誰かを名前で呼んだことなんて久しぶりだと思った。
拍手と喝采が飛び交う裁判所の中、穴の空いた床を見ながら、黒い髪に赤い瞳の少年は静かに息をはいた。
何度目かも分からない裁判、くり返し行われる悪夢に、いい加減飽き飽きしていた。先ほどの人間も、これまでの人間と同じように、否定し、諦め、絶望の表情で断罪されるのだろうと思っていたのだが……。
「友達、なんて言われたの……いつぶりだろう」
ぽつりと呟いた彼は、回想する。
一朝陽は独りだった。一度死に、再び現世に戻ってきたことは素直に喜んだものの、自分が死んだ事実は変わらずそこにあった。故に彼は他者との関わりを極端に恐れるようになったとも言える。
生きる意志は希薄になり、たまたま出掛けたその先で彼は再度その命を落とすことになった。
その結果、彼のたどり着いた結論が「もうこれでいい」だった。
裁判所、というものは一朝陽にとってはある種馴染みのあるような場所だ。元々法学部に所属し、法に携わるものを志す彼にとっては最も近い場所。だがそれも、今となってはもはや意味をなさない。
本来であれば壇上に立つのは、檻の中にいるのは彼だったのだから。
自身の行いによってどれだけの命が失われただろう。あれはただの食事行為などではなく、娯楽なのだと彼の神は言っていた。……頭痛がする。自分はそんなものに取り込まれたのかと思うと吐き気がした。
この世界はそんな彼が作り出した精神世界のようなものだった。夢引きという、旧支配者と呼ばれるものの一柱が使用するもののような、彼の神が標的を追う際の能力を少しアレンジしたものだ。
……もっとも、この世界は無作為に人を呼び込むのだが。
一朝陽は待っていた。
いつか自分は裁かれなければならない。そのために、自分自身を裁いてくれる存在を、ただ待ち続けていた。
けれど、その役は一朝陽の最も大切な者には務まらないことも彼は知っていた。きっと、彼が取る選択は何よりも残酷なものだろうから。それは一朝陽が望まないことだから。
最後の審判は一朝陽の本音そのものだ。
そうなるように作ったのだから当然といえば当然であるが。
自分は多くの人々を殺した。生きてるだけで罪だった、そんな訳の分からない理由をつけて、殺した。恨まれて当然のことをし続けていた。
だから赦してほしかった。
だから裁いてほしかった。
だから殺してほしかった。
檻の中でひたすらに謝り続ける姿はまさに自分そのものだった。
どう選択肢を選んでも、その先の未来は絶望でしかない。罪人の罪は罪人の死によって償われるのだから。
だからこそ彼は欲した、自分の終わりを。今もずっと望んでいる。
それがどうだろうか。彼の耳に届いたのは浅はかで、無謀とでも言うしかないあの言葉だった。
「神様をぶん殴ってでもお前を助けてやる!」
鳩が豆鉄砲を食らった、というのはまさにこのことだったのだろう。
一朝陽はその言葉に心底驚いた。そんなことできるわけがない、と彼自身そう信じていたからだ。
罪を着せる選択を強い、大切な人まで手にかけさせ、それでも自分を友だと呼んだそいつは大変な物好きだった。
馬鹿だ、と思いながら一朝陽は心のどこかでそれに縋っていたのかもしれない。ほんの僅かでも、信じてみようと思ったのだ。
断罪を望んでいた彼に飛び込んできたもうひとつの選択肢。最初からないものだと思って目をそらし続けていた、『救済』の言葉。
その日、その時、彼は椅子の上で一人、声を押し殺しながら涙を流していたのだという。