙のように、ただ畳に寝そべるばかりだ。
 留三郎は用具委員長という名の備品管理人の性からか、紙だってタダじゃねぇんだぞ、と世知辛い事をぼやいている。その紙は学園のものじゃねぇ俺が町で買い求めたもんだ、と言おうとして止めた。だからどうしようと俺の勝手だ、とも。誰の物であろうと無駄にしている事は事実なのだから、咎める方に理屈がある。
 半端に墨の乗せられた紙を、留三郎は丁寧に拾い集めた。いらねぇんならもらうぞまだ裏が使えるからな、と言われて俺はようやく身を起こした。冗談じゃない。書きかけの文なんぞを外部に流出させてたまるか。
 集められた紙を乱暴に引ったくると留三郎は眉を顰めたが、奪い返されることはなかった。空になった手が、行き場を無くして下ろされた。

「……母上様、か」

 呟かれた言葉に、顔が耳まで熱くなるのが分かった。読まれた。読みやがった、こいつ。読まれたくない物をまき散らしたのは自分の不注意だったが、それを棚に上げて羞恥と怒りが湧き起こった。
 手にした反故の束を力任せに握りしめ、ぐしゃぐしゃに丸めた。本当は引き裂いてしまいたかったが、そうすると後片付けが厄介だ。
 驚きに目を開く留三郎の前で、原型を失った文を投げつけた。勢いとは裏腹にぽとんと軽い音を立てて、紙屑は畳を転がった。
 投げ捨てられた文を、留三郎は何か不可思議なものでも眺めるように見遣った。気分を害して怒り出すかと思ったのに、予想外の反応だ。肩透かしをくってしまって、気持ちが前のめる。

「……もう書かないのか?」
「はぁ?」
「紙が足りないんなら、倉庫から出してきてやってもいいぞ」

 少しだけな、と付け足す留三郎の表情は真顔だった。別にからかっているわけでも、皮肉を言っているわけでもないらしい。
 一瞬、変な間がただよった。俺はとても、ものすごく、こいつのこういうところが大嫌いだ。こいつは中途半端に善人なんだ。振り上げた拳をすかされてしまって、自分が馬鹿みたいに思えてくる。この男とは、致命的に歯車が噛み合わない。

「……もう止めた」
「なんで」
「面倒くせぇ」
「お前から文が届くの、楽しみにしてるんじゃないのか」
「もう何年も文なんぞ出してない。今更だ」

 吐き捨てるように言うと、留三郎はフム、と考え込むように鼻を鳴らした。何か言い募ってくるかと思ったが、大して関心もなさそうに目を逸らされた。今日はかわされてばかりだ。癪に障る。
 苛立つ俺を余所に、留三郎は自然な動作でしゃがみ込み、捨てられた紙屑を拾い上げた。よじれ、ねじくれたそれを手で広げ、指先で皺を伸ばしていく。
 勿体無いな、と留三郎が呟いた。なんだまた紙の話か、紙と親は大事にしろと説教でもかます気かと身構えたが、続く言葉は予期せぬ方向から切り込んできた。

「勿体無い。お前、折角こんなに綺麗な字を書くのに」

 今度こそ、本当に、時が止まったと思う。
 この場面で口にする台詞がそれか。お前が俺を褒めるなんて初めてじゃないか。言われた俺は居たたまれなくて心の臓が痛くなっているのに、お前は照れる素振りも見せずにそんな事を言ってのけるのか。
 さっき文を読まれた時よりも、ずっと酷く頭に血が上ってきた。視界がぐらぐらする。留三郎は気付きもせずに、長い指で紙の皺を丹念に伸ばしている。
 一度は歪んで潰れた文字が、慈しむような手つきによって再び姿を取り戻していった。書いては躊躇い、言葉にならず、一画一画に言い尽くせぬ想いを込めて紙にしたためた、母上様。目の前の男に綺麗だと賞された、その字。
 留三郎の指が文字をなぞるたびに、胸の奥のやわい部分に触れられてしまう気がした。やっぱり俺は、お前が嫌いだよ、留三郎。そんな優しさを見せるなよ。
 おぼろに霞んだ記憶の中のふるさとへ、何だか無性に帰りたくなった。


 そんな未熟さを不意に思い出させる、お前だから、嫌なんだ。




***
Boys don't cry.は留文留を全力で応援しています。
追記でちょっとキャラ語り。

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