蜜房はなぜいつまでも黄色







江戸の桂の隠れ屋でもある家は、その日、霧雨に包まれていた。
桃の樹の季節があれからまた巡ってきて、神楽は十六歳と五ヵ月になっている。
定春を玄関の中に待たせて、神楽は階段を上っていった。明治の中期に建ったらしい、ペンキ塗りの西洋館の内部は、壁も階段も、時代がついていて、木の階段はささくれ立っている。手摺りに掴まるとニスが掌につきそうに、湿っている。
角く開いた襟と袖口、帯に白い縁取りをした、薄いブルーの膝までのセーラーに、黒い木綿のタイツを穿き、前髪の後ろの髪を揉みあげの上で、白い幅広のリボンで結んでいる。
足音がして、後ろから桂が、ゆっくりと上がって来て、足を留めた神楽に追いついた。



「今日は早かったな、リーダー」


桂は少し掠れた声で言い、神楽を見下ろした。前髪の下から、神楽の頬が覗いている。温かな雨が降って、一晩のうちに膨らみ、端だけが薄赤く染まった、三月の、あの薄青く、まだ固い桃の花のように、神楽の頬が、先週に見た時とは違って、乙女の頬を想わせるようなものをどこかに潜めているのを、桂は見た。
軽く化粧をしてきたようだ。
珍しく、チャイナドレスではないが、ぬめるような色気と肉感が、桂を圧倒してくる。
それでいて、もうとっくに人妻だが、まだまだ稚いようすが、可哀らしい。


「……銀時は元気か?」


桂の声は、どこか平常と違っている。
神楽は顔を上げて、桂を見上げ、黙ってうなずいた。踊り場の窓から明かりが落ちているためだろう。濃く長い睫毛の下に出来た浅い影が、その日の神楽の、乙女のような頬に一瞬、なまめいた色をつけていて、桂の胸を痺れさせた。紅をぬった薄紅い唇が、それを一層かき立てている。
その頬と唇の辺りの、艶めいて見えるのとは不似合いに、少女らしく頷いた様子も、桂を強く惹いた。


(──よほど、甘えさせているのだな……。小さな子供のように稚いようすが、まだとれずにいる。銀時にはどんな風にして、甘えるのだ……)


神楽は、この西洋館に置き忘れられたようなピアノの存在を知り、時々だが弾きに来ているのだ。
桂とのピアノの練習には飽きている。だが、なにかの曲の一部を覚えると、それを桂に弾いて聴かせるのが、今では楽しみになっている。自分の指が、桂の言うようによく動くことを、誇らしくも思っている。それで神楽は桂の、「上手になるように練習して、銀時に聴かせてビックリさせてやるといい」という言葉に怠け怠け、従っていた。
部屋に入ると、白い桃の花がもくもくと、湿り気のある花びらの肌理を見せて、大きな花瓶一杯に、挿されている。霧雨に濡れた外の大気が、そのまま花と一緒に部屋の中に入って来たように見える。
神楽は愕いたように、立ち止まった。神楽は白い桃の花のあることを、知らなかったのだ。


「桃の花だ。 気に入ったか?」


桂は少年のように、嬉しげに言った。


「庭のを折って来たんだ。雨で色が渋くなったが、それが返って一層綺麗なもんだろう」


その日はエリザベスが出ていて、夕方遅くまで帰らないはずである。桂は神楽に見せようとして、雨の中に出て、桃の枝を折って来たのだ。
神楽の来る時間が近づいた時、桂はなんとなく落ち着きを失くして、短い散歩に出た。そうして今帰って来た時、彼は階段の上に黒いタイツを穿いた、神楽の美しい脚を、見たのだ。
わかい仔馬のような、黒いタイツの脚が、さものんびりと怠け怠けと、登って行くのを下から見た時、桂は不意に頭が火になって、


(今日こそ逃してやりはしない)


と、そんな、全く不条理な想いが頭に登るのを、覚えた。
その日、桂は、この西洋館の立て壊しが決まっていて、神楽との密会も、ピアノの練習も今日で終わりだということが解っていたのである。
神楽はすぐに花の傍に寄って行って、顔を花に押しつけるようにした。花の肌理とまったく同じような頬だ。
そうして立っている桂を振り向いて見て、


「香りは少しだけしかしないアルな」


と、独り言のように言った。



(──まるで花のようだ……)



「でも、花だから、よい匂いがするだろう」


ピアノの椅子に掛けた神楽は、桂が、ピアノの上から下ろして掲げるソナタの楽譜を眺め、既に退屈しはじめていた。そうしてなんとなく、身じろぎした。


(銀ちゃんは、今日何時に帰ってくるんだっけ……)


「リーダー。練習の時には他のことを考えちゃダメだぞ」


桂は、練習を始めぬ前から、もう椅子から下りたがっているのが判る、神楽の落ちつきのない腰つきに、横から仕方のない娘だなと眼をあてた。
今まで、三年もの長い間、銀時には負けるが、銀時より適度な距離で懐いている神楽である。やって来て、この椅子に掛けるなり、怠けることをよく考える神楽を、この薔薇色の、翼の厚い、肉付きのいい小鳥のような神楽を、今日は唯では帰してやらない。
桂は唇を少し開き、白い歯を見せた顔になって、神楽にやや甘い眼をあて、むしろ無感情な声で言った。異様な恍惚を見せた顔である。


「さあ、音階」


桂は、この頃になっていつもそうなように、神楽が椅子に掛けるやいなや、自分を襲う、一種の昂奮に痺れた。そうして、さらに痺れるものもある、甘やかな練習の繰り返しで、神楽を聊か責めつけてやりたい嗜欲への緊張を、今も覚える。
人妻となった神楽が、桂はさらに可哀くてならないのだ。
元から、愛玩動物のように可愛がってきた天人の娘だが、天女のような絶佳の美貌に育ったいまも、桂に懐いている様子の神楽が、可哀くてならない。
銀時に夜毎寵愛と調教を繰り返されている若い身体は、ぬめるように輝き、その輝きは男に毒なほどで、桂にも迫ってくる。
どれほど、可哀がられているんだろう……。
銀時と神楽の夜の営みを想像しては、桂は眠れぬ夜を過ごすこともある。色気ムンムンの神楽に、陰茎がイライラするほど、時に熱く滾ることもある。
まだ十六歳の幼妻で、親友の人妻で、ロリロリの美少女だ。
そんな、天女のような美貌の美少女が、汗でびっしょりと火照り、股を広げる姿は、さぞかし美しく、可哀いのだろう……。
桂は恍惚な、低い脈の音のような昂ぶりを潜めて、獲物を見るようにして、神楽を見た。
その視線に、神楽がびくりと振り返った。


「………どうした、リーダー」


桂は、親友である銀時の手前、神楽をどうこうしようなどとは夢にも思わないが、こんなにも美しい少女を前にして、素面でいられるような枯れた男ではなかった自分に、今日も驚いていた。
桂は、自分が神楽に対して、こんなになった原因が、自分の過去の生活にあるのを、知っていた。彼は長い間、ストイックな生き方の枠の中に、自分を閉じ込めてきた。人妻が好きだが、女の問題は一度も、起こしたことがない。銀時と同じ十代をやんちゃに過ごしたが、女に関しては、何の過失もなく、今まできた。十代の終わりの頃、二、三の人妻に欲望を覚えたが、元来の鈍感さから、プラトニックの域を出ないでいた。何度か、胸を焦がす相手に出逢ったが、桂の情熱はいつも発散されずに、内部に閉じ込められた。桂のそういう、長い生活の中で、欲望は内部に閉じ込められて、発散するということがなかった。厳しい逃亡生活と、穏やかな、性格というよりもむしろ、ごく仲のいい兄弟のような、同士との生活。この二つが、桂の人生の全てである。
その長い間、内部に鬱積していて、捌け口のなかった、本能的な欲望、やり場のない燻った肉欲は、今こうして、彼が愛した少女を怯えさせ、内部の鬱積はいよいよ緻密になり、固くなっていった。彼の鬱積の緊密さと、彼の不器用な表現とは、どんなときにも彼の内部のものを巧く吐きださせることが出来ないで、欲望は永遠に封じこめられた儘である。



「ヅラは、幾松さんとは、結婚しないの?」


思いもよらない角度からの先制パンチに、桂は言葉が詰まった。


「俺たちは別に……」
「でも、好きなんデショ?」


嫌いではない、むしろ好ましい、というより他にどう言えばいい……。
狼狽える桂に、神楽がにんまりと笑う。


「手を出しちゃえばいいのに」
「……は、はしたないぞ、リーダー」


幼い時からの堅物な生活は彼の性癖になっていて、彼の、夏などには暑苦しく見える程強く襟元を正した着物の着方にも、それは現れ、見る人にまさに真面目な侍のような印象を与えるのだ。だが、そこへ神楽を連れた銀時が、現れたのである。
桂は銀時との再会を経て、やはりただ者ではない、立派な男なのを感じとると同時に、神楽の可哀らしさと、魔のような魅力に、うたれた。
そうして、銀時に恋人のようになついていて、その父親然とした銀時との親密、という限度を超えて見える、彼ら二人の濃密な繋がりをも看て取り、見ている内になんとも言いようのない妙な、穏やかでない心持を覚えはじめた。一種の嫉妬の悶えを、覚えたのだ。
銀時は銀時で、桂の出現によって、神楽というものを所有している歓びが、深部に深められるのを覚え、奇異な想いをした。銀時はその日、勝利者の、柔らかな、新しい、香草の寝床に転がる、甘い歓びを抱いたのだ。自分と神楽との、清らかな、甘い蜜を秘めた、「甘い蜜の部屋」の鍵を握っていることへの、勝利感である。
銀時は桂との邂逅で、彼の優れた人物を認めると同時に、そのまだ、翳りのない美青年の面影をも認めたが、それは銀時の胸の内部のささやかな所有者の快感を、倍増した。銀時は普段、桂と離れて暮らしている。厚い空気の層を隔てて、離れた町に、住んでいる。その空気の層が含んでいる家々、樹々、空き地、店、はためく広告の幟、旗、ざわざわいう群衆、石榑、犬、などを隔てた場所で、桂が、神楽を見て、心臓の動機を抑えているのを、銀時は感じとっている。自分と神楽との間にある、甘い、閉ざされた部屋の秘密を窺い知っていて、そこへ行くことの許されぬ悶えを抑えているのを、感じ取っている。そうしてある歓びを、覚える。
銀時は稀に、桂を訪ねて、十五分程話をして帰る。桂が万事屋を訪ねることもある。二人の男は相手の人間を認め合っていて、惚れ惚れするような……とはいかないが、腐れ縁のようなものをお互いに感じ合っている。どうかした拍子に、桂の眼にある探るような火が宿る。その探るような火は、銀時の眼が、というより勘が、捉えるより速く、消える。そうして後には爽やかな、鋭い光が残った。その探るような火のようなものは桂の霊が抑えている、彼の嵐である。銀時には桂の眼の中に垣間見た火が、彼が神楽を想い浮かべた瞬間に宿ったものだということが、解っている。神楽は、二人の間に置かれた無垢の兎であった。翅のある娘。女性の天使であった。そして今は、霊感のようなものを持った、天女である。愚かな子供でないかぎり、予感は持っている。純粋の無垢でいて、それで可哀らしいのは、二つ三つまでである。
そんな瞬間、銀時の想いは、過去、神楽を湯に入れてやる沐浴の場に繋がった。裸の天使といる、時間である。青い、円い、固い果実を、掌にのせて眺める時間である。青い果実は、一度、一度と湯に入れて、洗ってやる度に、眼には見えぬほど少しずつ熟していく。銀時は、過去、神楽に抱いている、自分のそういう想念を、誇るべきものだとも思わないが、恥ずべきものだとも考えていなかった。
銀時は世の中の父親の多くが、自分と同じ想念を持っているのだろうと、考えている。ただ多くの父親はその想念を、頭の中で、言葉にして組み立てることをしないだけのことである。父親の、綺麗な娘に対して抱く、愛着。それは自然なものだと、銀時は考えている。そういう想念を持つ時間のあるのは自然で、ただその男の、そういう感覚が、ストイックなもので押さえられていて、そうしてその男の生活全体が、立派なもので律せられていればいいのだと、考えている。言葉にも、文章にも、道徳しか吐き出さない、<道徳を吐く蜘蛛>のような男の内部にむしろ、獣がいる。あやしげな道徳の煙を顔に纏わせ、空虚な威厳を誇示している男を、銀時は烈しく嫌っていた。そうして、小さな神楽が、自分の抱いているそういう種類の嫌悪感を、自分と全く同じように持って生まれているらしく思われることが、彼の神楽を可哀くてならない思いの中の一要素ともなっているのだ。
桂と銀時とは、互いの人間らしい内面に触れるようにして、話をするのである。



「リーダー、今日でピアノの練習は終わりだ」


話題をかえるように、桂は神楽の肩をさりげなく抱いて、言った。


「……? どういうことアルか?」
「来週、この洋館は取り壊しになる。ここに来るのもこれが最後だろう」
「え……じゃあ、ピアノは……」
「リーダーが使うというのなら、そのままプレゼントしよう」
「………」


ただ銀時に、練習の成果をいつかは見せようと思っていただけなので、神楽は戸惑った。万事屋にピアノを持って帰るわけにはいかない。置く場所も無いし…。


「じゃあ、ヅラと私だけの密会も、もう終わりアルな……」
「また新しい隠れ屋に、遊びにこればいいではないか」
「あ、そうアルな」


あっけらかんと頷く神楽に、桂は甘い眼でつぶやく。


「また落ち着いたら、連絡しよう」
「うん……」
「じゃあ、今日は最後の練習だから、まじめにしようではないか、リーダー」


桂が、どこかに潜めた男の顔で神楽を覗きこむと、神楽はまた怠そうにピアノに掌を置いて、何となく桂を意識するように弾き始めた。
ぽろん、ぽろん、と神楽の白い指先から奏でられる音に、眼を閉じて、桂は、自分の中の獣を鎮めるように、呼吸を繰りかえした。
探るような火が、桂の眼の中にはちろちろと悶えているが、彼は今日もひっそりとそれを押し殺し、神楽を可哀くてならない娘のように接した。
桂は神楽を、後ろから抱え込むようにして、肩越しに手を持ち添え、丁寧に、指の動きを直す。そうして言う。


「掌をそのまま。掌の甲を動かさずに。ドゥ…」


桂にとって、一つの苦患のような、誘惑に満ちた、ピアノの練習は今日で終わりである。






fin


more
09/25 10:10
[銀魂]




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-エムブロ-