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「時々、突然何もかも忘れるの。昨日誰と会ったとか、さっき何を食べたとか、学校への行き方とか、呼吸の仕方とか」
 テーブルにいつものように向かい合うと、鳥乃はぽつりぽつりと呟いた。いつもは用意されたらすぐにココアをすするのに、その日は一度もコップに口を付けようとしなかった。
「わたしは頭がおかしい」
 鳥乃はコップを握りしめた。鳥乃の両手の中で、コップがギシリと悲鳴を上げた。
「何の前触れもなく、唐突にとても凶暴な気持ちになることもある。そういうのがとても怖い」
 点は鳥乃の言葉を聞きながら、ココアを一口すすった。なんだか苦い味がした。
「人を傷つけてしまうのは怖い」
 点が顔を上げると、鳥乃はまっすぐ点を見ていた。悲しそうに、見ていた。さっきココアを飲んだばかりなのに、点の喉はもうからからになっていた。
「僕は怖くないよ…」
 コップの中身を飲み干して、点はゆっくり鳥乃と目を合わせた。
「鳥乃だけじゃない。たぶん、みんなおかしいんだ」
 点は早口に喋りながら、一番最後に学校へ行ったのはいつだったっけ、と考える。鳥乃と会ってから、ふたりでいるのが心地よすぎて、学校なんて忘れていた。忘れていたかった。
「僕だっておかしい。普通にしてるつもりなのに、僕にとっての普通はみんなにとっての普通じゃない。集団の中にいるとどうしたらいいのか分からなくなって、それがすごく嫌で、悲しくて、だから僕は…学校に行けない」
 いつの間にか俯いていた点の手のひらに、鳥乃の手が重ねられた。袖まくりをされた腕には、もう包帯は巻かれていなかった。
「お互いに、ほんとうの理由を言ってしまったね」
 点は鳥乃の目を見ようとしたけれど、唇のあたりまで目線を上げたところで、それ以上顔を上げるのをやめてしまった。鳥乃が人に会うのを嫌がる理由に対して、自分の考えはなんて子どもで、格好悪いんだろうと悲しくなった。そうして目線を下げたまま、鳥乃の唇が言葉を紡ぐのを見ながらふと、鳥乃の唇はなぜこんなに赤いのか、と考えた。
 鳥乃の唇が赤いのは、その薄い皮膚の下を、赤い血が巡っているからだ。静かに脈を打つ心臓が、鳥乃の体中に酸素を送っているからだ。つまり今この瞬間、自分たちは確実に生きているのだ。
「鳥乃…」
 点の呼びかけに、鳥乃は「なあに」と答えた。点は深呼吸をひとつして、まっすぐに鳥乃の目を見つめた。久しぶりに鳥乃の歌が聴きたいと思った。

 二人が出会った河原で、鳥乃は歌を歌った。初めて、誰かのために歌った。それは思っていたよりも少し窮屈で、照れくさくて、面倒だった。けれど鳥乃のとなりで歌を聴きながら、嬉しそうにしている点の横顔を見ると、歌ってよかったなあ、と思った。
 鳥乃が歌い終わると、点はそれまで浮かれていた心が一気に沈んだ気がした。世界が無音に戻った瞬間、上手く笑えなくなった。
「点?」
 俯いてしまった点に、鳥乃が声をかける。点は慌てて顔を上げた。少しは笑えた。
「ありがとう、鳥乃」
 点は何とか声を絞り出した。しばらくすると、いつの間にかどんよりと濁っていた空から大粒の雨が降り始めた。久しぶりの大雨は、次の日の早朝まで止むことはなかった。

 次の日の朝、自転車にまたがった瞬間、鳥乃は全てを忘れた。金魚に餌はやったか、玄関に鍵は閉めたか、自分がこれから何をしようとしていたのか。
「ふん、ふふ…」
 鳥乃は歌を歌いながら、どこへ行こうかなあと考える。制服を着ているということは、学校へ行こうと思っていたのだろうか。学校へ向かって自転車をこぎ出して、大きな橋の上で、鳥乃はふと思った。ここの川は汚い。もっときれいな水が見たい。もっと透明なにおいをかぎたい。鳥乃は方向を変えた。上流に向かって自転車をこぎ始めた。

 たどり着いた河原の景色は、なんだか見覚えがあるような気がしたが、鳥乃は気にせずスニーカーを脱いで、両足を川の水につけた。夏だとはいえ山の水は冷たく、ぶるりと背が震えた。その瞬間、鳥乃は思い出した。嫌なことばかりを、たくさん思い出した。鳥乃は冬服の裾をぺらりとめくって、自分の腹を見た。そこには数え切れないほどたくさんの傷があった。ひとつひとつを見る度に、鳥乃は全て鮮明に思い出すことが出来た。これは煙草の火。こっちはアイロン。その右上は彫刻刀で、すぐ左がカッターの刃。
 鳥乃は泣きたいと思った。けれど涙は出なかった。すべて自分で付けた傷だった。なんて醜いんだ。これがわたしの弱さだ。
「ああ、ああ、ああ…」
 わたしは誰だ、と鳥乃は思った。ふいに、川の中を泳ぐ一匹の魚を見つけて、鳥乃は魚になりたいと思った。小さな卵から、運が良ければ生まれて、成長して、何も考えずに本能のままに行動して、飯を食って交尾をして子孫を残して死んで腐敗して土に還って、運が良ければ子孫もまた生まれて成長する。そんな奇跡のような連鎖に、自分も加わることが出来たら、どんなに素敵だろうと思った。
 魚がひるがえった水中に、鳥乃は何かきらりと光るものを見た。スカートをたくし上げてざぶざぶと川の中に入って見ると、それは人差し指ほどの大きさのガラス片だった。鳥乃はスカートが濡れるのも無視して、そのガラス片を拾い上げた。濡れたそれは太陽の光に反射して、眩しいほどに煌めいた。
「ふん、ふふ…」
 もう何も考えていたくないと思った。鳥乃は歌を歌いながら、こんな恥ずかしい自分がこの世に存在しているということが嫌になった。ガラス片の鋭い切っ先を、自分の手首にあてがう鳥乃の仕草に、迷いはなかった。
「ららら…」
「鳥乃?」
 後から声が聞こえた。振り返って、鳥乃は川岸に立っている少年を見た。誰だろう、と思った。点は、振り向いた鳥乃の手首を伝う鮮血を見て、くらりとした。何が起こっているのか分からなかった。鳥乃の腕を、螺旋を描くように伝い落ちた赤い水滴は、川の水に滲んで、じわりと同化した。
「鳥乃、死んじゃう…!」
 ハッとして叫んだ点に、鳥乃は首をかしげた。
「あたりまえだ。生きているということは死ぬということよ」
「嫌だ、鳥乃…」
 点は必死で川に入った。服が濡れるのも気にせず、さっきの鳥乃よりも勢いのいい水しぶきを上げながら彼女に近づく。昨日の雨のせいで水かさの増した川は、何度も点の細い足を掬おうとした。
「鳥乃!」
 やっと鳥乃の元へたどり着くと、点は崩れ込むように鳥乃の身体を抱きしめた。力一杯抱きしめた。
「嫌だ、鳥乃、嫌だ…!」
 自分にすがりついて泣きわめく点を見ながら、鳥乃は「ああ」と思った。
「思い出した。柴犬だ。わたしはきれいな川で泳ぐ柴犬が見たかったんだ」
「鳥乃、岸に上がろう。すぐに救急車を呼ぶから」
 必死に叫ぶ点の頬を、鳥乃の濡れた両手が強い力で挟んだ。
「ねえ、気持ちいい?きれいな水は気持ちいい?濁った川より良いにおいがするの?しあわせなの?」
「鳥乃…」
「わたしもしあわせになりたい。魚になりたい」
 点の両目から、ぶわりと涙が溢れた。幼い点には、もうどうしたらいいのか分からなかった。点は心の中で、何度も鳥乃の名前を呼んだ。こちらを見ながら、こちらを見ていない鳥乃の名前を、何度も繰りかえし呼んだ。それでも、鳥乃が点を見ることは一度もなかった。



 



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