白い光の中に、いくつもの柔和な線が交差している。
微笑みを浮かべた彼女の顔を確かめるように、線はその輪郭を幾度もなぞり、次第に明確な形として浮かび上がった。
こじんまりとした部屋、素朴な壁の色、窓からのぞく緑を運ぶように吹き込む風。
そんな背景の中に、彼女は椅子に腰かけて眠っていた。
吸った空気の懐かしいにおいに、きゅうと喉が縮む。無意識に熱い波を押し込めて、そしてクロエはゆっくりと目を開いた。
「……ここは」
そこは彼女の家だった。
穏やかな日常がめぐる場所であり、そして、既に手放したはずの生の姿だった。
クロエはすぐに思い出した。私は、イヴェールを生んですぐに死んだのだ。確かめるようにそう呟いた。
亡者となったことにも気づかずにさ迷う無為な者もあることだが、クロエは死さえも受け入れる穏やかな魂だった。
クロエはいつものように椅子から立ち上がった。部屋の隅の小棚に窓から光が差している。迷わずそこまで歩いて行くと光の上に立った。編みかけの服がひとまとめに置かれた篭があった。
毛糸に埋もれた編み棒をすくい取り、埃のかかった毛糸を摘まむ。そうして彼女は午前の薄静な光の中で編み物に没頭する。これもいつもの習慣だった。
彼女の物だった愛も悲痛も、すべてがこの小部屋にあった。手元の細かい作業に集中しては、それらの存在が身に迫るのを感じるのだった。
しかし、今日はどれもが不自然なばかりに沈黙していた。
「何かしら……」
胸がざわざわして落ち着かない。
クロエは、カタリと編み棒を置いた。
導かれるようにして彼女が行き着いたのは、狭く埃っぽい屋根裏だった。
物をあまり持たないクロエには、倉庫としての一部屋は不要だったのだが、それでも床板の上には何年も触れていないような荷物がいくつか転がっていた。たしか数回足を踏み入れたきりだったが、屋根裏は常に懐かしい物語を思わせた。
そこは暗く、天井の木目を通して少しの光が差していて、身を包むような空気が狭い空間に閉じ込められて停滞している。
ぽつぽつと置かれた荷箱の間に、キャンバスが落ちていた。
彼女の目を引いたのは、画面一面に貼り付いた、乾いた色。幾重にも塗り重ねられたと見える赤だった。
クロエはかがんでそれを拾い上げた。見覚えのない絵だった。
赤は生を象徴する。しかし、キャンバスに張りついたこの赤からは、命を紡ぐ脈動を連想することはできなかった。
言葉が、口を突いて出た。
「イヴェール……」
言ってしまったあとでクロエははっとして口に手をやった。
この乾ききった生のような絵画から、よりによって我が子の名前を見出だすなど、なんという不吉なことか。
呆然と立ちすくむクロエの前に、不意に影が落ちた。
「……?」
顔を上げたクロエは、一変した光景に目を見開いた。
人の気配のなかった屋根裏部屋に、いつの間にか赤いドレスの女が、佇んでいる。微かな薔薇の香りが鼻先をくすぐった。
「誰……?」
クロエをまっすぐな視線で窺う女は、短い問いには答えなかった。白い頬、白い腕。女性的で美しい身体。
キャンバスと同じ色のドレスは艶のある黒髪によく映えている。
古ぼけた屋根裏には不釣り合いなその姿は、高貴な貴婦人か、令嬢という以外に、判断の余地がなかった。
そのはずなのに、クロエは彼女の内に奇妙な何かを見た。沈黙の中に二人分の時間が降り積もる。二人には何かが共通しているのだ。クロエはそう感じた。
おかしなことだ。
片田舎で死んだ女と、貴族の美しい女。両者はひどく対照的なのにそんなことを思うなど。
しかし得た感覚には確かに確信があった。
クロエにはそれが見過ごしてはならない重大なことに思えてならなかった。彼女の言葉を聞きたい。
クロエは手に持った絵をそっと差し出した。
「これは……貴女のものですか?」
ドレスの女が赤い絵に目を落とす。
「……何故?」
唇の端から漏れた囁き声。
クロエはその問いの意味を図りかねて数回、瞬いた。
「……この絵も、知らない間にここにあったのです。急に現れた貴女のように。だから、貴女のものかと思ったのです」
「そう」
あっさりとした返答だった。
クロエはそのまま黙って言葉を待った。質問の答えがまだない。
しかし彼女は一向に口を開くそぶりを見せず、ついには最初に現れたときのようにクロエを注視したまま動きを止めてしまった。
「……あの……、」
困惑をありありと示したクロエが再び切り出すのにそう時間はかからなかった。
「貴女は誰なのですか?……私はここで一度死した身なのにどういう因果かつい先程、蘇ったのです。貴女も生者ではないようですが……」
なおも黙りこくっている女をちらりと窺うと、感じた全てを打ち明けようと決めて続ける。
「私と貴女は何か関係があるようです。貴女は何かご存知ですか?私が自然の摂理を外れて今ここでこうしていることに、何かわけがあるのでしょうか?」
「………」
女が目を伏せた。
屋根裏部屋の時が止まったような錯覚がクロエをとらえた。
囁き声がゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「これは私の描いた幻想……。イヴェールを生もうとした貴女を見てみたかったの」
え、と困惑を漏らしたきり言葉に詰まったクロエを一瞥して、女はその細い指で赤い絵を指し示す。
「其れは……私の揺りかごよ」
「……揺りかご……?」
赤い絵の具がクロエを見返す。
「私はそこで生まれたの」
クロエは今得た途切れ途切れの頁を、どうにか一つの物語として繋げようと苦心しているようだった。
だが、平凡な生を歩んできた彼女には、この不思議な女の言葉はあまりに突飛すぎた。ひとつの憶測も浮かばないままに思考は限界にいきつく。
軽く首を左右に振る。
一番気になるのは、女の口から出た名前だった。
「イヴェールをご存知なのですか?」
クロエが問うと、女は身体を小さく強ばらせた。ドレスと同じ緋色の瞳に光が走る。
刹那、その頬に生気が差したように見えた。
「貴女の子供として生まれる以前に、イヴェールは私の作品だったのよ」
感情を帯びた声だった。今までの無感動な死人の囁きとは、まるで大違いだった。
「さ、作品……」
「そう。でも、幻想の中に生きていたあの子を、私の生きる現実の世界に作り出そうとして、失敗した。13回も。そのたびに私は命を削られた。それでも……」
初めて愛した我が子を、この手に抱きたかった。
言葉にならない思いが流れ込んだ。
クロエは息を呑む。
「じゃあ……私はその魂をこのお腹に授かったのですか」
声が震えていた。幻想の世界に描かれた住人を、愛され尽くされた人の子を、何度もこの世界に拒絶された魂を、まさか身ごもったなどと、いうのか。
それがイヴェールという存在だったなどと。
「後悔しているの?」
顔色を悪くしたクロエを注意深く見つめる女は、早くも冷静にかえっていた。
「そんなこと……ありません」
「………」
「イヴェールに幸せに生きてほしい……私にはそれだけです」
クロエは苦しげに目を閉じた。
雫が瞬いて床板に散る。
そうしながら我が子を生んだ日のことを思い出した。あの日も、この世界に残していくイヴェールのことを思って涙したのだった。
そのときの旋律が思い出される。
「この気持ちが届けば、他のことなどどうでもいいのです……」
水面下から見上げる空のように景色が歪んでいる。
ぼんやりとだが、ドレスが翻るのが見えた。
女が去る。クロエは静かに思った。
同じ赤子を母として愛した者同士、私たちは数奇な縁で結ばれていたのだ。
白い光が一直線に差すと同時に、身体が浮き上がるような感覚を覚えた。
刹那の奇跡の終幕だった。
線状の光がいくつも重なりあって、すべてが塗りつぶされる直前に、耳に優しい声が触れた。
「貴女の伝言は、あの子に確かに届いていたわ」
柔らかな微笑みが白いキャンパスに浮いて、やがて消えた。
fin.