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わけわかんなくなった

体は何の問題もないですよー。心配してくれてありがとうです、大丈夫なのでのーぷろぶれむですよー>夾ちゃん

きみとぼくの壊れた世界、をようやく手に入れたので読みました。戯言ちっくでよかったです。残りを全部買おうかどうしようか悩み中です。ううう、すごく気になる。この不明瞭で不均衡で不安定なままどうなっていくのかすごく気になる…!
あしたバイト帰りにあったら買うことにします。

というわけで追記はわけわかんなくなった頭で理屈こねようとしてずれちゃった話。
でも自己満足だからいいんだ!

追記機能をめったに使わないから、ちゃんと使ってあげないとなーって思います。
暗い話しとか屁理屈は追記に突っ込んでワンクッション置いてくれってメールがあったので、ぼくの個人的主観による作為的な日記なんだからいいじゃないかという気持ちを飲み込んでワンクッション置くことにしました。

どのみちポメラさんで書いたことだからパソコンで上げる→パソの書き込み画面には追記項目がある(携帯だといつもメール投稿)→じゃあ使ってみるかー。
そんな感じ。ぼくはそんなもんだよん。なんてね。

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自分が大切に思うもの

 特に何も思わない。でも、あえて言うなら自分の知識は大切にしていこうと思う。知識さえあれば、暇な時に無意味な戯言を紡ぎ続けられる。時間をつぶすことができる。最後へ至る、灯し火の代わりに。
人が生き続けることで何かを壊し続けるのなら、ぼくは生き続けることでなにかを止め続けよう。それが必ず終わり続けることを信じているから。そしてその最果てに、必ず死んで逝く夜が待っていることを信じているから。
 生まれてくる朝があるならば、死んで逝く夜が必ずある。ぼくがぼくであるということは、どこにも保障されていない。もしかしたらぼくは、夜の子かもしれない。死んだ誰かの名を騙るもの。あるいは朝の子かもしれない。生まれたばかりの何も知らない自分すら存在しない人を騙るもの。
 ぼくは、生きていたくない。いや、死にたい訳でもないけれど。痛いのも辛いのも酷いのも嫌だ。それが長じて、生きていたくないという結論に至るだけで。もうぼくには、ここに存在していることが何よりの苦痛になっているから。いや、もしかしたらその結論にすら至っていないかもしれない。ぼくじゃないぼくが、あるいは誰かが紡いだ幻想を、自分の思想にあわせて思考に沿わせて結論付けただけかもしれない。始まりと終わりがあるならば、途中の経過が必ずあると誰が言ったのだろう。その途中経過こそが、自分を偽り自分を欺く最大の手法であるというのに。
 いつか自分に訪れる終わりは、どんな形であれ望む形ではないだろう。誰一人、望む終わりを迎えられるものはいない。人生は物語で、その物語こそが誰一人望まなかったもの。いったい誰が、望んで生まれてきただろう。誰かに望まれて生まれてきた者はいても、自ら望んで生まれてきた者はいない。それこそが間違いなのだ。生まれて来る意味も、死んで逝く意味も、自分で作らなければいけない。誰かに与えられた意味では意味がない。
 だからぼくは、すべての意味を知るために知識を大切にしたい。いかなる賢者であれ、終わりを刻む砂時計は止められない。だからその砂がすべて零れ落ちてしまう前に、ぼくは自分に意味を与えたい。誰にも邪魔されず、誰にも影響されず、ただ自分に誇りを持って。その誇りすら、今のぼくにはないものだから。
生きていることは幸いではない。ぼくには、幸いじゃない。人のフリをしている人間だから、人の言う幸せが理解できない。望んでいるのは、証明できる終わり。終焉願望は、加速し続ける。ぼくの物語が加速しているのと同じように。だから、どうか。いま持つ知識で、これから持つ知識で、ぼくはぼくに意味を与えたい。ぼくはぼくに理由をあげたい。ぼくがぼくになれるように、そして何よりも、ぼくが早く死ぬために。
ぼくの時間が早く終わればいいのに。そうすれば、そうすれば、なんだろう。分からないけど、分かりたくもないけれど、昏い思考は暗い知識は昏い知恵はぼくをこの世界に鎖でつなぎとめるには十分だ。人である重圧に耐えられるように、人である後悔に耐えうるように、そうやって世界はぼくがぼくのフリをする必要を思い知らせて幾度目かの夜を巡る。
知識がぼくの鎖なら、それこそが解放の鍵だと思う。ああ、脈絡がない。意味のない戯言でしかない。すべてが真実ですべてが虚実で、過去の自分と今の自分が重ならない。それもまた、人として致命傷を負った愚かなヒトの傷なのか。解明するすべも、解放するすべも、救うすべも、今のぼくには、ない。
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高校生活を振り返って

 特に何も思うことはない。ただ、高校生だったなあという感慨だけが残る。もしかしたら大人になって、あるいは家庭をもってそのころになって初めて、自分の高校生活はこんなものだったと振り返るのだろうか。ぼくには過去を懐かしむほどの記憶容量はない。だから鮮烈な印象を抱かなかった過去は、すべて消え去る。一日一日の記憶すら不確かで不安定なのだから、過去を、ましてここ三年間を振り返れといわれても思い出せるほうが不思議だ。とりあえず確かに言えることは、ぼくは確かにここにいて、そしていなかった。
 仲の良いごく一部の友人たちの記憶には、残るだろう。ぼくが一緒にいたことを。けれどその他の、たとえば同じクラスであったとか、同期の卒業生であるとか、そんなおおまかな類の大きな区分けをすれば限りなく誰も覚えていないだろう。多数決をとってぼくの事を聞いても、きっと1桁程度の認識しかない。だからぼくはこの学校へ通っていて、けれど通っていないものとして矛盾を抱き続けられるのだ。それはぼくの痛切な願いでもある。
 誰かの記憶に留まることがいやだ。むしろ、この存在を覚えられていくことが嫌だ。ふとしたときに、「こんな奴いたよな、でもだれだっけ?」程度の認識が好ましい。いや、そうでなければ困る。ぼくはこの世界に留まりたくないから。いや、決して自殺志願とかそういうわけではない。人の記憶に留まり続け、そしてその人達の記憶の改ざんによって『ぼく』が変質することがいやなのだ。覚えられ続けることで、失われるのがぼくだから。ぼくという形が失われてしまうことだから。誰かの記憶に留まるよりも、きれいさっぱり忘れてもらいたい。そのほうがとても助かる。
 ああ、ひとつだけ。高校生活を振り返って思うことがあった。ぼくは確かに、目立たぬように心がけ続けたということだ。楽しいことも興味あることもやりたいと思ったことも、何もかもぼく自身が求めた事柄すべてに手を出したし参加したし挑戦した。けれどそれが目立つ行為ではないのかと問われれば、ぼくは否と答える。いや、答えられる。それらはぼくの自己証明の手段ではないからだ。それらはただ、ぼくの暇つぶしでしかなかった。それ以外の理由はない。探しても見つからない。見つかるのは、暇つぶしに最適で、楽しそうだったから。その程度の理由だ。世界のどこにも、理由を見つけられない。世界のどこにも、興味を見つけられない。だからぼくは、暇つぶしを求めただけだ。存在し続けることが苦痛だから。
 いつまでもヒトのふりをし続けることが面倒になってきた。ぼくという核は、おそらくきっと零なのだろう。誰かが抱く幻影、イメージ、象徴、空想。ぼくは誰かが望む形に、あるいは思い描く形に合わせてきたから。ぼくがどんな人間なのか、ぼく自身が証明できない。誰かに聞いても、みんな答えが違う。矛盾ばかり抱き続けるぼくは、ヒトとして欠陥している。何かが足りない。何処かが欠けている。だから、誰もがぼくを変だと思う。何処かがおかしいと。でも言葉にはできない、不自然。そんな存在。不安定で矛盾した、おかしな人間。
 そしてたかだか三年間を振り返るだけなのに、こんなにも話が変化することが、また歪。どこにも本音が存在しないのに、そのすべてが本音であることもまた、歪んだ夢。きっとぼくは、何も思わないのだろう。自分が死のうと誰かが死のうと、世界が壊れようと自然が壊れようと。理由もなく自由もなく悪意もなく誠意もなく平等もなく感動もなく動機もなく道理もなく理由もなく利益もなく目的もなく黙想もなく原因もなく幻想もなく因縁もなく印象もなく清算もなく正当もなく興味もなく狂気もなく命題もなく明解もなく義侠もなく疑問もなく尊厳もなく損失もなく崇拝もなく数奇もなく妄執もなく蒙味もなく欠落もなく結論もなく約束もなく益体もなく正解もなく成功もなく終焉もなく執着もなく負荷もなく風情もなく努力もなく度量もなく帰結もなく基盤もなく思想もなく嗜好もない、ただ純粋かつ潤沢な戯言で生き続ける人間失格。それを思い知ったのが、この三年間だったと、思う。
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卒業文集

こんなん書いて先生から沈黙貰ってきました。べつにいーじゃんねー。

+++

 将来これを見ることってあるのかな。たぶん僕は読まないね。思い出は捨てる方。いやいや忘れる方。読む読まないの前に捨てないことを祈らなきゃだめかもね。きっと気をつけないと捨てちゃうかんねー。書くことないけど書き殴る僕の戯言。とりあえず三年間僕と関わった全ての人にあいらぶゆー。なんてね!
 夢って結局願望だよね。だったら僕の夢は生きることだね! 未来何があろうと何が起ころうと何が襲おうと生き抜いちゃう! うん、夢って所詮『夢』だからね。誇大広告有限不実行大歓迎だ。ああそうだ。夢を語るより自分を語ろう。自分のことほど不可思議で曖昧で不安定で不自然なものはないのだから。十年後の僕が、あるいはこれを読んだときの僕が今の僕のままだなんてことはありえないからね!
 うーむ。今の僕…は、ノリと勢いで生きてる? 実は何も考えてないんだよね。僕ってイコールあほの子、つまり今の僕。あれ、完結。んー、他の人とずれまくってる、ちょっと斜め上をかっ飛び続けるのが僕。正直この先どんな風に矛盾した人間になってるかなんて興味ないし。あ、こういうのってホントはですます口調で書かなきゃだめなのかな。むしろ書いたほうが良いんじゃないかな。でもそんなことしたら本音が書けない。まあ本音なんて書いてないけど。嘘を嘘で覆い隠して自分すら騙すのが僕のポリシー。誰かに読まれることは承知の上で、今の勢いだけで書いておく。きっと一ミクロンくらいは真実が混ざってるんじゃないかな。未来の自分に挑戦状、なんてねっ! 今の僕が果たしてどんなやつなのか、あるいはだったのか。分かるかな? たぶん分からないね。
 好きな人と好きな事には常に情熱千パーセント! 千パーセントってなんかすごそうだよね。好きな人にはどこまでもらぶふぉーゆーだし、何だってしてあげたいもんね! 多分その中の一人くらいは僕のこと好きって言ってくれるさ。言われなかったら寂しいけどね! 好きなことにはいつだって時間を賭けちゃう。一時だけでも違う場所に立てるなら、いい暇つぶしになるかんね。僕の世界は僕と僕の大事なもので完結してて、それらが守られるならそれで満足してる。それ以外のことなんでどうでも良い。だって結局僕は壊すの専門だもん。壊してこわして壊し続ける、それが僕の人生! これがロマンというならば、素晴らしい物語だ。この上なく傑作だあね。人間は矛盾した生き物だけど、矛盾しすぎるのも良くないみたいだ。反省反省。
 未来はも少しおとなしくなってるかな? いつまでも子供のままでいいのは二次元世界の中だけなんだね! 大人にならなきゃいけないならば、僕は全力で抵抗することを拒否するだろう、流れてゆくといいよ。全ては流されていくままに。なんて戯言言うつもりないけれど、流されていくのが僕のスタンス。
 ここまで読んだ人、お疲れ様。途中で読むの放棄したかっただろーね。止めてよかったのに。でもでも、読んでくれてさんくーさんくー! そんでもって読んだのが僕ならざまあみろ! 過去を振り返ろうなんてするからつかまるんだ。過去は踏み台ジャンプ台。往時の僕に苛まれながら生きていくといいよ。
 読んでくれてべりーべりーさんくす! もし『縁』があったらまた会おう。なんてね!

運命理論

 はじめに。
 ここでの運命論は、西東天が論じたバックノズル現象とジェイルオルタナティブ現象を参考に論じるものである。
 ジェイルオルタナティブ。今やらなければならないことを先送りにすれば、他の誰かが変わりにやってしまうこと。代用可能理論ともいう。

 運命物語理論。
 全て出来事は運命で定められている、と証明するもの。運命とは世界がつづった物語の一端に過ぎず、世界に住む人間や動物あるいは自然などすべての事象が物語の登場人物であるという理論。かといってすべてが決まっているわけでなく、物語は断片的な結末だけを箇条書きしたものである。
たとえば『世界恐慌が起きる』という物語が定まっていたとする。これは『誰が』『どうやって』などといった事柄には一切関与していない為、『誰でもない誰か』の『些細な行為』によって発生させることが可能だ。単純式で行くならば、誰か×何か=結果というもの。運命は断片的な要素に過ぎず、その運命は誰にでも代用させることが可能である。これはジェイルオルタナティブ、即ち代用可能理論の証明でもある。
しかし時折、運命の中に避けられない事象を組み込んだ物語が存在する。たとえば『誰か』を特定していたり、『何か』を決定していたりすることで、それはバックノズル現象と関係する。バックノズル現象は、『いつ、どこで、なにを』を特定していない為、いつか必ず起きる現象と分類される。物語の中に必ず存在していながら、時系列をまるっきり無視することができる一節になる。バックノズルを証明するには、『零崎人識が戯言遣いと出会う』という運命にて説明してみることにする。この運命だけでは『いつ』『どこで』が特定されていない代わりに、『誰が』を全て特定してしまっている。この場合二人が出逢ったのは運命だが、何処でであったかは一切物語(即ち後の運命)には関係しないことを示す。よって彼らが二条大橋で夜、死闘を繰り広げたのは一切関係しないことになる。実際彼らが出会った場所についてはその後一切語られず、また物語上でも一切関与はしていないことがすでに証明されている。彼らが出会うことは必然上の運命であったが、彼らが何処で出会い何をしたか、ということは一切関係なかったということである。戯言遣いと殺人鬼が何処で出会おうと、出会った時点で彼らはお互いを『鏡』だと認識する、という理論が可能になる。
一見独立しているように感じる代用可能理論と時間収斂理論ではあるが、実は密接に関連しあって成り立っている。時間収斂理論ではその瞬間を逃しても、いつか必ずどこかで同じような会話を、似たような行動を、起こすことを意味する。対して代用可能理論では、現象だけが決定されている為《いま》、《ここで》起きなくても《いつか》、《どこかで》発生することを指す。《誰と》、《何の為に》なども同様に決定されてはいない。ここまで読んで、疑問に思う部分があるだろう。いつか発生する現象と、すでに決定された現象。お互いにお互いを打ち消しあっている。しかしこれは、表面的なことでしかない。この二つの理論を利用すると、『いつか必ず、何かを仲介して発生する』ことが分かる。
ここで話を運命物語理論にもどすことにする。全ての運命は物語のように道筋が決定されている、という理論であることは前述したとおりであるが、もちろんこのストーリーの中でも制限された自由というのはある。何の因果関係も無いところで、不自然すぎる行動をとれば、それは制限された自由の中の一端である。

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ここまで書いて矛盾してることに気づいたのでやめた
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