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 その朝、鳥乃は絶望した。唐突に、世の中の全てがいやになった。昨日までかわいがっていた水槽の中の二匹の金魚すら、とても疎ましく感じた。
「ああ、ああ…」
 叫びたい、そう思って、同時に点に会いたいと思った。点?点とは誰だ。ああ、柴犬だ。夏になったら、あの透明な川を泳ぐのだ。楽しそうに。
「夏だ」
 鳥乃は呟いた。それから急いで制服に着替えて、鳥乃は自転車にまたがった。辺りはまだうす暗く、時計は朝の四時を指していた。
 鳥乃は自転車をこいだ。必死でこいだ。川に着いた。点は、二人が出会った日に鳥乃がそうしていたように、両足を川につけて歌を歌っていた。あの日に鳥乃が歌っていた歌だった。そうだと分かるのに少し時間がかかるほど、点の歌は下手くそだった。そんな点が、どうしようもなく愛おしくなった。鳥乃は静かに自転車を止めて、ゆっくりとゆっくりと点に近づいた。
「鳥乃?」
 気配に気付いた点が振り返った瞬間、すでにすぐそばまで近づいていた鳥乃は点の背を強く押した。点は声も上げずに、あっけなく川の中に落ちた。少し深めの川の中で、点は唖然として、一度ぶるりと震えた。やっと状況を理解して、これが夢ではないと分かると、捨てられた子犬のような目で鳥乃を見上げた。
「鳥乃…」
 鳥乃は点を見下ろしながら、思っていたほどの感動は感じなかったので、こんなもんか、と思った。それでも水滴に濡れた点の髪の毛はとても綺麗で、鳥乃はしゃがんでそれに触れようと手を伸ばした。点は少しびくりとしたけれど、困ったような顔をしたまま大人しく髪を触らせた。
「かわいいね、点。柴犬だ」
 点は鳥乃の後で輝き始めた太陽のまぶしさに目を細めながら、逆光で輪郭しかない鳥乃の口元が、わずかに緩んだように見えた。

 点の家で、鳥乃は濡れた点の頭をバスタオルでがしがしと拭いた。その力は容赦なくて、点はよたよたとよろけた。
「点は細いなあ」
「鳥乃こそ」
 言い返しながら、点は夢で見た鳥乃の白い腹を思い出し、どきりとした。何かに耐えるようにぎゅっと拳を握る。自分がどうして突然川に突き落とされたのかも未だに分からない。
「ねえ、鳥乃」
 相変わらず冬服の鳥乃に、点はずっと尋ねたいことがあった。今まで口に出すことをためらっていたその疑問を、今なら声にできると思った。
「腕の包帯は…」
 点が呟いた瞬間、鳥乃は点の頭を拭いていた手を止めた。そうして、じいっと点を見つめた。点はまた夢を思い出した。電気をつけないリビングの薄暗さは、夢でみたそれとまるで同じだった。
「見る?」
 鳥乃が言った。点はゆっくりと首を横にふった。鳥乃はまるでそれが見えなかったように、左手の袖をまくった。相変わらず下手くそに包帯の巻かれているそこは、異様な雰囲気で点を圧倒した。
「いい、見たくない」
「見て」
 鳥乃は緩慢な動作で、それでも慣れた手つきで、何重にも巻き付けられているそれを外していく。そうしてすべての包帯を外し終えた手首を、鳥乃は点に見せつけるように突き出した。
「見たくないよ」
 点はぎゅっと目を瞑った。怖くてたまらなかった。ふいに、点は後頭部に痛みを感じて、同時によろけた。鳥乃が点の後髪を掴んでいた。身体で押されるように後ずさって、腰がテーブルに当たった。いつも鳥乃とココアを飲んでいるテーブルだ。そのまま押されて、点はテーブルに肘をついた。ガタン、と大きな音がした。
「いやだ」
「目を開けて」
 点は泣きそうになった。テーブルの上に上半身を乗せて仰け反るような状態で、覆い被さる鳥乃の体温を腹に感じた。点がゆっくりと目を開くと、目の前に、鳥乃の手首があった。始めは近すぎて見えなかったが、じんわりと焦点が合ってくると、そこにはやはり青白い鳥乃の肌があった。鳥乃の手首には夢で見たような傷などひとつもなく、少しだけ骨張っていて、ただただきれいな手だった。
「怖いか」
 鳥乃が問うた。
「わたしが怖いか、点?」
 点の頬を涙がひとつぶ伝った。けれどこれは自分の涙ではなく、鳥乃の涙なのではないかと、彼女のきれいな手首を間近に見ながら点はぼんやりと思った。



 



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