泥だけが残った







ある日、神楽が定春から降りたところで、その日は高杉に遭遇した。
川沿いの土手にある散歩道でのことである。
あ、と口を開けて警戒した神楽は、遅れて、丁度神楽に追いついた銀時を待っていて、そばを通り抜すぎようとした高杉と対峙した。その時、高杉はそれまでに人間の体からは嗅いだことのなかった、植物性の、だが強い香(にお)いが掠めるのを感じた。その瞬間、神楽がすでに銀時のものなのだという、吝嗇が湧き、薄ら微笑いが浮かんだのである。


(…──いい女になったじゃねぇか……。)


高杉は笑みを深くする。


(こんなムンムンの色気で出歩いて、いい香いを振りまいて、男を片っ端から虜にするような、魔性の女になっちまってよォ……)


と、高杉は神楽が銀時の脇にくっつくようにして立ち、頬をむっつりとさせるのを見た。
過去、神楽に逢った時、ここまで強く惹き寄せられるような香いというより、銀時の執念ともいえる気配の揺らめきの方を感じた。よもや男の背後霊でも憑いてるのかと疑うほど、神楽からは色濃く銀時の悪臭が漂っていたのだ……。


「銀ちゃん」
「……こりゃあ、めずらしいテロリスト様じゃねーか…。 早朝から堂々と大胆なこった」


そう言う銀時の掌が、寄り添う神楽の背中を軽く撫でおろしている。不意に出現したその緻密な溺愛風景が、高杉の胸を若干息苦しくし、なにか言いかけなくてはならぬように思ったのと、突然銀時に向かって次の言葉を言いかけたのとがほとんど同時であった。


「十六歳の幼妻か……。毎晩ヤリまくってんだろォ、銀時ィ」


銀時は神楽の方に俯けていた微笑いの顔をそのまま高杉に向けて、言った。


「そりゃあ、こんな可愛い嫁さんもらったんだから、毎晩腰ふって頑張らにゃおかしいだろ」


そう言って銀時は、神楽の背中の窪みにあてた掌をそのままに、微笑って神楽の顔を覗きこんだ。銀時の腕に凭れている神楽の顔は見えないが、そこには馴れ合った、意味ありげなものが窺えた。


「子供が出来るのも、そう遠い未来じゃあるめェ」
「……なに、出産祝いでもくれるってのか」
「その時は、神威に持たせて祝ってやってもいいぜェ」
「……神威は元気アルか?」


神楽が銀時の腕からくねるように少し離れたが、高杉をじっと見て言い、またもとのように銀時の腕に背中を凭れさせた。相手の反応を知っていてするのである。神楽の様子に高杉は少し目を見開いた。
その妖しい、天女のような、神楽の稚い媚態が、異様に可哀く見えて、高杉は珍しく動悸がしばらくの間鎮まらずにいた。
銀時に寄りかかっている神楽は、体が俄かに柔らかくなったようになって、凭れかかるのだ。


「元気だぜ。 相変わらず宇宙を飛び回ってらァ……」
「いい年して、やんちゃアルな……」
「男はいくつになっても、やんちゃなもんだろォ」
「お前も、神威も、永遠の少年アルか」
「牙を抜かれた獣にはわかれねぇ話だぜ、なぁ、銀時ィ」


高杉が嘲笑うように銀時を見ると、男は惑溺の瞳で神楽を見つめて、この世の幸せをすべて詰め込んだような溜息を吐いた。


「高杉、お前には一生わからねぇかもな」
「……余計なお世話だ」


銀時の腕の中の神楽が、またくねるように離れて、ふとした瞬間の、その香気が、近くにいる高杉にまで届く。
物憂いような、けれど、澄んだ、新鮮な、不思議と重い香気だった。


(…──幼少の頃に山で見た、紅い百合に似ている……。茎が折れる時に独特な香いがあった……。紅みがかった、斑点のあるアレだ……)


花の香いを持っている女があるということは、書物で読んだことはあるが、高杉のそれまでの経験の中では、そんな女は無かった。それは重みのある香いである。その誘惑的な香いはその重みで、周囲の空気を押し広げているように思われる。紅い百合の茎を圧搾し、なにかの方法でその中の揮発性の匂いを摘出したものが、容れ物に入れられて、下から温められて香いを立てた、というような香いである。
その五分とも満たぬ時間に、高杉が見た光景は、高杉が、そのあまり永くはない命を終える時まで胸の底に鮮やかに残していた光景である。高杉の神楽への想いには最初から、烈しく誘惑させられるようなものがあったが、そこに何かの悪いもの、悪い予感のようなものが、同時に入り込んでいたようだ。


(……この娘には何か、圧しつけてくるようなものがある。不思議な娘だ……。それでいて本当に、愚かなほど稚い。愚かではないが……稚い。まるで子供だ)


今しがた自分の心を奪った香気が、まだ自分の魂を深く捉えているのを覚えながら、高杉は心の中に言った。


(……重い睫毛をじっと見開いたような眼の中に、殆ど無意識な自信が据わっている。相手を絡め捕ることが雑作のないことだという、自信、というより内部から圧し出されているような、したたかなものが据わっている。それだけではない。自分の持っているもの、自分の体の持っているものの魅惑を知り尽くしている女のしぶとい見せつけのようなものがある。何も知らない、こんな小娘の中に……)


そういう、神楽の眼から放射するものは、土方や沖田との事があった後でとくに、重みを増したようだ。
神楽は、自分がなんの意識もなしに見ただけで、相手が自分の虜になるのだ、ということを、幼い時から漠としてではあるが意識していなかったといえば、嘘になる。それに、そのことが、その相手を自分のものにすることが、自分にとって何の感動も齎すものではない、ということが、一層強い力で相手を惹きこむのだということも、疾うから茫漠の内に、捉えている。瞼が重くなったようになって、唇は無表情に膨らんでくる、その神楽の顔は神楽の捕獲網である。白い部分も、アメジストの瞳が滲みひろがったように昏くなる。重い眼だ。神楽の重い眼は確実に、高杉を捉えた。そうして銀時は高杉が、神楽の網にかかるのを見ていて、神楽の魔の成長に震撼を覚えると同時に、十六歳になった神楽の魔力のいよいよ奇妙な、と言ってもいいほどになったのを面白く思い、自分の女の成長を見る男の心持を、覚えた。







百戦錬磨の高杉の精神力を奪ったものは、やはり神楽の、紅い斑の百合の香気である。
それは香気そのものというより、神楽という人間の中からにじみ出る、相手を搦めとる意思である。神楽が何もしないでいて、相手の内部に絡みついていくあるもの、ただ相手を見るだけで、粘りのあるなにかが、相手を捉まえる神楽の眼、それが、<神楽の蜜>である。高杉は神楽の蜜に、敗北するのを感じた。
神楽は何となく、高杉が自分を見つめる目に、土方や沖田に感じた予感を感じる。高杉は自分に、溺れているのかもしれない…。それが興味である。それだけである。
別れ際、高杉が鼻を鳴らすような仕草をしたが、神楽は二度、三度と瞬きをして、それを無感動に見つめていた。







神楽は寝床を出て、台所の果物鉢からオレンジを取って、薄皮の剥げるまで厚く剥くと、歯を当てて丸齧りにしゃぶりついた。妙に咽喉が渇いているのだ。
神楽は銀時が、心から自分を怒らぬと、知っていた。
何をしても、何を想っても、基本、神楽の自由を銀時は愛していた。
神楽は、今日も朝から抱き潰されてはいたが、疲れていても、午睡もとらずに寝床の中に入っていた。
銀時が仕事から帰ってが来たときには、電灯を点けない部屋は薄暗くなっていた。薄暗い中に、神楽の二つの眼が光っている。


「また真っ暗にして……」


神楽は時おり、こうして薄暗いところや、狭いところにいたがる習性があった。
小動物が塒に還りたがる、そういうものかもしれない。
近寄ってきて神楽を見る銀時の顔には、神楽に嵌り込んでいる自分、といものの幸せが、こめかみに、頬に、仄暗い影をこさえているが、どこかに微かな不満がある。傍に座ると、神楽の頭に優しく掌をおいた。神楽はじっと銀時の顔にあてた眼を離さず、食い残した肉のありかを思い出して匂いを辿ってきたように、ふんすと鼻を鳴らした。銀時は微笑の入り混じった頬の影を、深くした。


「また、誰かの事でも考えてるのか?」


銀時が屈みこんできて、神楽の頬に両手をやり、顎をひき加減に上目遣いに見上げる神楽の顎を囲い込むようにして、持ちあげた。幾らか倦怠の見える神楽の眼に、むっとした反抗が点る。


(誰のことを考えてるか、そんなの私の自由デショ……)


そうは思うが、神楽は何となく素直にその名前を口に出した。


「高杉は、もう江戸にはいないアルな……」
「……そりゃあ、指名手配犯だからなぁ……。逃げ回ってるだろうよ。神楽は高杉が気になるのか?」
「なんかヤバい奴だし、ニタニタしてるんだモン……」
「むっつりスケベだからなぁ、アイツ」
「アイツと遭ったら、なんかゾワゾワするアル」
「朝は、怖かった?」
「そんなわけないアル……」
「男はみんなお前の虜だよ」
「高杉も…?」
「わかってるだろう?」
「しらない……」


銀時は神楽が高杉を、そこまで気にしているということには思い及ばなかった。神楽がなぜ高杉を警戒しているかというと、それは銀時と敵対しているという理由だけではなく、高杉の一言が妙に確信をつくからである。あのニヤニヤとした、意地の悪い微笑いの底に、舌なめずりするような好色の眼があるのも気持ち悪いが、生餌を貪りたがる神楽の習性は、何となくそれに満足している。
神楽は、自分の肉食獣の欲望を充分に満たす銀時の言葉を聴き、ふと夢をみるような、手足の筋肉が弛緩するような状態に陥った。神楽は寝床の上で、力を失ったような脚を物憂げに投げ出すようにした。
神楽というのは故意に冷淡にするのではないが、興味のない相手には口も利かない。ただじっと見ている。その様子を銀時は可哀く思うが、安心はできないのだ。
神楽は銀時の心配は感じていて、「高杉には近づくなよ」と念を押す銀時の言葉には、従ってやろうとした。神楽は大きく開いた眼をじっと銀時にあて、


「わかってるアル」


と言った。
そう言うと、眼をぼんやりと空に、ぐったり、横向きに、枕に顔を伏せた。
半分齧ったオレンジが、畳の上に転がっている。
それをまた手にして、神楽はオレンジにしゃぶりついた。
銀時は顔に紅潮を見せて、オレンジの汁でよごれた神楽の口元に魅入った。銀時は心の不安とは別のところで、自分に対して思うように愛情を見せてくれない神楽というものを知り抜いていながら、今日の神楽の様子が、いささかではあれ、自分への嫉妬に根を発したものだと、信じた。
銀時は神楽に対する日頃の不満が、ふと満たされたのを覚え、神楽の中に、また深く嵌り込む自分にどこかで危険を感じながら、蒸し出される魅惑の気配に我を忘れ、神楽の胸から毛布を剥ぎ下ろした。






fin


10/10 19:43
[銀魂]




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