話題:死ぬって何だ
なんか見つけた。
じゃあ語ろうか。
死ぬってなんだ、って問われたら誰でも答えに窮すると思う。
だって死んだ人間はいるけどそのことを伝えてくれる人間がいないのだから、「死ぬ」ことがそもそもなんなのかが理解できていないからだ。
これはサッカー選手や野球選手(に限ったことじゃないが、とにかく才能に溢れる人)などがいい例で、どういうプレーをどのようにしてください、と言えばそれを一言一句違えることなくこなすが、じゃあそれを説明してくださいと言ったら言葉を失うのと似ている。感覚では理解していて体も動かせるが、その理屈がまったくわからないというやつだ。自分の得意分野と苦手分野を書き出してそれを理屈にしてみるとそれらしい答えが出るはずだ。
さてそれを踏まえて死ぬとは何か、だが、それは生命体としての終焉だと思う。言い換えると、行き着くべき場所とでも言うのだろうか。
人間に限らず動物は死期、つまり体の不調を如実に感じることができるため、その先に何があるのか、それを大方理解する。
治りそうか、治りそうにないか、それを自問自答し、治りそうにないと踏むと、ああ、死ぬんだ、そう感じる。
己の「終わり」だ。
寝るという行為は死ぬことに近いとも言われ、確かに「やばい」と思う感覚のときには、眠りに落ちるような違和感とともに視界が閉ざされていく。それが死にもっとも近いと思う。
だがおれの言いたいところはその先で、ここまではどうでもいい。つまりおれが真っ先に問いたかったのは、死んだあとに自己の形成はどうなるのか、ということだ。
自己の形成?
なにをもって自己とする?
この思考か?
あるいは筋道を立てて「私は確かにここに存在している」と数学的証明をするか?
そうして、その数学だけを盲目的に毛先一本も疑わずに信ずることができるのか?
そもそも生きていると死んでいるの違いはなんだ?
なにをもって生きているとするのか――これは社会的な意味ではなく、本来の、正しい意味での使い方をしている。
心臓が動いている、筋肉を操作できる、呼吸をしている、ものを食べている、こうして思考している、などと万の言葉を費やして説明することもできるだろうが、それは所詮生命活動の定義に過ぎない。
例えば人間か動物かなにかの標本を持ち出して人工物の心臓やら肺やらと内蔵を埋め、オリジナルとまったく同じ活動をするようにしたら、それは「生きている」のだろうか?答えは恐らく、「否」だ。
だが精巧なコンピュータをつくり、まったく同じ検査をすれば、それはきっと判断を下すはずだ。
「どちらも生きている」
と。
生きていないことは死んでいることだ。要するにその生命活動を行う「なにか」は死んでいるわけで、死にながらにして生きているものと同じ活動をする。
生きていることと死んでいることは、実は本質は変わらない。どちらも生命体に起こりうることだし、生命体として当然の在り方だからだ。
と、こう来ることで改めておれは考える。
死ぬとはなにか?
死ぬとは生きることであり、死んでも生きているのとさして変わらない。ただ状況が変わるだけだ。
おれの至る結論は、以上。
ここまで書いておれが先輩に言われた言葉を思い出した。
「お前ってさ、なんかおれらと考え方が違うよな。ずれてるとかじゃなくて、なんていうか、違うって感じ」
そんなおれは今や教師の間で変人と呼ばれています。いや、別に構わないけどね。