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舞台美術

私が普段美術に触れることが多いせいもあるだろうが、どうしても舞台芸術の中での美術の存在は最も重要なものではないかと考えてしまう。バレエでも演劇でも歌舞伎でも何でも、観客が共通して真っ先に視界に入り最初に感じるものは恐らく舞台美術である。何をするにしても、開幕後は舞台上に登場人物が出てくるまでは役者たちよりも全体の雰囲気作りに貢献しているだろう。そして恐らく、舞台に対するイメージや雰囲気もここである程度決まってしまうのではないだろうか。全体の空気を作り出すのは音響効果や照明の力があってこそだろうが、舞台美術はそれこそ全ての基礎・土台となるものなのではないかと考えている。時に情景描写の面では役者の発する台詞よりも効果的に観客に伝える術かも知れない。しかし舞台美術はあくまでも土台であり、メインとなる役者を引き立てるものでもあるべきである。「美術」としてどこまで主張が許され創造的であれるのか、その辺りのバランスは私にはまだわからないが、通常言うところの「美術」とは全く違うのだろう。
 限られた舞台という空間内で、奥行きを持たせる、横の空間の広がりを感じさせる、現実空間のようなリアルさを追求する、といった方針の采配は通常の美術と同様、アーティストの主義・主張の表現のようなものだと考えられるのではないだろうか。監督や演出家の指示には従わなければならないだろうが、実際製作する人々は多少なりとも自身の持つ技術や経験に従った仕事をするのではないかと思う。照明・音響・役者の演技も含め多くの"芸術家"の作品が上手く調和したものが"舞台"であるのではないだろうか。そう考えると舞台芸術とは数多くの芸術分野の複合した1つの作品であるとも言えるのではないか。
 しかし舞台における主役はあくまで演じたりパフォーマンスをする人間であり、それら以上には決して目立ってはいけない。どんなに舞台美術を頑張ってもそれは雰囲気作り以上の働きは出来ないのだろう。個人的には歌舞伎や演劇を見る時は照明や舞台上の設計、配置などの細かい所まで見て確認したいと思っているが、美術に関心の薄い人が見ればそれらは誰がどのようにつくったものにしろ殆んど差がないように見えてしまうのかも知れない。そういった観客ばかりの中でもあっと言わせるような素晴らしい舞台美術。そういうものを見てみたいと思う。

ジャーナル

朝日新聞、読売新聞の記事を見てみると、まず朝日新聞の方は〜割という表記とパーセンテージ表記を併用しているが、読売新聞の方は世論調査の結果を細かくパーセンテージで表記している。また読売新聞は前年との比も記載しており、数値的には非常に解りやすくまた新聞社側の主観があまり含まれない客観的な記事という印象だ。対して朝日新聞は、世論調査の結果を踏まえた自社の意見を踏まえた記事を展開している。大学教授など専門家の意見を右上の一番目に入る位置に書いているのも、世論調査の結果そのものよりもそこから読み取れる考察を重視している現れではないだろうか。主観が含まれ過ぎる記事の書き方になってしまうと新聞としては問題があるが、私個人としては朝日新聞の記事の書き方はとても読みやすいと感じた。
読売新聞の記事から受ける印象は、確かに正しい報告なのだろうがまるで箇条書きで淡々としているようで、のめり込んで読むような文章ではない。しかし円グラフなども多用されていてとても見易いところも本当に報告書のような印象で、世論調査のリテラシーの面から見るととても理にかなった記事ではある。世論調査の質問内容についてもニ択やはい、いいえで答えるような質問ではなく複数から選択する方式という点も、正確に国民の意見を聞き取るのに相応しいのではないだろうか。
朝日新聞の世論調査の質問はニ択や三択が多く、複数から選び出すような質問が多いという印象を受けた。しかもわかりきったような質問もあり朝日新聞社の意図が私には読めない。しかし記事の内容が面白いのも確かである。事務的な報告ではなく何かしかの意思や意図が読み取れてしまうような文章の方が親しみやすく読みやすい。リテラシーの面から見ると「公正中立な立場からの報道」の点では問題があるように感じられるが個人的には、一般人の私の目から見ると公正中立な立場からの報道はNHKを見れば十分であり、個々人の意見が隠れ見えてくる方が面白い。

世論調査のリテラシー的に機械的に見て考えると、どう考えても読売新聞の方が相応しい。しかし朝日新聞は朝日新聞でこのスタンスを貫いて欲しいとも考える。

評論史

・園家誠二(1960年ー)
 園家誠二は富山県出身の抽象日本画家である。1984年に東京学芸大学卒業後は複数の展覧会に出品し、また複数の個展も開催している。現在は個展は開かれていないが、日本経済新聞本社ビルにて「月光」「うつろい」の二点が展示されている。

 私が園家誠二の作品と出会ったのは中学一年の頃であった。当時は絵画作品への興味は殆どと言って良いほど無く、"抽象絵画"というものがどんなものかという事やその良さについては何も知らなかった。その頃の私が園家誠二の抽象日本画を見て思ったのは「何を描いているのかわからない、黴の絵みたいだ」という事であった。
現在は多少の絵画の知識も関心も有るため、改めて園家誠二の作品について考えてみたいと思う。

 園家誠二の作品はどれもアクリル絵の具、岩絵の具、墨、雲母、金泥などをエアブラシを用いて木枠に張った紙に吹き付け、柔らかなタッチで描写している。作品製作をする際に取材する事は無く、それまで見てきた風景、光景の中から目に浮かんだものやイメージ出来たものを描き出しているという。画面は横長のものが多い。

 作品のタイトルは「山 川」や「星月夜」、「月光」など具体的なものをイメージさせるものもあるが、「うつろい」のように抽象的なものも存在している。園家自身は、作品をどう観るかは鑑賞者に任せ、自らは総体的に作品名をつけていると語っている。
 「山 川 3」を見てみる。「山 川」シリーズは画面が全体的に暗い印象が強いが、「山 川 3」は画面内に白を用いた部分も多く比較的明るいイメージである。「星月夜」ほどではないものの、画面上部の左右の隅には墨の使用が少なく、地のままの色に近い明るさである。私はこの風景を川の様子ではないかと考える。この作品からは冬の冷たい空気のような、夏の森の中での朝もやのような冷たく澄んだ空気を感じる。園家の作品にはどれも言えるかも知れないが、霧雨のなか、もしくは上述したように朝もやの中から向こう側に広がる景色を覗いているかのような不思議な気持ちになる。「山  川 3」は特に、画面中央付近に散らされた白の岩絵の具の存在が、山の上、崖から落ちてきた大量の水が下に落ち弾けとんで発生した細かい水しぶきが、画面内の空間に充満する様子をよく伝えてくる。この白の岩絵の具の有無で、この作品全体に感じる印象は大きく変化するのではないだろうか。これが無かったとすると、静かに滴り落ちる水というような印象に変わるのではないか。この水しぶきは自然の激しさ、力強さなどを感覚的に伝える役割も持っているように思う。
 同じシリーズの「山 川 4」を見ると、こちらも縦の動きが強い"水"の表現であるように見えるが、こちらは「3」と違って穏やかな滝の裏側から外の風景を眺めているような静けさがある。左端に見える黒っぽい縦の筋は傍らの古木のようにも見えるし、岩肌のようにも見える。
 こうして園家の「山 川」シリーズのみを見ているだけでも、園家の表現する風景が鑑賞者によって本当に様々な見え方をするのだろうという事を実感する。今回これだけ観察し考察した「山 川 3」も「山 川 4」も、また明日見直してみると全く別の風景に見えるかも知れない。実際「山 川」の残りのシリーズを見ても、山の形のように見えはするものの「絶対にこの絵は○○を描いている」という確信は持てないし、人によって様々なものに変化するのだろう。雨の降る中遠くに見える山を見ているようにも、静かな池や湖の水面に映る風景を描いているようにも見えてくるのだ。
 園家は「こういった風景を表現したい!!」「この場面を人に見てもらいたい!!」と思って描いているのではないのかも知れない。見る人見る人それぞれが考える美しい風景を想像させたいのではないだろうか。画家自身が表現したい事を作品に表し、鑑賞者がそれを受けとるという一方的な美術鑑賞の形ではなく、画家が示した非常に抽象的なビジョンの中から鑑賞者がそれぞれの美術を当てはめていくという相互に影響しあう美術鑑賞と言って良いのではないだろうか。イメージを押し付けてくる作品ではなく、園家の作品はどれも鑑賞者(受け手)がつくりだすアートと言えるだろう。
 私以外の様々な人々が園家の作品を見て、どのような印象を受けるのか、どんな気持ちになるのかが気になってくる。全く違うものに見えるとしたら、これほど興味深いアート作品は無いだろうと考える。

東洋造形

 佐伯祐三は1898年、大阪の光徳寺という寺の住職の子として生まれた。兄、祐正が父のあとを継ぎ住職となったが、祐三は父から医師になることを望まれていた。しかし祐三の画家になりたいという意思は強く、中学校に通う傍ら黒田清輝に学んだ画家、赤松麟作の洋画塾で絵画を学び始める。中学校卒業後は上京し川端画学校で洋画家藤島武二の指導を受け、更に東京美術学校洋画科に入学している。東京美術学校在学中に主に師事した三人の画家達は皆明るい色彩の作品を描く画家であったが、当時から佐伯の画風は現在よく知られている作品の落ち着いた色彩表現の片鱗が見られたという。
 1923年に東京美術学校を卒業すると、同年、妻子と共にフランス、パリへと渡る。そこでヴラマンク(1976ー1958年)に出会い、師事するようになる。ヴラマンクからは「アカデミック」と攻撃の言葉を投げられた佐伯の作風は、ここから大きな変化を遂げる。セザンヌ風の空間表現重視であった作風から、暗く落ち着いた色彩を用いたヴラマンク風の物質感重視の作風への変化である。この頃から佐伯は街中の壁に貼られたポスターやレンガ壁などのモチーフを描くようになり、激しい筆遣いによる自己の画風を確立していった。
 1926年、妻子を連れ故国へ戻り、前田寛治や里見勝蔵(1895ー1981年)などと共に「一九三〇年協会」を結成し、また秋には第十三回二科展にフランスでの作品19点を特別陳列し、二科賞を受賞する。ここから佐伯の華々しい活動が始まるが、日本で描きたいモチーフを見付けることが出来なかった佐伯は、翌年再びパリへ向かう。しかしその後一年も経たないうちに結核を患い、また精神面でも不安定となり1928年8月に死去している。
 今回私は、1927年以降、佐伯が再びパリへと渡った後に描かれた作品について、「広告貼り」を中心に考察してみたいと思う。

 「広告貼り」は1927年に73.4×60.2cmのカンヴァスに油彩で描かれた作品で、現在はブリヂストン美術館に所蔵品されている作品である。
 灰色やくすんだクリーム色で描かれた壁に、白や原色で描かれたポスターの文字が鮮やかに浮かび上がっている。ポスターは古いものの上から何重にも重なって貼り直されているのだろう、全ての文字をはっきりと見ることは難しい。左端にはこの作品のタイトルである広告貼りの男が一人、仕事道具であろう長い棒と梯子を隣に立っている。画面中央部には鈍く青緑色に光る扉が存在感強く描かれている。扉は少し開かれているのだろうか、全体的に白に近い画面内で扉の黒だけが奥へと沈みこんでいる。手前には歩道と思わしき描写があるため、この壁の風景は恐らく通りを挟んで見ていたのだろう。
 佐伯はこのような大量に貼られたポスターと扉のモチーフを何点か描いている。同年に制作された「ラ・クロッシュ」(カンヴァス、油彩 52.5×64cm 静岡県立美術館)や「カフェ・レストラン」(カンヴァス、油彩 64×50.3cm)などがその代表として挙げられるだろう。これらの作品は広告やポスター、ガラスに貼られた文字などと共に扉がその画面内で強烈に存在を主張している。
 「ラ・クロッシュ」は立ち並ぶ背の高い建物を遠景に、大きな広告が貼られた左右にのびる壁、またその前を通行する人物が描かれている。ここでは広告の文字が強いアクセントになりつつも、鑑賞者の目は画面右に描かれた細長い扉へ向かう。画面左側の文字が溢れた騒がしくまたある種派手とも言える空間に対し、画面右側の静かで落ち着いた雰囲気の対比が魅力的である。壁の向こうの空間を描くことで、鑑賞者はその先の空間へ繋がる扉を無意識に意識してしまうのではないだろうか。
 「カフェ・レストラン」ではさほど多くはないもののガラスに文字やポスターが貼られている店の扉が、私たちを誘い込むように少し開いている。一瞬廃墟とも取れそうな雰囲気だが、近景に配置されたテーブルの上に置かれたグラスがこの店の利用者の存在を主張する。店内がどうなっているのかしっかりと確認する事は出来ないが、それが余計に好奇心を誘う。この作品を見ていると、開いた扉の間から中を除きたくなる欲求にかられてくる。ここではヴラマンク風の物質感と共に、初期に佐伯が学んだセザンヌ風の空間感が混在している。この空間の中では、完全に扉が主役なのである。
 これらの作品を踏まえ「広告貼り」を見てみる。タイトルこそこの作品の主題は左端の広告貼りの男性であるが、画面配置を見てみるとやはり一番目立つのは大量の広告と扉である。ここで私は、この作品の主題は広告貼りの成す仕事そのものであると私は考える。広告貼りという仕事自体、日本人には馴染みの薄いものであるはずだ。広告がびっしりと貼られた壁というものも、日本に居る限りはそうそう目にする機会がない。また他の作品と比べても、ここまで広告の比率が大きいものは無い。文字の溢れる画面というのは鑑賞者に強い印象を与えてくる。佐伯がこの作品で目指したのは、そういった鑑賞者に与える大きな衝撃ではないだろうか。この作品を一度目にすれば、"広告貼り"という馴染みの薄い仕事も二度と忘れる事は出来ないだろう。佐伯はフランスの地でこの光景に圧倒され、また興味を持ったのではないか。そしてその衝撃を作品という媒体で他の人々にも伝えようと考えたのではないだろうか。パリの日常風景を、印象的にしっかりと伝えてくる。
 無機質でありながらもパリの人々の生活に密着しているこの風景はとても温かく感じられる。人物の描写が少なくても、この街に住見生活する人々の存在を強く感じるのである。

 ヴラマンクに師事してもなお、佐伯は幼年期から学び続けた空間表現にも執着を見せているように思う。 それがこれら、扉をモチーフとした作品ではないだろうか。空間の広がりは物質的には確かに壁までで終わっている。しかし少しだけ開かれた扉が壁の向こう側の空間を主張してくるのだ。完全に鑑賞者の想像の話になってしまうが、佐伯は壁と同時に扉を描くことで画面奥へと続く空間の表現を目指したのではないだろうか。私は佐伯の描く広告の壁と扉の作品に、写実とは言えないアンバランスな画面内に広がる空間の存在を感じるのである。

メモ

 私は今回のレポートを書くにあたり、速水御舟の「炎舞」を選んだ。私は以前、実物ではなく図版ではあったが、この作品を初めて目にした瞬間に引き込まれるような強い衝撃を受けたのを覚えている。描かれているのは炎と蛾の群れのみであるにも関わらず、酷く印象に残った作品であった。気にはなっていたが今まで調べる機会もなく、速水御舟についても何一つ知らなかったため、この機会にきちんと調べ考察してみようと考えた。

 「炎舞」は重要文化財に指定されている。1925年に製作され、大きさは121×53cm、絹本著色で現在の所蔵は山種美術館である。
 縦に長い長方形の画面全体を埋め尽くすように燃え盛る炎と、その炎の光に吸い寄せられ群がる蛾が9匹描かれている。炎は、画面下部では燃え盛る炎の本体が紋様を描くように細かい装飾的な表現で描かれている。写実を追っているというよりも、どこか古典的で装飾的意味の強い表現であるように感じる。対してその炎の上部では、巻き上がる火の粉の描写がこの空間の風の動きすら感じ取れそうなほど巧みに描かれている。柔らかく、繊細に描かれた火の粉の柱は画面上へと伸び、巻き上がり上空へと続く様子が伝わってくる。この長く伸びる火の粉の様子から、激しく燃える炎の様子が強調されている。
 9匹の蛾の周囲もぼんやりと赤く染まり、炎の光の反射する様子とその熱を伝えてくる。薄く炎の赤に透けそうな羽のが、蛾が羽を忙しなく羽ばたかせながら炎に翻弄される様子を表現している。どの蛾も羽を大きく広げた状態でそれを正面から見たような、張り付けられたような構図で描かれているがそれに違和感を感じないのは、炎の装飾的表現と相まってどこか現実離れした雰囲気が感じられるからであろう。しかし蛾自体の描写は非常に写実的で、御舟が他に描いている蛾のモチーフの作品やデッサンと通じる。
 「炎舞」は写実性と装飾性が同時に表現され、独自の雰囲気を醸し出している作品である。本によると、この頃から御舟は徹底した客観的写実の追究(細密描写)から離れた作風を描くようになったという。
 「炎舞」が描かれた1925年の夏、御舟は家族と共に軽井沢で過ごし、そこで得た様々な自然的な題材の一つが、この炎に群がる蛾であったという。


 御舟の初期の作品から順に見ていくと、その画風の変化の大きさに驚かされる。御舟は40年という短い生涯ではあったが、その間に産み出された作品たちは年代によって様々に変化している。
 1920年前後の作品を見ると、西洋画法を取り入れてからまだそこまで時が過ぎていなかったのか、全く違和感のないデッサンと質感、光の表現に満ちている。そこから数年程しか経過していないにも関わらず、「炎舞」では全く異なる雰囲気の作風へと変化していっている。初め見た時は、本当に同一人物が描いたものなのだろうかと疑ったほどだ。これらの変化から、様々な技法や画家の作品を取り入れ続けた御舟の抱いていた、絵画に対する興味と情熱が伝わってくるようだと感じた。
 写実と装飾性の過渡期であると感じられるのが、前述した通り、炎が流紋線のように装飾性に溢れた表現であるのに対し、その他火の粉や蛾が細密な写実表現である点である。作品全体としては一見装飾性に富み平面的とも思えるかも知れないが、よく観察してみるとこの作品の中には確かに空間と空気の流れが存在しているのである。炎の明るさが目立つため分かりにくいが、背景の闇の中には恐らく自然が広がっているはずである。四方から炎に向かい飛び込んでくる蛾の存在が、画面内に広がる空間の存在を強調しているように感じる。
 装飾の持つ平面性と、写実の持つ立体性、その二つが混在している事がこの「炎舞」の持つ不思議な魅力を産み出しているのではないだろうか。





【参考】
・20世紀日本の美術6 1987年 小池賢博 集英社
・原色日本の美術30 1972年 河北倫明 小学舘
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