白雪は、足音も高々に庭を横切った。
潰れた草花には目もくれず、一直線に向かう先は言わずもがな、王子の元だ。
可愛がっていた庭のクランベリーが赤赤と実ったので、真っ先に知らせたくて飛び出したのだ。
まだ日も高い今の時間なら、自室で読書に耽っているはずだ。煌びやかな家柄の割に地味な生活パターンは、白雪には好都合だった。これが毎日狩りにでも出ようものなら、背中を追うこと一つ取っても大変な苦労事となってしまう。
重い扉を次々に開け放ち、白雪は行き慣れた廊下を急いだ。
深紅に金模様の絨毯、真鍮のドアノブの付いた、彫刻細工の美しい扉。
視界に入る、度外れの贅沢品を意識にも留めないのは、いつものことだ。白雪にとっては豪華絢爛な王城も、ごく普遍的な光景に過ぎない。今の彼女に特別な何かを与えられるのは、王子ただ一人だった。
白雪は一際大きな扉の前で立ち止まった。立派な入り口の向こうが、王子の自室もとい書斎だった。
「グーテンターク、王子様!入ってもよろしいかしら?」
気が逸り、返事を待たずに扉を開いた。
広い室内だったが、王子の後ろ姿はすぐに目についた。手にした分厚い本によほど集中しているらしく、白雪の呼び掛けに反応はなかった。
白雪は躊躇いなく部屋の中央部まで踏み込み、王子を本から離そうと試みた。
大声を上げても目の前に手のひらをかざしてもうまくいかなかったが、力いっぱい本を引っ張ると、王子はあっけなく我に返った。
「おや、姫」
「王子様!庭のクランベリーが実ったのよ。一緒に摘みましょう!」
焦らされたために憤慨した白雪の口調は少し強めだ。勢いに押されて、王子は困ったような表情を浮かべた。チラリと本の方へ目をやるのを、白雪はそわそわと落ち着きなく見守った。
「分かったよ。摘んだ実は、料理長にジャムにしてもらおう」
優しく微笑んでそう言ってから、王子は肘掛け椅子を立った。着替えをしに隣の小部屋に向かう彼を満足気に見送って、白雪は彼女には少し大きい肘掛け椅子にボスンと飛び込んだ。
最近王子の読書の時間が増えて、寂しい思いをしていたのだ。久しぶりに王子と過ごす午後を思うと、胸が高鳴った。
「私はもっと王子様といたいのに……あら?」
ふと、サイドテーブルの本が目に留まった。先ほど王子が手にしていたものだが、度外れて分厚い。どうやら小説などではなく、年鑑か何かのようだった。
「とすると、執務中だったのかしら」
仕事の邪魔をしてしまったことに思い当たったが、白雪は少しも悪びれなかった。本に手を伸ばし、適当なページを開いて覗き込んだ。
白いページに、幾許かの説明の添えられた顔写真が、整然と並んでいた。多くは老人のものだが、稀に若い顔も見られた。
「……何かしら、これ」
白雪は身をのりだし、机上の本に顔を近づけた。
目に留まったのは、王子が書き込んだのか、ある顔写真に大きくついた丸印だった。パラパラとページをめくると、10ページに一度は同様の印が見られた。
それらの写真には明らかな共通点があった。
どれも女で、若い。外見はまちまちだが、相当に見られない面様でなければ、例の印がついていた。
嫌な考えが浮かんだ。
しかし、表紙を確認しようとしたとき、扉の開く音が行動を遮った。
王子は、赤と青の派手な服に召し替えていた。
「姫、待たせたね。行こうか」
「……王子様」
先ほどと一転して晴れない面持ちの白雪を訝しく思い、王子は首をかしげた。それでも聡い王子にしては珍しく、原因である年鑑には思い至らなかったらしい。白雪が促すまま足早に、扉の方へ向かってしまった。
白雪は音を殺して分厚い紙束をとじると、その表題を確認した。
――“埋葬記録”
最もあってほしくなかった答えだった。冷たい戦慄が走る。震える胸中を半ば無意識的に押し隠すと、王子のあとを追ったのだった。
夕食の時間になったとメイドから告げられた。
食卓に添えられたクランベリージャムを目にして、白雪は我に返った。
ベリー摘みの間も会話に身が入らず、王子の気遣う声にさえ上の空で対していた。
あの膨大な記録書が頭から離れなかったのだ。
隣の席に座った王子を直視できないまま、時間が経っていく。笑顔を向けられるたびに、表面上だけの形式的な好意なのではと、疑ってしまうのだ。
カチャリと、さじを置いた。
「姫?もう食べないのかい?」
「……気分がよくないの」
心配げな声色も、つくろったものなのではないかと、一種の恐怖に駆られる。顔色の悪いのに加え、苦しげに表情を歪ませた白雪は、たしかに調子が良くないように見えただろう。
王子は深く追及はせず、ひとつ頷くと近くに控えていた従者に白雪を部屋まで送り届けるよう申し付けた。
部屋に着くなり白雪は、ベッドに潜り込んで考えに耽った。
あの分厚い書物は、どこかの墓地の古くからの記録だった。丸印のついていたのは、まず間違いなく王子の花嫁候補だ。
彼自身の趣向が知れたことで、今までの闇雲な探しかたをする必要はなくなった。彼はおそらく墓地にまで出向いて、理想の死体を迎えに行くつもりなのだ。
足元の不確かな感覚は、焦燥をともなって思考の深くまでをひどく揺さぶった。
今までも王子の愛を疑うことはあったが、今回の裏切りは白雪の心を深く傷つけた。
「許さない……。王子様は、私のものよ」
枯れた声に、普段の純粋で快活な若さはなかった。大人としてのなにかが彼女の中で目覚めたことを思わせた。
城に噂が届いたのは、その翌日だった。
――隣国の美しい姫君が、魔女の呪いによって死んだように眠り続けている。
囁き合う召使いたちによって口伝てに広まり、最後に王子の耳にたどり着いた。王子は、途端に生き生きとして、また見るからに落ち着きをなくした。部屋の端から端へ、絶えず行き来している。白雪が話しかけても、どこか違うところから返事をしているようでまるで現実味がなかった。
王子はすでに、その噂の姫君の虜になっていると、白雪は悟った。
朝食の席を辞して、白雪は部屋にこもりきりでいた。
そしてある解決策に至った。
――その死体が美しいなら、自ら出向いて壊してやればいい、と。
白雪は短剣だけを携えて、さっそく城外へ出た。
街の至るところで噂は持ちきられていたので、道案内には不自由しなかった。大通りをまっすぐ西に進めば、関所にぶつかるのだそうだ。
通りで御者に馬車で移動することをすすめられ、早くも疲れ始めていたので移動手段を切り替えた。
ガタゴトと、体の芯に響くような豪快な揺れは、白雪を驚かせた。王室付きの洗練され切った馬丁に比べ、町の粗野な御者はひどく荒々しい手綱さばきを見せた。馬に鞭を当てながら、御者席に立っているのを見て白雪は真っ青になり声をあげた。
「危ないわ!どうして立っているの?」
「そりゃあ、スピードを出すのに視界が広い方がいいからでさぁ」
言葉のとおり、飛ぶような速さで馬車は走った。けたたましい車輪の音に耐えきれず、ついに白雪は叫んだ。
「止まって!もう耐えられないわ、こんな馬車!私は歩いていくからここで下ろしてくれればいいわ」
御者は呆れ声で答えた。
「お嬢さん、そりゃ無茶ってもんですぜ。野ばら姫の城まで行くんだろ?丸一日歩き通しても着くか怪しいんだから」
大人しく乗っててくだせぇ、と簡単になだめられ、白雪は膨れっ面で黙り込んだ。そんなに遠いものとは知らなかったし、町では何もかも自分の思い通りにいかないことに気づいたからだ。
しかしそれさえも、白雪の心をそんなには動かさなかった。今の彼女の中心には、野ばら姫の存在が深く強烈に刻み込まれている。他のことは意識の端で関知したような、薄い印象しかもたらさないのだ。白雪は、激しい揺れに耐えながら、一路野ばら姫の城を目指した。
夜になった。
休みなく走り続けた馬車は、ようやく城へ辿り着いた。
御者から到着を告げられると、白雪の疲労のにじんだ顔に喜色が広がった。
御者の手を借りて馬車から降りると、確かに目の前に立派な城がそびえていた。白雪の今まで住んできた城と比べると、装飾が少なく、清純な白が印象に残る外貌をしていた。
「ダンケ!もう帰っていいわよ」
「何言ってんだよ。待ちな。まだお代を受け取ってないぜ」
首を傾げる白雪に、金だよ、と身振りを伴って主張する。
だんだん言葉遣いもぞんざいになってきた御者を一にらみすると、白雪は言った。
「王族の私に、そんなもの払わせるというの?」
「王族でもなんでも、客は客でさ」
肩をすくめて答えた御者に、両手を広げて答える。
「何も持ってないわ」
御者は絶句した。彼は一目で家柄の良さを見抜いていた。庶民の感覚から逸脱した大金を何の気なしに持ち歩いているのが、そうした貴族連中だった。それがまさか無一文とは、考えもしなかった。
「指輪とか、時計とかでもないか?値打ちもんなら何でもいいんだ」
「……じゃあこれは?」
白雪は、渋々首にかかっていたロザリオを差し出した。王子に倣って、つけていたものだった。
ランプの火を近づけて、確認した御者は歓喜の声をあげた。白雪は一片も意識していなかったが、どうやらそれは純金製だったらしい。
馬車は上機嫌で去っていった。
当初は帰り道まで世話をする気でいた御者だが、白雪から金品の類いを巻き上げられる
プロット丸無視したら収拾つかなくなりました。ごめんなさい