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その後、テーブルに甘味やジュースを並べて、僕たちは他愛のない話をした。どの授業の講師が怒りっぽいだとか、僕が寝ぼけてスクランブルエッグ用の卵を屑籠に、殻をフライパンに入れただとか、アシエルが酔っぱらって女の子のスカートを捲って女子にリンチされたとか、そんな他愛のない話。しかしイリューシャのことは何も話さなかった。本人は語ろうとはしなかったし、僕たちも聞こうとしなかった。分かったことはイリューシャが大食いなことだけ。パフェを三つ、ジュースを二杯空にし、奢ると見栄を張ったアシエルが泣きそうになって、そんなことをしていたら時間はあっという間に過ぎた。イリューシャの両親が迎えに来て、僕たちの課外授業の時間も終わって、今はベッドの上に身を投げている。
「コーヒーいれたけどエディも飲むか?」
「ん、もらう」
気怠い身体を起こして、ベッドの上に腰を掛けた。
アシエルのコーヒーははっきり言って美味い。豆を買う店もちゃんと選んでいるし、手順もきちんと踏んで、インスタントじゃあだせない味を出していて、アシエルのコーヒーに慣れてしまうとそこらの喫茶店でコーヒーは飲めなくなるほどに。ミルクと砂糖の量も熟知しているから、本当に僕の好みそのものだった。
アシエルも隣にあるベッドにコーヒーをこぼさないように腰かけ、音を立てずに口に含む。そういうところは教育が行き届いているなと思いながら、僕はキャラメル色のコーヒーに意識を向けた。
「エディ、何を考えているんだ?」
「は?何をいきなり」
「とぼけなくてもいいだろ。あの女の子のこと、考えていたんだろ」
「……まあな」
アシエルはいつもはコンタクトをしているのだが、今は眼鏡をかけていた。眼鏡をかける場合は二通りある。作品を作るときと、今みたいに一対一で話をするとき。
ふー……と立ち昇る湯気を吹きながら、僕はアシエルを観察する。
黒縁の眼鏡はアシエルをいつも以上に掴みどころをなくす。本人はそれを分かっていてそうしているのだろうか。
「あの子にはもう近づかない方がいい」
「おいアシエル。何を言っているんだ」
「もし町ですれ違っても知らないふりをしておくんだ」
「アシエル」
「エディ。お前とあの子は組み合わない。組み合ってもいいことにはならない」
「待て、待ってくれ。お前何か勘違いしていないか?なんでお前はあの子にそんなにこだわるんだ」
そう反論するとアシエルは僅かに眉をひそめた。
言葉を探しているような、言葉を発することを悩んでいるような、そんな表情を見せた。
アシエルがこんな表情をするのを、僕は初めて見た。
アシエルはいつもくるくると表情が変わって、でもそれはいい方向のもので、何かがあっても最後には笑っていた。
それなのに、それなのになんでこいつはこんなにつらそうな顔をしているのだろう。
「言いたくないのか?言いたくないのなら僕はそれでいい。でも、納得はできないだろうね」
「それは、困る。納得できなくて、理解できなくて、そのままだったらお前はきっとあの子に出会って、他愛なく話しかけてしまうから」
「じゃあ話すのか?」
「――お前は、俺の古い友人に似ている。そして、あの子は、イリューシャは……昔の俺に似ているんだ」
「お前があの子に?」
「長い話になる。そしてそれは余韻のいい話じゃない。聞きたくなくなったらそう言ってくれ」
「――それで、お前の傷は抉られることはないのか?」
「……それ、は」
そう言って、アシエルは顔を伏せてしまった。
捨てられた子犬のようなアシエルに、俺はコーヒーをサイドテーブルに置いて、アシエルの手からもコーヒーを受け取って、抱きしめた。背中に腕を回すとアシエルは小さく震えているのを感じた。
「言いたくなかったら言わなくてもいいよ、アシエル。傷は抉るものじゃない」
「……………でも、」
「でも?」
「言わなかったらきっとお前は、アイツと同じことになって、それで、それで……っ!」
「……分かった」
アシエルの動きが止まった。震えだけでなく、呼吸の感覚まで消えた。
何をそんなに怯えているのか分からない。分からないけど分かった事がある。アシエルをこのままにしてはいけない。
アシエルはいい友人だ。いいやつなんだ。こんな風に怯えるようなことがあってはいけない。日向のような笑顔を曇らせることがあってはいけない。
「聞くよ。言いたいことは全部吐き出して、ぶちまければいい。言いたくないことは言わなくてもいいよ」
「……ああ」
「それから、最初に誓っておいた方がいいから誓うな。俺はお前の事を嫌いにならないし、なろうとしてもなれない。だから……泣くなよアシエル」
「………………」
嗚咽すら流せずに泣くアシエルは、とても脆く感じた。涙で濡れる肩なんて気にせずに、僕はアシエルをただただ抱きしめた。このまま壊れてしまわないように。
「――あれは、5年前のことだった」
それからアシエルが話した事は、一生僕の心に残るだろう。そう確信しながら、目を瞑った。
「天国のばあさん、とても信じられないことが起こったよ、どうか聞いてくれ。エディのことならパスタの茹で時間の好みから今日はいているパンツの柄まで知っているのに、こんなことってあるんだな。ばあさん、どうか俺だけでなくエディのことまで見守っておくれ」
「なぜそうなる。パスタの茹で時間とパンツの柄はルームシェアしていて尚且つ自炊しているからだろ。そしておまえのおばあさんはまだ健在だ。縁起の悪いことは言うな」
「うちのばあさんなら100は越えるだろうから逆に大丈夫だ。問題ない」
「お前の頭が大問題だ」
胸の前でさも信仰深いかのように天を仰ぐアシエルを、僕は肘で小突いた。ドスッと鈍い音がして、アシエルが足元で蹲るのを視界の端にとらえながら僕はその作品に向き直った。
真っで知っているのに、こんなことってあるんだな。ばあさん、どうか俺だけでなくエディのことまで見守っておくれ」
「なぜそうなる。パスタの茹で時間とパンツの柄はルームシェアしていて尚且つ自炊しているからだろ。そしておまえのおばあさんはまだ健在だ。縁起の悪いことは言うな」
「うちのばあさんなら100は越えるだろうから逆に大丈夫だ。問題ない」
「お前の頭が大問題だ」
胸の前でさも信仰深いかのように天を仰ぐアシエルを、僕は肘で小突いた。ドスッと鈍い音がして、アシエルが足元で蹲るのを視界の端にとらえながら僕はその作品に向き直った。
真っ青な、それでいて平坦さのない風景の中に、ボロボロな翼を背負う天使が、風景ごと逆さまになっていた。
まさかここの職員が上下を間違えることはないから、こういう作品なんだろう。
「あー、いつつ……。それにしても、まさかあのエディがこの作品を選ぶとはねー?」
「アシエル、この作品を知っているのか?」
「えっとー……たしか、近代の作品で、宗教画だったような……?」
「曖昧だな」
「だって有名な画家じゃないし」
その言葉に釣られて絵画の下にある作者と作品名が表記されているプレートを見た。確かに聞いたこともない。むしろ何となくでも知っていたアシエルが凄いのか。
そんなことを考えていると、斜め後ろから落ち着いた声が響いた。
「そうね」
「へ?」
声に釣られて振り向くと、……誰もいない。少なくともこちらを見ている人物は。
「空耳にしたら大きいな」
「エディ、下だ下」
「下……?」
アシエルの言葉に従い、目線をゆっくり下に向ける。
すると、大人びたこの場所には似つかわしくない程幼い少女がこちらに視線を向けることもなく立っていた。
白いシャツに黒いひざ丈のスカート。艶々とした金髪は背中辺りまで伸びていて、青い瞳はこの絵画のようにしっとりと落ち着いた色だった。
「君は……?」
「イリューシャ」
「僕はエディ。こっちはアシエル」
のんきに自己紹介をすると、イリューシャはやっとこちらを見た。
――海のようだ。瞳の色だけではなく、全体の雰囲気が雄大な海を思わせる。
呆けたように彼女を見つめる僕に、アシエルは屈んでイリューシャと目線を合わせた。
「ねえイリューシャちゃん、お父さんやお母さんはどうしたのかな?迷子?」
アシエルの言葉ではっと我に返った。確かに子供だけでこんな場所に来るとは思えない。
「いえ、父と母が迷子なのです。私を置いてモナリザへ直行しました」
美術オタクでミーハーなのです、とイリューシャはどこか遠くを見つめていた。
……何と言えばいいのだろう。イリューシャのお父さんとお母さんが一緒に行動しているのならイリューシャが迷子であるともいえるし、そもそも子供を置いて行ってしまう二人を責めるべきなのか。
言いあぐねる僕に、アシエルは「そっか」と微笑みながら声をかけ、髪を乱さないようにイリューシャの頭を撫でた。
「まあ仕方のない事なのです。私が住んでいるところからここは遠いから本物を見るとはなかなか出来ないですので。いつも二時間もすれば休憩室まで探しに来るのです」
「それはあとどれくらいのことなのかな?」
「おおよそ一時間後」
まだ半分じゃないか。
顔に変な笑みが浮かんでしまう。
「じゃあそれまでお兄さんたちと一緒にいる?危ない人に連れていかれたらいけないし」
「知らない人について行ってはいけないとは教育されました」
「名乗るだけじゃだめなのかな?」
「本名を名乗っているか分かりませんから」
「うーん……あ、学生証」
「あ、そっか」
アシエルに言われて、あわてて財布の中に入れていた学生証を取り出す。カードに名前と学年と、それから顔写真が印刷され、写真と重なるように校章がプレスされているものだ。
それをイリューシャはまじまじと見つめ、
「美術学校ですか」
と呟いた。
「そ。俺達ここからしばらく行ったところにある美術学校の生徒なんだ。今は課外授業でここに来ているんだよ」
「そうですか」
イリューシャはこくりと頷いて視線を絵に戻した。去らないという事は了承と受け取ってもいいだろう。
僕も同じように絵画を見つめる。青い青い世界。夜明け前、僅かな時間世界が青く染まる。
空の中に世界が広がっているようで、美しく、どこか悲しくなる世界。それと同じものがその絵にはあった。太陽がまだ昇らない世界で、ボロボロになった天使。闇の中で戦い、勝利したのかしていないのか、そもそも戦いすらもなかったのか。天使には光悦感とも諦めともとれる笑みを浮かべて、逆さまの空を見上げていた。
この絵は美しい。美しいが、美しいだけの絵などこの美術館には溢れかえるほどある。それなのにこの絵が一番心に残り、どうしようもないくらいに惹かれるのか分からなかった。
「悲しい絵ですね」
イリューシャが呟いた。
誰に向けたものなのか、それとも誰にも向けていないのか分からない。分からないが、答えなくてはいけないと、義務感のように感じた。
「青は悲しく感じるからかな」
「確かにそうですが、これが宗教画だという事が悲しく感じます」
「この天使が?」
「作者が何を思って描いたのか、どう思って描かされたのか、理解できないのが悲しいのです」
「理解できないことは悲しいのかな」
「いえ、人間というものは分かりあうことが出来ませんから。そこはいいのです」
「……じゃあ、なんで悲しいのかな」
「……哀れだからです」
「………………」
振り向くとイリューシャは泣きそうな、痛みを感じているような笑みを浮かべていた。
ここまでだ。これ以上踏み込むには覚悟が必要だと感じた。
イリューシャは言葉を続けなかった。僕も、言葉を紡げなかった。
沈黙は暫く続いた。重い空気を感じながら僕もイリューシャも、ただひたすらに絵を見つめ、アシエルも傍観していて。
一分が経過したころだろうか。時間が凄く長く感じて、耐えられなくなってきた頃を見計らったようにアシエルが口を開いた。
「この絵もじっくり見たところだし、ほかの絵を見るか、一休みしないか?」
「足が疲れました」
「じゃあ休もうか。エディも。いいだろ?この絵は十分見たし」
「ああ」
一週間後、僕はまたその場所に立っていた。今度は学校の課外授業として。
半日――厳密には三時間程かけて館内を巡り、いくつかの作品を見て感じたものをレポートとして提出する。レポートは館内の休憩室で―あくまでも迷惑をかけないようにしながらなら―書いてもいいし、今日じっくり見て明日まで提出してもいい。大半は書ききることが出来なくて明日までに仕上げることになるだろう。そんなことを考えながら、僕は館内をゆっくり見て回る。
目当ての画家のところまで一直線に向かう人もいれば、入り口から一番近い作品で済ませようとする者もいた。まあ、それが僕の悪友なのだが。
「お、エディ。まだこんなところにいたのかよ」
「アシエルはもうレポートを書き終ったのか?」
「おう!」
アシエルはいい加減なところがあるが、こう見えても容量はよく、片手間でも多いほどあっさりと課題やレポートをこなしてしまう。それでいてスペルミス以外では欠点がないのだから時々嫌になる。
それほ告げるとアシエルは決まってこういうのだ。「エディは難しく考えすぎなんだって」と。
ただ単に楽天的な考えのようにも感じるが、アシエル曰く「一周まわって辿り着いた考えさ。俺だって昔はガチガチな秀才君だったんだよ?」と。
アシエルが言っていることが本当なのかは分からない。初めて会ってからまだ一年だし。そもそも掴みどころがないし。
「ところでエディ、先週もここに来たって言ってなかったか?なんでこんなに時間かけてんだよ」
癖のある茶髪を指で弄びながらアシエルは館内を気怠そうに見回す。この辺りは写実派の絵ばかりだから、彼にはつまらなく思えるのだろう。
「確かに先週来たけれど、それが逆に悪かったんだ」
「なんでだよ」
「……ここにはいい絵が多すぎる」
「ぶっ!!!」
アシエルは盛大に吹き出した。
「なんだ、よ、それ!おまえ、「僕はきっとどの作品のレポートを書けばいいか迷うから、先に下見してくる」って言っていたのに!馬鹿だ!真正の馬鹿だ!!」
くどいくらい僕の喋り方の特徴を強調した、自分では絶対に似ているとは思いたくないものまねをしながらアシエルは眼鏡をくいっと上げるジェスチャーをした。
子供のように笑うアシエルに対して、僕は反比例するように半眼になってあえて尋ねた。
「……アシエル。先生がここにきて最初にいったことは?」
「館内では静かに!」
「笑われるのは我慢するからさっさと口にチャックしなよ」
「分かった分かった。口を噤むよエディ」
そう口にはしたものの、アシエルの肩は震えたままだった。そんなアシエルを視界から外し、絵画の回廊を進む。写真のように精密な絵画。それらは僕の目に煌めいて見えるが、心を揺さぶる何かが足りなかった。
ずらりと並ぶ絵画を前に腕を組む僕に、やっと笑いが収まったアシエルが斜め後ろから顔を寄せた。
「そんなに悩むものか?」
「ああ、悩むさ。頭を痛めて書き上げるレポートなんだからな」
「それじゃあ駄目だな」
「なんでだよ」
「本当にいいものはハートから言葉があふれてくるんだ。逆に頭で要約しないといけないくらいにな」
「お前にとってはそれが入り口に一番近かったのか?」
「何言ってんだよ。ここには一流の作品が詰まっているんだぜ?何も感じないわけがない」
「僕だって、何も感じないわけじゃないんだ」
ただ、何かが足りないんだ。心を芯から揺さぶる何かが。なまじ教本でたくさんの絵画を見てきたせいなのか、どこかインパクトに欠けてしまう。
本格的に頭を抱えだした僕に、アシエルは小さく溜息をついて、
「お前、今マーマイトを食ったような顔してるな」
と言いやがった。
「ちなみに食べたことは?」
「ない」
「くくくっ、さすがフランス人」
先程注意されたからなのか、アシエルは小さくかく大きな笑いをこらえた。
「で、先週下見に来た成果は皆無か?何かビビっと来た作品はなかったのか?」
「そうだな……」
顎に指を当てて僕は暫し考えた。
今回より何倍も時間をかけて回った中で印象的だったもの。写真より本物に近いようにすら感じた絵画。躍動感にあふれた彫刻。作者の心情を考えたくないほどの抽象画。それらでも何か違う。何かが違ってしまう。それよりも鮮明に焼き付いているのは、
「……あの絵」
独り言のように吐き出した言葉に、アシエルの表情がぱっと明るくなった。
「よし!それじゃあそれを見に行こう!」
「え?」
「善は急げだ!神様が俺達を見放さないうちに行くぞ!」
「おい、アシエル!」
アシエルは僕の手首をつかんでどんどん奥へと向かう。僕より上背があり、つまりはコンパスが違うアシエルが早足になると僕は小走りになってしまう。
「待つんだアシエル!そっちは逆方向だ!」
「へ?」
その言葉に急停止したアシエルの背中に鼻をぶつけてしまったことは、家族には話さないことにしよう。仲間にはどうせアシエルから伝わってしまうから。
誕生日 | 9月14日 |