メインストリートから細かな脇道に至るまで、どこまでも血と煤にまみれている。
誰も信用できない、暴力ばかりがはびこる世界がそこにあった。

アーサーは入り組んだ路地をいくつか通り抜け、ある建物の前で立ち止まった。
ほとんど廃墟といってよさそうな外観だが、前身はおそらく、よくある平凡なアパートだったのだろう。
元の姿より180度以上の変遷を遂げたであろうことは容易に想像がつく。
コンクリートは黒く朽ちて凝惨を呈しているし、あちこちにもぎ取られたような傷痕を抱えていた。
色彩があるならまだしも、同じような廃景がひたすら連続して並ぶ中で、こうした建物を探り当てるのはかなり困難なことといえる。

金属製の階段の、カンカン、という錆び付いた音が徐々に上っていく。
この一見すると廃墟のような建物が彼の自宅だった。



秩序が崩落して以来、ただ力だけが意味を持つ世界へと、変貌した街。
人間を取り締まる機関の一切が失われたため、上下関係を定めるのはひとえに力の差だった。
誰もが力でねじ伏せることを考え、強いものの背後に付き、昼夜問わず忍び寄る危険に恐怖している。

特に、勢力抗争が激化してきている昨今では、街全体で緊張感が高まっていた。


錆び付いて回しにくい鍵穴をなんとか解錠する。
半ば力任せのやり方だった。
がチャリ、と大げさな音が通路に響き、アーサーは思わず肩をびくつかせた。

「あー……やっちまった」

失敗した、というような口調だったが、鍵には特に異常は見られない。
彼の視線は、隣の部屋のドアにまっすぐ注がれていた。

静まり返っていた通路に、落ち着きのない足音がくぐもって響いた。
その出所は、まさにアーサーの視線が向いている方、つまり隣部屋からだ。
アーサーが鍵を開けてから5秒もたたないうちだった。


「アーサーかい?」

いささか鮮やかすぎる金髪が、隣部屋のドアから覗いた。
慌てて出てきておいて、それをすっかり忘れさせるような落ち着き払った顔をしている。
裸足に靴を中途半端に引っ掛けているから、今までベッドにでもいたのかもしれない。

彼は、アーサーの額や頬に目を留めた。
血が固まった跡、無造作に当てられたガーゼ、それに貧血ぎみに見える白い頬。
小馬鹿にしたような色が、彼の青い瞳に浮かんだ。

「本当に君は鈍くさいね」

「……用がないなら話しかけんな」

不快そうに眉をひそめて、隣人に背を向けた。
抗争に手を出しに、アーサーが2、3日家を開ける度、見送りと出迎えを欠かさないこの男。
アルフレッドという名だと、かなり前に知ったが、一度も呼んだことはない。
それで不便したこともない。
余程アーサーのことを好いているのかと思いきや、顔を合わせるや攻撃的な言葉を浴びせるのが常だった。

アーサーには、全く訳がわからない。
初めこそ真っ向から受け答えをしていたが、今では極力避けるまでになっていた。
だから、彼に気づかれないように、静かに帰宅したかったのだが、如何せん鍵穴が古いため万事穏やかに、とはいかないのだった。

それに、さっさと家に入って疲れた身体を休めたかった。
取りつくしまを与えないというように、アーサーは無言でドアを引いた。

「あ、待ちなよ!」

「……何だよ」

こうして呼び止められるのもよくあることだった。

無視できるものならしている。
そうしないのは並みではない力で、腕を取られているからで、仕方がないのだ。

「……えっと……」

アーサーは依然胡散臭げな顔をして言葉を待った。
眼鏡越しの目が、アーサーの頭上辺りを泳いでいる。


「君さ、顔真っ青なんだぞ。倒れでもしたら面倒だし、うちに来ないかい?」

「いや、遠慮する」

にべもなく切り捨てる。
しかし、だから離せと促すも、一向に手は緩まなかった。
アーサーが何か言おうと口を開きかけたのと同時に、アルフレッドは我慢ならないというように付け加えた。


「何かさせてくれよ!俺は、君が心配なんだってば!」

ぽかんと口を開けたまま、アーサーは今聞いた言葉を頭の中で反芻した。

「……なんだって?」

アルフレッドの憮然とした顔に赤みが差しているのを見て、聞き違いでないと悟る。
今度は、アーサーが挙動不審になる番だった。
この上なく混乱した顔をして、しかもどういった返事を返せばいいのか、検討もつかずに、喉に言葉を詰まらせたようになってしまった。

「な、なんだよ急に!変だぞ、お前。どうしたんだよ」

「別に、言いたいこと言っただけだぞ」

何事もなかったようにケロリとして、アルフレッドは言ってのけた。
そして、向かい合った隣人の、動揺のあまりぱくぱくと無意味に開閉する唇に、目を留めて笑った。
憎らしげな色を湛えていた上面しか見えていなかったが、可愛いげのある純粋な部分が、意外にもあるものだと、お互いに思った瞬間だった。

「まあ、俺が誘ったからには、拒否権はないんだぞ。ほら、入った入った」

「強引にも程があるだろ!礼儀を知らねぇのか、この、ガキ!」

一応、抵抗してはいるのだが、てんで効果はない。
ばたばたと、空いている手を逃がしながら、着実に引きずられていった。



結局、解放されたのは日が暮れてからだった。
少し目を凝らせば悪意が見出だされる、そんな退廃した環境にかぶれて、すっかり人間不信になっていた自分を発見した。
今まで警戒していたのが馬鹿らしくなるほど、アルフレッドは底なしに真っ直ぐで、およそ作為的に動くことのなさそうな人間だった。

初めて隣人の家にお邪魔して、特に何をしたわけでもない。
非常食として、今ではほとんど唯一の加工品として出回っているスコーンと水のもてなしを受け、ソファーに二人してくつろいだ。
それくらいだったが、不思議な穏やかさがそこにはあった。

「アルフレッド、か……」

荒れ果てた世界に似つかわしくない明るい金髪が脳裏に浮かび、影に沈んだ彼自身を明るく照らし出すようだった。
久しぶりに、心から笑みが込み上げてきた。
そんな自分が滑稽に思えて、それでまた可笑しさに唇が震えた。

疲労に固まってはいるが、いつになく軽い身体をベッドに横たえる。
満足感が心臓から指先に広がっていく。
そのまま何か暖かいものに沈むように、眠りに落ちた。