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その祈りは光にも似て6



「ボリス〜〜〜〜!無事だったんだね!良かったよ!」

一度貼り付いたら離れないのでは、というほどの勢いで、金髪の少年はその護衛剣士の首辺りにかじりついた。
想像だにし得ない、地面が丸ごと抜けるという予測不能の状況だったのだ。実力を信頼はしていれど、ほんの一抹だけ、まさか、と良くない想像は拭いされないものだった。
二人の安堵は色濃い。
ボリスも、いつもなら早々に身体を引き剥がすところを、させるがままにしている辺り、そのぬくもりが確かにあることを、暫し確かめていたいのかもしれない。

二人に負けず劣らず、表情を緩ませていたティチエルだったが、不意にきゅっと口許を引き締めた。
仲間はまだ散らばっている。かけがえのないパートナーの顔を思い出すと、どっと焦りが涌き出た。
安心にはまだ早い。

きっとそんなに離れた場所にはいない。ただ、自分達のいた地上は遥か遠くに見えるのみで、別世界に
断絶されてしまったような心細さがある。
階下は、さらに続くのだろうか。
私たちの常識はこんな地下でも通じるのだろうか……。


「ティチエル!」

両肩に、ずしりと重みがかかり、ティチエルは驚いて小さく声を上げた。
正面で心底おかしそうに笑いながら、驚きすぎ、とルシアンが言った。

「ミラさんを探そう。イスピンもレイたちも。みんな、僕とボリスが見つけてあげる!」

欠片の陰りもない笑顔が、今この場においてどんなに眩しいものかも知らず、ルシアンはただ己のすべての自信をかけて言い放った。

「ふふっ」

「だから大丈夫だよ!すぐ会えるさ!」

「ありがとう、ルシアン」

つられて笑っている自分に気づいて、少し複雑なものが心を横切った。
今は見ないふりをして、とにかく前に進まなければならないと思った。
薄暗い感情に蓋をして、平気なふりをして、それがどんなに心をボロボロにするのか知っていたけれど。

「さて、そしたら、どうしようか?」

「見張らしは良いが、こうも何もないと逆にどこから探そうか迷うな」

三人はすぐさま探索へ向かってスイッチを切った。
ボリスが言ったように、見渡す限り何もなく、また音もない。

「天井も、ティチエルが空けた穴しか見当たらないな。ルシアンが落ちてきた穴がどこかにあるはずだが……」

「うーん、おかしいな。僕、そんなに移動してないよ。ここら辺に穴がないなら、どこから落ちたんだろう」

「こんな自然にできたようなところにテレポートシステムが設置されてるとは考えにくいし……変ね」

ティチエルは少し逡巡してみて、付け加えた。

「それか、もしかして、この砂……」

なんの変哲もないようで、手に取ると角度によって光っているように見える気がした。
頭上から差す光量は限られており、十分に観察できたわけではなかったが、魔法知識に長けたティチエルが違和感を覚えるには十分だった。
ルシアンも、ティチエルにならって地面に目を落とす。見えにくいというように目を凝らして、そして、何かに気づいたように、今度は上を見上げた。

「あのさ、もしかして……」

視線を辿ると、明らかな変化がそこにはあった。

「穴が閉じていく……」


もう気づく気づかないの問題ではない程、辺りは暗闇に侵されて来ていた。
変化は加速しているようで、三人が気づいてからは視認できるスピードで穴が埋まり続けた。

「ファイヤーアロー!」

ティチエルが唱えたや否やマナが結晶となり澄んだ音が鋭く鳴る。
数発の炎の矢は等間隔に浮かび静止し、ティチエルは完全にそれを制御してるようだった。
ボリスが剣を構えて、同じようにして魔力を込める。
砂の地面に剣が打ち立てられると、地を這って伝わった魔力で周囲が隆起し、ちょうど炎の位置に合わせることで燭台のようになった。

これで明かりは申し分ない。
だが、進む道は依然決まらず暗く無限に広がっているままだ。

「なるほど。仕組みが分かったな」

「とすると、見えてる道だけが道じゃないってことになるのね」

「慎重に進もう」

ボリスが、すっと剣を構えた。
無数の氷の粒を纏っている。
それを天井に向けて振り撒いた。
戦闘時は鋭く凶悪に見える技だが、上手く調整しているのか、素手で触れたら消えてしまいそうなほど儚い粒で形成されている。

「僕たちが、ルシアンの声で下の階の存在に気づいたように、上を歩く人に何かサインを送り続けるのがいいと思う」

「確かに、魔力の感じで誰だか分かるし、いいわね!」

それはティチエルぐらいなのではないか、と口を挟みかけて止めた。
交代でやりましょ、とメイスを握って張り切る彼女が、先程よりも元気そうに見えて、ボリスはほっとしたのだった。


赤いりんごは虫食いりんご2


「気味悪い屋敷やなあ……」

スペインが苦々しく溢した。あんな事件があったからますます、という内心までがありありと滲んでいた。
反して、プロイセンはこの年期の入った建築に対する興味を隠そうともせず、意気揚々と先頭を行っていた。
彼とて、イギリスの喪失を受けて何も感じていないわけではない。それどころか、スペインやフランスより、よほど彼と和気あいあいと過ごせていたのはプロイセンの方だったのだ。
当然、一通りの悲しみをくぐり抜けている。ただ、スペインよりも彼が喪失を多く経験しており、精神面での強かさでは偶然上をいっていたという、それだけのことだ。


「まず、一階から回るか?」

「この屋敷、地下もあるんだけど、どうする?お兄さん的には、あまり暗いとこ最後に回したくないんだけど」

フランスがやはり鬱々とした調子で意見した。

「じゃあ、地下から上に上がってく感じで行くか」

「それでええんちゃう。最初が暗いとこっちゅうのも正直微妙やけどな……」

早速厭戦気運の二人を振り返り、プロイセンは困ったように眉を下げた。
しかし、これは興味本意の探索でなく、上からの指示という正式な経緯を経て与えられた義務なのだから、どんなに気が向かなくとも辞退は叶わないのである。

「仕方ないだろ。な?」

「プーちゃんに言われたかて、仕方ない感じ一切せえへんわ」

スペインが珍しく八つ当たりに近い反駁をするので、プロイセンは言葉に迷った末に黙り込んだ。
見かねたフランスが、声をかけなければ、ずっと二人で気まずい沈黙に耐えていたかもしれない。


「……行こうか」

結局、フランスの声が皆の先陣を切る形となった。
仰々しい屋敷の入り口で、幾重にも反響して不安感を煽るようだった。



屋敷の中もまた、綺麗に管理されているように見えた。
暗い地下には、当たり前のように電気も通っており、それが冷たい不気味さを助長させる。そこに誰もいないことを浮き彫りにするかのように、無機質な光が部屋を満たす。
やはり、見目麗しい調度品やきらびやかな装飾の数々にも、こと細かな手入れの痕跡を感じられる。
近年の彼との関わりの中では、そういった豪華なものを持つ印象はあまりなく、どちらかと言えば簡素な物の方が趣味に合うと言いたげだった。(と、ここにいる派手好きな二人は、非難めいたものをその眼差しに感じたと主張する)
そのため、怪訝に眉を寄せた表情は互いに視線を合わせて、暫し相手が口を開くのを待った。
気味の悪い沈黙を破ったのは、顔を見合わせた二人ではなく、何かを発見した様子のプロイセンだった。

「おい、これ……」

手を触れる前に指を指して知らせる辺り、彼も何とは知れない嫌な予感を感じているのだろう。
フランスとスペインは、それぞれぎこちない動きで振り向いて、その床に落ちている物を捉えた。

「紙?」

「……手紙、か?」

切れ切れの呟きが示す通り、それは手紙だった。

「誰宛てなの?坊っちゃん?」

「宛名は書かれてない……これは、イギリスの字じゃね?」

判断に迷っているらしくなかなか言葉が出ない。

「それに、書きかけか?これ……」

意味を読み取れなかったらしいプロイセンが手紙を広げて、文章を読み上げた。


「『Find me』……って……」

語尾は震えていた。
対する聞き手二人の反応は二分した。

絶叫と硬直と。

最初から特に気負っていなかったプロイセンに、最後の頼みの綱とまでの勢いですがり付く。
が、よく改めて見ると、手紙を見つけた時からか、文言を目にした時からか、読み上げて次第に意味を理解したのか、プロイセンまでも今すぐに帰りたそうな涙目になってしまっていたのだった。

こうなってはもう、パニックの収集はつかない。

「ど、どどどういうこと!?何を見つけろって!?」

「me……」

「だって、死んだんじゃ……!?」

「……死体が、見つかってない」

「探せって言うのか!?」

「死体なんて……俺たちは国だぞ」

「まさか、」

顔面蒼白でスペインが呟く。

「生きてるんか……?」


ぴたりと、騒々しい応酬が止まる。

誰もが薄々感じた可能性だった。
そうであればいいと思う気持ちは強く、それだけに絶望に裏切られることは避けたかった。

赤いりんごは虫食いりんご








イギリスが死んだ。

そのニュースは、小一時間のうちに世界中に余すことなく知れ渡っていた。
世界中といっても、彼と同じ『国』という存在、それに彼を知る一握りの人間くらいのものである。
その多くは疑問調で語られた。何しろ、彼の国は国土も国民も健在で、何一つ欠けていないのだ。今までの常識では、国の統治者が倒れるとき、または国土や国民が失われるときに限り、国の擬体は消滅するものであり、二方はごく稀な例外を除いては、生命を共有しているという認識だった。
それが崩れたということだろうか。口々に囁かれる憶測は、必ず不安を帯びていた。
さらに、その知らせを初めに口にした者、信憑性、果ては噂自体の意味まで、すべてが曖昧だった。

根拠のない噂は、いつの間にか消え去って然るべきだが、今度の騒ぎはなかなか収まらなかった。噂自体が何か得体の知れない力を備えているかのように、世界を幾周もした。

そして、確かにイギリスはその日以来、姿を消したのだ。






ロンドンは今日も雨だった。
スペインは珍しく憮然としていた。傘を差しても足元から入り込んでくる雨粒がうるさくてたまらないのだ。
手にしたメモ用紙についた水を乱雑に払うと、隣の男に天気への愚痴を垂れた。

「雨ばっかやな」

「でも……今となっては、この雨もあいつだなぁって感じするよ」

フランスはそう言うと、眉尻を下げて笑った。

「思い出すから、余計にうっといねん」

声を低めて、スペインが短く答えた。
しかしフランスは、彼がイギリスの喪失によってどんなにか衝撃を受けたか、よく知っていた。
敵同士としての、何か独特で強固な縁があったに違いない。失ってから気づくというのはよくあることだが、スペインの衝撃もその性質だった。
しかし、スペイン本人は恐らく何一つ自覚していない。気づくとすれば、イギリスがいなくなってから、精神的に不安定になったことくらいだろうか。


「……で、ここ曲がってすぐやな」

「俺道知ってるから、地図なんていいのに」

スペインがぎくりと動きを鈍らせた。
その手の地図が誰の手製であるかを知っていて、フランスは言ったのだった。
整然とした地図にはしっかりとした古典的な英語が添えてあり、誰かの性質が分かりやすく現れていた。

話をそらすにはちょうどよく、道の先にそれらしい屋敷が見えてきた。そんなに規模の大きくない、地味な配色の建物だった。
空っぽであろう内部を思うと、さすがに二人とも沈黙した。
無言のまま屋敷の前まで至る。建物より余程豪奢な金メッキの門を前にしても、重い空気は晴れなかった。

「ここかいな」


フランスはふとある一点に目を留めた。門の間の、ある色に違和感を覚えたのだった。ぼんやりと屋敷を見上げているスペインをよそに、閉じた門へ近寄った。

「フラン?」

「薔薇園が生きてる」

「え?」

半ば呆然としたフランスの口調はただ事でないことを告げていた。
イギリスは独りで暮らしていたし、庭師など雇わず自ら草木の世話をすることは周知のことだった。だから、無人となった現在ではもちろんのこと、元々イギリス以外に薔薇の世話をするものは居なかったのだ。
疑い半分に、スペインもフランスの隣にならった。

「……ほんまや」

確かに薔薇園には変わらず、高貴な香りを纏った鮮やかで瑞々しい花弁が、溢れていた。遠目にも十分に確認できるこの怪奇現象を、二人とも決定的な言葉に表しかねていた。

その時、彼らの背に影がかかった。
二人がそれに気づくより先に、影の主が言葉を発した。



「そんなとこで何してんだ?お前ら」


思考が停止する。それから、互いを横目で見合った。
二人して非現実的な思考の最中だったものだから、声の主と荒唐無稽な結論とを結びつけてしまったのだ。

幽霊、などと。


二人は振り向いたのは殆ど同時だった。
逆光に浮かび上がったシルエットが、この屋敷の主の姿と重なったような錯覚も、一瞬のことだった。

そこに立っていたのが、もちろんイギリスであるはずがない。それは、間違いが馬鹿らしく思えるほど、その場に立っているにはこの上なく妥当な人物だった。

「なんや、プーちゃんかいな」



一通りの説明を受けたプロイセンは、ごく当たり前のことを指摘するように、言った。

「それって、イギリスが生きてるんじゃねえの?」


は、とスペインが目を見開いた。彼が無意識に願ってやまない可能性だ。しかし即座にフランスの言葉がそれを妨げた。

「いや、それはない」

自分に言い聞かせるような苦しげな口調だったが、スペインはかまわず食ってかかった。

「何でや。あるかもしれんやろ」

「……あいつは確かに死んだんだ」

「何で言い切れるん?自分死体みたんか?」

「いや、そうじゃなくて」

スペインは、懸命なあまり、フランスの顔色が悪いのも気づかないようだった。
さらに詰め寄るスペインの様子に異様なもの目にしたプロイセンが、うろたえつつも場を取りまとめようと声を上げた。

「落ち着けよ、スペイン。フランスも、まだあんまり経ってないんだし、ほじくり返すのは良くないぜ」

「………」

渋々、スペインが手を引いた。
プロイセンはほっと胸をなで下ろした。
集まって早々に、険悪な雰囲気になるなど、彼らには未だかつてない事態だった。
しかし、どうやら一段落ついたようだ。


「ったく、しっかりしろよ。俺たちには、この屋敷を荒らすっていう仕事があるんだからよ」

「正しくは、遺書の類を探せ、だよ」

苦笑まじりにフランスが直した。これは当然ながら、上司の指示だった。
彼らはまず間違いなく、イギリスの死を信じていない。事実に基づいた議論の結果、国の滅亡を伴わない擬体の死など、有り得ないという結論に達したのだった。
彼らはイギリスが逃げ出したか、どこかに隠れているものとみている。その上での三カ国の派遣だった。
遺書探しというのは建前にすぎず、屋敷の探索により、イギリス自体が発見できれば万々歳、というわけだ。

しかし、フランスをはじめとする各国たちは、イギリスの消滅を信じていた。
だから、人間の指示した屋敷の探索を家荒らしと称したプロイセンの表現も、かなり的を突いていると言えた。


「中であいつと会わん事を願うしかないな」

「……そうだね」


門が次第に口を広げる。古い金具が軋む音が、彼に届くだろうか。



咎狗パロ6


太陽が高くのぼりきった頃、二人は廃屋を後にした。
アーサーの兄たちの真意は知れないが、今は彼らの期待に沿うよう動くほかないだろう。まずは二人揃ってゲームに参加するということで話はまとまった。

廃屋の続く道を辿る。
少し歩くと街の中心部へと続く、比較的大きな通りに出た。
足取りに迷いのないアーサーに、アルフレッドは首をかしげて見せた。

「アーサー、どこに行けばいいのか、知ってるのかい?」

「……大体な。これだけ規模のでかいゲームなんだ。拠点だってそれ相応の、風格のある建物に置くはずだろ」

なるほどと手を叩くアルフレッド。

「それで、それは何処なんだい?」

アーサーは苦味のこもった表情でそんなアルフレッドを振り返った。
あからさまな呆れのようなものを向けられた当の本人は、その意味を受け止めかね、きょとんと呆けた顔をする。

「お前、首都の代表的な建築物くらい、国民として知っておけよ」

「だって、そういうのってどうせ戦争でボロボロだろ?」

再び歩き出したアーサーを追いながら、アルフレッドは不満気に言い返した。
国をこれだけ荒廃させた三度目の世界対戦の戦火が、重要な建築物に及んでないはずがない。
そう言おうとして、はたと、あることに気がついた。

急に足を止めたアルフレッドを、今度は怪訝そうに振り返るアーサー。

おい、と声をかけるもハニーブロンドの頭は完全によそを向いていて、何の反応もない。
アルフレッドはしばらく辺りを見回した末に、高い壁を見上げたままで呟いた。

「この町は、爆撃されてないのかい?」


褪せきったありとあらゆる色、朽ち果てた石壁の残骸、それらが大半を占めるこの町は確かに凄惨な様を呈していたが、よく見ると爆撃の跡はどこにも見えない。
せいぜい、手榴弾の類いと見られる小規模なものくらいだ。

「占領したときに中枢がぶっこわれてたら国の機能を乗っとるにも手間がかかるだろ。だから首都とか、肝心な場所はあえて残されたりするもんなんだよ」

「へぇ……」

なおも不思議そうな面持ちで視線をあちこちへやりながら、アルフレッドは短く返した。

大通りがいくつかに枝分かれし、二人は比較的暗く陰った路地に入った。

アーサーが先を歩き、アルフレッドはそれに続く。
いつ襲い来るか分からない危険に、即座に対応しうる形だとして、出発前にアーサーが提案した体勢だった。
元々慎重な性格であるがそれにしても、警戒が過ぎるんじゃないか。
力の入った後ろ姿に、手を伸ばしかけたが、届かなかった。

湿り気のあるコンクリートを蹴りながら、アルフレッドは改めて問いかけた。

「それで、どこへ行くんだい?」

「ウエストミンスター宮殿。国会議事堂だった場所だ」


その迷いのない答えを受けて、アルフレッドが言葉を発しようとした、そのときだった。


「うわああああああああ!!!!」


狭い路地に絶叫が突き抜けた。

緊張が走る。
アルフレッドが即座に身を低くして腰の銃に手をやった。
反響が強く幾重にも弾ける中、音の源を探り当てると、アーサーを庇うように身構えた。

アーサーはやはり納得がいかないというように眉を寄せるも、黙って彼の肩越しにその方向を見据える。

「来るね」

銃口が闇を指す。

「そうだな」

空気が変わっていた。
あまりに近くで血臭が飛散したことを、二人とも感じ取っていた。
転げるような足音が、迫ってくる。

しかしその足音の主が、アルフレッドの銃の弾道の届く範囲まで、辿り着くことはなかった。

ざか、と豪快な衝撃音を最後に、その細い路地は元通りの静けさに包まれたのだった。
アルフレッドと、アーサーが目配せし合う。

「どうする?」

「しっ、……立ち去るしかないだろ」


鋭く路地の奥を見やりながら、抜いたナイフを握り直しアーサーは囁いた。
異論はない。アルフレッドも引っ掛かりを覚えつつも事件に背を向けた。
血臭がまとわりつく。
二人は音をたてぬよう足早に細路地を抜けた。


日の光の下で、深く息を吐くアルフレッド。

「命が縮んだよ……」

腹立たしい程に頼もしかった路地裏での姿と、今のへなへなと座り込む姿とを、整理しかね、アーサーは思わず問いかけていた。

「あれだけの銃の腕があるのにか?」

「関係ないよ。」

怖い物は怖いさ。
そんな呟きが聞こえたような気がした。
やはりこいつは、ここがどういう場所か、本当には理解していないんじゃなかろうか。
アーサーは何とも言いがたい苦い思いを抱いた。


まあ今さら何を言っても仕方がない。
方角を見定めるとアルフレッドに、促すような視線を投げた。

「行くぞ」

私の冬【SH】

白い光の中に、いくつもの柔和な線が交差している。
微笑みを浮かべた彼女の顔を確かめるように、線はその輪郭を幾度もなぞり、次第に明確な形として浮かび上がった。
こじんまりとした部屋、素朴な壁の色、窓からのぞく緑を運ぶように吹き込む風。
そんな背景の中に、彼女は椅子に腰かけて眠っていた。
吸った空気の懐かしいにおいに、きゅうと喉が縮む。無意識に熱い波を押し込めて、そしてクロエはゆっくりと目を開いた。


「……ここは」

そこは彼女の家だった。
穏やかな日常がめぐる場所であり、そして、既に手放したはずの生の姿だった。
クロエはすぐに思い出した。私は、イヴェールを生んですぐに死んだのだ。確かめるようにそう呟いた。
亡者となったことにも気づかずにさ迷う無為な者もあることだが、クロエは死さえも受け入れる穏やかな魂だった。

クロエはいつものように椅子から立ち上がった。部屋の隅の小棚に窓から光が差している。迷わずそこまで歩いて行くと光の上に立った。編みかけの服がひとまとめに置かれた篭があった。
毛糸に埋もれた編み棒をすくい取り、埃のかかった毛糸を摘まむ。そうして彼女は午前の薄静な光の中で編み物に没頭する。これもいつもの習慣だった。

彼女の物だった愛も悲痛も、すべてがこの小部屋にあった。手元の細かい作業に集中しては、それらの存在が身に迫るのを感じるのだった。
しかし、今日はどれもが不自然なばかりに沈黙していた。

「何かしら……」

胸がざわざわして落ち着かない。
クロエは、カタリと編み棒を置いた。


導かれるようにして彼女が行き着いたのは、狭く埃っぽい屋根裏だった。
物をあまり持たないクロエには、倉庫としての一部屋は不要だったのだが、それでも床板の上には何年も触れていないような荷物がいくつか転がっていた。たしか数回足を踏み入れたきりだったが、屋根裏は常に懐かしい物語を思わせた。
そこは暗く、天井の木目を通して少しの光が差していて、身を包むような空気が狭い空間に閉じ込められて停滞している。

ぽつぽつと置かれた荷箱の間に、キャンバスが落ちていた。

彼女の目を引いたのは、画面一面に貼り付いた、乾いた色。幾重にも塗り重ねられたと見える赤だった。
クロエはかがんでそれを拾い上げた。見覚えのない絵だった。
赤は生を象徴する。しかし、キャンバスに張りついたこの赤からは、命を紡ぐ脈動を連想することはできなかった。


言葉が、口を突いて出た。

「イヴェール……」

言ってしまったあとでクロエははっとして口に手をやった。
この乾ききった生のような絵画から、よりによって我が子の名前を見出だすなど、なんという不吉なことか。
呆然と立ちすくむクロエの前に、不意に影が落ちた。

「……?」

顔を上げたクロエは、一変した光景に目を見開いた。
人の気配のなかった屋根裏部屋に、いつの間にか赤いドレスの女が、佇んでいる。微かな薔薇の香りが鼻先をくすぐった。

「誰……?」

クロエをまっすぐな視線で窺う女は、短い問いには答えなかった。白い頬、白い腕。女性的で美しい身体。
キャンバスと同じ色のドレスは艶のある黒髪によく映えている。
古ぼけた屋根裏には不釣り合いなその姿は、高貴な貴婦人か、令嬢という以外に、判断の余地がなかった。

そのはずなのに、クロエは彼女の内に奇妙な何かを見た。沈黙の中に二人分の時間が降り積もる。二人には何かが共通しているのだ。クロエはそう感じた。
おかしなことだ。
片田舎で死んだ女と、貴族の美しい女。両者はひどく対照的なのにそんなことを思うなど。
しかし得た感覚には確かに確信があった。
クロエにはそれが見過ごしてはならない重大なことに思えてならなかった。彼女の言葉を聞きたい。
クロエは手に持った絵をそっと差し出した。

「これは……貴女のものですか?」

ドレスの女が赤い絵に目を落とす。

「……何故?」

唇の端から漏れた囁き声。
クロエはその問いの意味を図りかねて数回、瞬いた。

「……この絵も、知らない間にここにあったのです。急に現れた貴女のように。だから、貴女のものかと思ったのです」

「そう」

あっさりとした返答だった。
クロエはそのまま黙って言葉を待った。質問の答えがまだない。
しかし彼女は一向に口を開くそぶりを見せず、ついには最初に現れたときのようにクロエを注視したまま動きを止めてしまった。

「……あの……、」

困惑をありありと示したクロエが再び切り出すのにそう時間はかからなかった。

「貴女は誰なのですか?……私はここで一度死した身なのにどういう因果かつい先程、蘇ったのです。貴女も生者ではないようですが……」

なおも黙りこくっている女をちらりと窺うと、感じた全てを打ち明けようと決めて続ける。

「私と貴女は何か関係があるようです。貴女は何かご存知ですか?私が自然の摂理を外れて今ここでこうしていることに、何かわけがあるのでしょうか?」

「………」

女が目を伏せた。
屋根裏部屋の時が止まったような錯覚がクロエをとらえた。
囁き声がゆっくりと、言葉を紡ぐ。

「これは私の描いた幻想……。イヴェールを生もうとした貴女を見てみたかったの」

え、と困惑を漏らしたきり言葉に詰まったクロエを一瞥して、女はその細い指で赤い絵を指し示す。

「其れは……私の揺りかごよ」

「……揺りかご……?」

赤い絵の具がクロエを見返す。

「私はそこで生まれたの」


クロエは今得た途切れ途切れの頁を、どうにか一つの物語として繋げようと苦心しているようだった。
だが、平凡な生を歩んできた彼女には、この不思議な女の言葉はあまりに突飛すぎた。ひとつの憶測も浮かばないままに思考は限界にいきつく。
軽く首を左右に振る。
一番気になるのは、女の口から出た名前だった。

「イヴェールをご存知なのですか?」

クロエが問うと、女は身体を小さく強ばらせた。ドレスと同じ緋色の瞳に光が走る。
刹那、その頬に生気が差したように見えた。

「貴女の子供として生まれる以前に、イヴェールは私の作品だったのよ」

感情を帯びた声だった。今までの無感動な死人の囁きとは、まるで大違いだった。

「さ、作品……」

「そう。でも、幻想の中に生きていたあの子を、私の生きる現実の世界に作り出そうとして、失敗した。13回も。そのたびに私は命を削られた。それでも……」

初めて愛した我が子を、この手に抱きたかった。

言葉にならない思いが流れ込んだ。
クロエは息を呑む。

「じゃあ……私はその魂をこのお腹に授かったのですか」

声が震えていた。幻想の世界に描かれた住人を、愛され尽くされた人の子を、何度もこの世界に拒絶された魂を、まさか身ごもったなどと、いうのか。
それがイヴェールという存在だったなどと。

「後悔しているの?」

顔色を悪くしたクロエを注意深く見つめる女は、早くも冷静にかえっていた。

「そんなこと……ありません」

「………」

「イヴェールに幸せに生きてほしい……私にはそれだけです」

クロエは苦しげに目を閉じた。
雫が瞬いて床板に散る。
そうしながら我が子を生んだ日のことを思い出した。あの日も、この世界に残していくイヴェールのことを思って涙したのだった。
そのときの旋律が思い出される。


「この気持ちが届けば、他のことなどどうでもいいのです……」

水面下から見上げる空のように景色が歪んでいる。
ぼんやりとだが、ドレスが翻るのが見えた。
女が去る。クロエは静かに思った。

同じ赤子を母として愛した者同士、私たちは数奇な縁で結ばれていたのだ。

白い光が一直線に差すと同時に、身体が浮き上がるような感覚を覚えた。
刹那の奇跡の終幕だった。
線状の光がいくつも重なりあって、すべてが塗りつぶされる直前に、耳に優しい声が触れた。

「貴女の伝言は、あの子に確かに届いていたわ」


柔らかな微笑みが白いキャンパスに浮いて、やがて消えた。



fin.

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