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メモ

 「露台惜費図」は名古屋城上洛殿、上段の之間に描かれた狩野探幽による襖絵である。紙本着彩金泥引で全四面、大きさは各191.5×140.5cmである。
 御成書院、白書院とも称された上洛殿は、将軍家光による寛永11年(1634)の名古屋城御成りに先立ち、藩主の義直がその迎賓館として造営した御殿である。宿所であるとともに、内々の体面を兼ねた御殿であった。上段之間以下六室から構成され、上段之間と一之間は「帝観図」、二之間は「琴棋書画図」、三之間は「山水花鳥図」の主題の障壁画がそれぞれに描かれている。これらは全て狩野探幽によるものと見られており、今回の「露台惜費図」は上段之間に描かれる「帝観図」のうちの一つである。
 探幽は右近孝信の長子として慶長7年(1602)、京都に生まれた。幼少の頃より類いまれな画才を発揮し、その神童ぶりをうたわれていたという。慶長17年(1612)、駿河で徳川家康に謁見し、その五年後の元和3年(1617)には江戸幕府の御用絵師となった。元和4年(1618)に父の孝信が他界すると跡を相続したが、弟の尚信を京都に残すと三年後には屋敷を得て本拠を江戸に移している。江戸城、二条城、名古屋城などの絵画製作に携わり、大徳寺や妙心寺などの寺院の障壁画も製作している。
 やまと絵も学んだ画家で、描く主題は山水、花鳥、人物など幅広い。初期は永徳風の雄大で豪快な作品も描くが、後に水墨を主体とした瀟酒淡白、端麗な作品を描くようになる。墨線の太さを巧みに扱い、余白を活かした画風で有名となった。
 帝観図や琴棋書画図は中国人物画として多く知られる。徳川幕府は儒教的な倫理観を支持しこれを規範としていたため、これらの訓戒人物を主題とする障壁画が好んで描かれた。訓戒画の中でも典型的な画題とされたのが帝観図で、これは施政者が常に心すべきとされる善行81項、戒慎すべき悪行36項をまとめたものである。これら117項は唐代から宋代におよぶ中国歴代帝王にまつわっているという。上洛殿にはこれらのうち、漢代の善行が描かれている。
 露台惜費の内容は、文帝が驪山の上に露台をつくろうとして大工を呼び費用を問うと、百金必要なことがわかる。帝は一つの露台のために中産階級の十戸分にあたる財貨を消費する事を考えて建立を中止したという。上洛殿の「露台惜費図」は、殿中の文帝が大工から費用を聞き出す場面で、左方の丘の上には待機する大工たちが描かれている。物語の主要モチーフのみを集約的に描き、余白として残した部分に金泥子をまいている。


 広い画面中に少人数の物語の登場人物をどう配置し表現しているのかが気になった。この画面内には二つの場面が登場している。中央から分けて左二面では、帝に呼ばれた工匠三名が、恐らく驪山で確認しているところが描かれている。岩肌などはやや早い筆致で、掠れたような墨の表現で描かれているが、木の葉の様子や人々の顔などは非常に丁寧に描かれているのがわかる。墨もやや赤みがかったもの、青みの強いものとを使い分けているのかもしくは絵の具を使っているのか、木々一本一本の違いまで細かく描写されている。遠景に見える山々は少し薄くぼんやりと描かれ、西洋の空気遠近法的なものが感じられる。人物を除いて考えると、探幽はこの絵の中で近景、中景、遠景を、見事に墨線の太さ、細さでも表現している。
 右二面では建物と帝たちが描かれている。建物全体を描くのではなくあえて一部の重要なところのみを描いているが、それにより人物たちの様子を目立たせ主題をはっきり表す効果がある。金泥子がうまく場面の中心部以外を隠しているが、帝をぐるりと囲むように描くことで帝の重要性、厳格さを見る者にかんじさせている。
 近景の樹木は太く掠れた墨線を用いることで木肌の質感を上手く表している。岩肌のときとはまた違った筆致を用いている事がわかる。
 左二面に描かれた場面と右二面に描かれた場面では、物語的に考えると実際はもっと遠く離れた場所で起きたことであろう。しかし探幽はこの二つの場面を襖四面分に収めるために驪山の場面を手前に、帝のいる場面を奧に配置し遠近感を持たせている。工匠三人の大きさが帝たちより大きく描かれている事からそう推測する。画面全体で見ると、工匠たちを近景、帝たちを中景、そしてその二場面をまたぐように山々を描き遠景として表現することで、全ての場面にまとまりを持たせているのではないだろうか
 ところで襖絵は、常に四面全てが現れているわけではない。襖を開けば中央寄りかもしくは外側二面は隠れてしまう。この「露台惜費図」においては、開くと外側二面が隠れてしまうようだ。探幽はここまで計算したうえでこの構図を描いている。なぜなら、主題となるメインモチーフは全て中央二面に納められているのである。そして、この襖の裏面に描かれている「明弁許書図」では主題人物は一番左の一面に集中している。襖を開いたとき何が描かれているのか全くわからないのでは意味がない。こうした障壁画や襖絵の、建物の構造と密接に関係した"用の美"とも言えるような性質に、私は西洋にはあり得ない、日本独自の美術の面白さを発見した。












【参考】
・障壁画全集 名古屋城 昭和12年 大下敦 美術出版社
・日本美術絵画全集15 昭和53年 武田恒夫 集英社
・水墨画の巨匠14 1994年 松永伍一 講談社
・原色日本の美術12 1968年 藤岡通夫 小学館

メモ

 資料の保存についてというテーマについて、今回私は東京藝術大学の高橋由一展を見に行った。
 館内は一階から入り、上階と地下にそれぞれ展示スペースが配置されていた。もちろん窓は存在しない。入口から入る風の流れは完全に断たれていると言って良いだろう。
 由一は近代洋画の開拓者と言われているが、洋画を売り込み人々に油彩を知って貰おうとする際に「油彩画は長く保存がきく」という点を強調したという。確かに日本の紙本、絹本彩色と比べると比較的画面の劣化や彩度の変化などは少ないように思える。今回由一の作品を実際に見て、同時代の日本画と比べても彩度の変化という点ではやはり油彩の方が優れているのではないかと感じた。
 由一の代表作の中に「鮭」があるが、それらの中に一枚の板の上に描かれた作品が存在する。保存するにあたり、このような板に描かれた作品はカンバスに描かれた作品とはまた違った注意が必要だという。ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」やヨーロッパの板絵美術でもよく言われているが、空調管理もそうだが虫食いの危険が大きい。今回の由一展ではガラスケースに入ったりせずただ壁に掛けて展示していたが、それにあたっては大変な配慮がされていたのではないだろうか。
 展示室内には由一の作品の他に同時代の画家の浮世絵や直筆の本や絵巻物などが展示されていたが、それらは全てガラスケースに入れた展示となっていた。ここで、美術館では油彩作品は普通に壁に掛けて展示する事が殆どだが、紙や絹に描かれた東洋美術作品はガラスケースに入って展示されている事が殆どであるという事に気付いた。やはり油彩作品は保存するのが比較的容易なものなのだろうか。



 入口を入ってすくに、先ず松前記念館の歴代のパンフレットの展示とともに記念館の説明がされている。そこから中へ進むと東海大学創立者、松前重義の生い立ちから東海大学の原点である望星学塾についての説明パネルが展示されている。その隣には内村鑑三との出合いやデンマークへの思いなど、松前重義についての展示が続く。直筆の文書や本の実物展示がされ、文字や写真のみではなく実物を見て読んだり監察したりできる。続いて無装荷ケーブルについて、また電話機の変更、民間放送(FM 放送)の始まりが東海大学に関連付けて説明される。並べて東海大学の建設と松前重義に深く関わった人物達の紹介、1号館建設時の設計図などが展示される。二階は東海大学情報技術センターの活動による展示が続く。こちらは一階の展示内容とはまた異なり、主に科学や自然現象についての展示となっている。宇宙飛行士である山崎直子氏のサイン入りエンブレムの展示や震災前後の衛生写真を比較したものなどが展示されている。
 全体図で見ると創設者松前重義についての解説から始まりその実績、活動内容、関わった人物や東海大学について説明された後に現在の活動について、という流れになっていた。
 展示にはパネルや直筆文書の他、無装荷ケーブルと並んで電話機が置いてあり直接触れることが出来るようになっている。説明VTRも説明パネルと同じ場所に関連して流されている。
 上述のように、少し理解するのが難しいと感じた無装荷ケーブルの展示スペースで人の話す説明と同時にVTRで図なども使って説明してくれると、あまり興味のない内容でも「とりあえず見てみよう」という気持ちにさせる効果があるのではないかと考えた。また日本語だけでなく英語による文章があるのも良い。東海大学には多くの外国人留学生が在籍しているので、こういった英語の解説もあると見に来てくれる人が増えるのではないかと思う。そして展示室全体の雰囲気だが、狭い通路をひたすら進む形式ではなく比較的広い空間の中に展示が配されているようなので、何となくリラックスした気分で見て回る事が出来た。
 印象に残ったのはやはり二階の衛生写真のパネルであった。テレビでも海岸線の比較は何度か目にしたことがあるが、あのように大きなパネルで間近にじっくりと見ると改めて震災がどれほど大きく衝撃を与えたのかがよくわかる。二階に上がってすぐの展示なので存在感がありインパクトが大きい。そして一階で見てきた科学技術の発展の一端について知ってからだとより自然の力と科学の力の強さの違いを思い知ることとなった。松前重義が科学技術の平和的利用を目指した理由の一つが原爆など核についてだとして、その原因は人の行為であり人災であるとも言えるのではないだろうか。東海大学がそういった意味での科学技術の平和的利用を目指す過程で創設されたのだとすれば、今後は自然と上手く付き合っていく上での科学技術の利用を目指すという意識への変更が大切なのだろうという思いになった。

めも

「燕子花図屏風」
尾形光琳(おがたこうりん)筆
江戸時代 18世紀
紙本金地着色
6曲1双 (各)縦150.9cm 横338.8cm
根津美術館

東京根津美術館に収蔵されている「燕子花図屏風」と並べ、同モチーフを描いたメトロポリタン美術館の「八ツ橋図屏風」が展示されるという事で興味を持った。
屏風という素材に描かれる事で、平面の画面に描かれるものとどういった効果の違いがあるのかという事も考えてみたいと思った。


尾方光琳(1658-1716)は京都の裕福な呉服商雁金屋の次男として生まれた。弟は陶芸家として名を残した尾方乾山(1663-1743)で、経済的にも文化的にも恵まれた環境に育った。しかし大名貸の回収不能のため雁金屋は傾いていく。光琳はその後関東の新都江戸に向かい、生活と芸術の面で打開を試みる。

燕子花図屏風は六曲一双の金箔地屏風に
燕子花の花と葉のみを描いた作品。「紅白梅図屏風」(静岡 MOA美術館)と並び、光琳の最高傑作として有名である。
この燕子花のモチーフは『伊勢物語』の第九段の一場面場面だという。第九段では、人生に倦怠を感じた京都の男が江戸へ旅へ出るが途中、愛知県の八ツ橋で咲き乱れる燕子花の花を見るという場面が描かれる。光琳はこの「燕子花図屏風」の他に「八ツ橋図屏風」(メトロポリタン美術館)など伊勢物語の同場面の作品をいくつか描いているようだ。この作品では橋も、登場人物も、水の表現さえも省略されどちらかと言うと花鳥画のような印象を持つ。
燕子花の群れは大きく分けると左隻、右隻共に4つずつに分ける事ができ、それらがリズム良く流れるように配置されている。花の群れの繰り返しの一部には高低を変えて型が用いられている。これは金銀泥木版刷や、尾形の家業であった染織工芸において用いられる技法である。


図版等で見ていた時には、燕子花の堂々とした筆致による存在感と言うか、金地と燕子花の青と緑の鮮やかな対比と言うのか、とても存在感のある作品だという印象を持っていた。しかし実際に根津美術館へ行ってみると、屏風の大きさとしては想像していたものよりも小さく感じた。

輪郭線も明暗もほぼ存在しないが、重なりあった一つ一つの燕子花が同化することなく描かれている。花の部分の青と葉の緑を上手く配置しているのだろう。光琳の緻密な計算と繊細に描いていったであろう様子が伝わってくる気がした。実際、どう配置図すれば個々が独立して見えるのかという事を考えながらあの画面全体に群生する燕子花を描いていくのは大変な作業であったのではないだろうか。一部の群生を型を用いて描いたという記述がある。私はどこにその技法を用いたかという部分は調べずに実際に見て探し出すつもりで観察したが、右隻に一か所しか見つける事しか出来なかった。しかしそれも型を使ったと言われ真剣に探してみなければ気付かないような自然や描きかただったように思う。
背景の金地も、金箔を貼っただけでなく、金箔を貼り合わせたような線を上から描いたものだという記述も以前どこかで見たことがある。近くで見ても確認は出来なかったがもし本当であれば、主題モチーフである燕子花には線を用いず、背景にそういった"線"的な描法を用いているところに光琳のデザイン性を感じる。光琳は生まれた家が呉服商であった為に、織物の図柄が常に身近に存在した。そういったデザインのようなものの感性は人一倍優れていたのではないかと推測した。
奥行き感(遠近感)に関しては、陰影を用いていないのにも関わらず何故か空間を感じる。Wを描くように描かれた燕子花の配置と関係があるのではないかと考えた。屏風を実際に使用した時、この燕子花の波が屏風の凹凸と呼応してより遠近感が増すように考えられ描かれたのではなだろうか。そして同時に、 燕子花一つ一つの大きさが変わらない為なのか密集し、押し寄せてくるような感覚がする。
実際に使用したわけではないので想像だが、この二隻の屏風を用いる際に向かい合わせに配置すると、見る者は自分が立っている2つの絵に挟まれた空間がまるで『伊勢物語』の"橋"であるように錯覚したのではないだろうか。それが左右から押し寄せる燕子花の花との効果も相まって、見る者を八ツ橋の世界に誘い込むような効果をもたらしたのではないかと考えた。同じ主題の「八ツ橋図屏風」(メトロポリタン美術館)と比較すると、こちらは橋が画面中に描かれ燕子花は斜めに対角線を描くように配置されている。私達と作品の中の世界が完全に断絶されていて、物語を読んでいるような感覚だ。「燕子花図屏風」は見る者すら光琳の作品の世界に連れていこうとする意図を感じるように思った。


比較的速い筆致で描いているが、モチーフの配置や微妙な色彩の変化を計算している事から、とても丁寧に製作が進められていった事が感じ取れる作品であった。
また私の考えた事がもし当たっているならば、光琳は見る者の存在、"見られること"に対してとても重要視していたのではないだろうか。遠くにあるものと近くにあるものの差を表す、つまり奥行きを感じさせる空間感ではなく、自分が絵画空間の中に存在しているような錯覚が出来る空間感が存在している作品だと思った。

心機一転

去年の11月頃からまともな更新せず放置だったので、過去記事オール消去して心機一転また始めます\(^o^)/

はじめましての方が殆どだと思うので少し自己紹介をば。

あきは、改めあきは原と申します*^^
現在スザルルに夢中な腐女子です。

同志様、腐女子仲間さんは是非仲良くしてやって下さい(*´∇`*)
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