おれやマルコが両親を亡くしたことによって受けた心の傷は、言うまでもなく大きい。幸いにも塞ぎ込んで精神科の世話になったり非行に走って警察の世話になったりすることはなかったけれど、それは全て伯父さんという誰よりも懐の深く素晴らしい義父に育てて貰えたお陰だ。それを、まるでおれとマルコが親を亡くして幸運だったかのように妬まれ、伯父さんとマルコを身内贔屓の不公平な人間かのように侮辱され、易々と黙ってなんかいられなかった。

 そもそも、おれは縁故採用なんかじゃない。良い調理人が見付からないとマルコが頭を悩ましているのを目の当たりにして、マルコと伯父さんに内緒で偽名で採用試験を受けたのだ。面接の時の二人の驚いた顔は今でも覚えている。前の勤め先はそこそこ名の知れた良質のレストランだったけれど、愛する二人の為なら自主退社も惜しくなかった。

 驚愕で言葉も出ない新人たちを余所に、襟刳りを掴んで集団の中からティーチを引きずり上げると、ヤツは折れた前歯を隠そうともせず口角を上げてニタリと厭らしく笑った。その拍子に彼の座っていたパイプ椅子が勢い余って後ろへ倒れ、床と衝突して激しい音を立てる。同時に皿やコップも落ちてしまったようだが、そんなこと今は気に留めてなどいられなかった。愛情を込めて作った大事な料理たちだったけれど、おれはそれにも勝る怒りに支配されている。


「ティーチ!てめえ、新人相手だからってデタラメ言いやがって!」

「ゼハハハハ!デタラメなんかじゃねえ、本当の話だ。そもそも社長はあんまり乗り気じゃなかったんだぜ。それなのに副社長が半ば押し切る形でおまえを採用して課長にしたんだ。」

「何だ…と……?」

「ほォ、その様子じゃ知らなかったみてえだな。幼なじみ想いの副社長サマの配慮や恩恵にも気付かねえでのうのうと課長職を全うたァ、脳天気な野郎だぜ。もう一度言ってやる、」




「おまえは、紛れもなく、縁故採用、だ!」




 強調された単語に、彼を掴み上げる左手に力が隠る。完全に頭に血の上ったおれの右腕は今にも殴りかからんとばかりに構えられているというのに、尚もティーチは怯むことなく、前歯を剥き出しにして肩を揺らして愉しげに笑う。

 今までそれなりに仲良くやって来たじゃねえか。いきなり彼がこんなことを仕掛けてきた理由も意味も分からず、怒りで冷静さを欠いたおれの脳は全く状況についていけていない。マルコといいティーチといい、何なんだ。急に掌を返して、おれが一体何をしたっていうんだ。そう怨み言が喉まで出かかった時、奴はぴたりと笑いを止め、おれを見下ろした。


「だが、今や副社長サマのお気に入りの座をエースに奪われちまったんだ。その首がすっ飛ぶのもそろそろかも知れねェな、四課課長さんよ。…ゼハハハ!ご愁傷様、と挨拶しておこうか!」


 ふと、先刻の騒ぎによって床に落ちてしまった彼の好物のチェリーパイに気付く。何年間もうまいうまいと喜んで食ってくれていたそれを、ティーチの黒光りした革靴が意図的に踏み潰すのを見て、おれの脳の働きは完全に停止した。






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