くるくる回る青い箱庭はやがて







隣家にある花壇の塀際、家の裏のヘドロの森と塀の間にも、巨大な樹をとり巻いているレンガの巨塔から、湧き起こるように蝉の声が鳴っている。
神楽は腹ばいになって耳を澄ました。
枕の上に肘を張って、組むようにした手のひらの上に顎をのせて耳を澄ますと、耳がじいんとするような蝉の声の中からはっきりと、この雑然とした界隈に暮らす人たちの生活の音がする。
神楽の押入れは、銀時の仕事机とソファを隔てて居間の端にあった。
世間はそろそろ夏休みというものらしい。一切の強制的なものから解放されたワクワクするような期待が、神楽の遊び仲間のあいだにも広まっている。
だが暑さに頭をやられた変態や、それに見習うケダモノたちの、いつにも増してのしかかってくるような不快からは逃れることは出来なかった。



「お〜い、神楽」


開け放っていた襖ごしに、銀時が覗きこんできた。
なぜか、苛々するのを抑えつけているような神楽の保護者は、足音も荒々しく押入れに近づき、抱えてきた白いチャイナドレスを神楽が踏み脱いだ掛けタオルの上に投げて、彼女を見下ろした。


「いつまでチンタラ寝てんだ。ほら、仕事のじかーん。朝のうちにさっさと終わらせよーぜ、今日は暑いしよぉ。
まっ、お前はあんま無理しなくてもいいけど。おとなしくしてろや、俺や新八を困らせんじゃねーぞ」


何をイラついてるのか、神楽を心配しているようで端々にチクチクする言い回しに神楽はちょっとむくれた。
それでも、銀時のもう片方の手を見ると、ちゃんとタオルは持ってきてくれている。ベランダに干したままのあれが着たいと、起き抜けに自分は微動だにせずわがまま言って銀時を二重にこきつかったのが、そんなにいけなかったのか──。
とりあえず、まあいいかと、不遜な神楽は気をとりなおした。
保護者の前で平然とコットン地の白いパジャマを脱ぐと、蜜を塗ったような肌理の上に汗が滲んでいる神楽の、薄いタンクトップ姿が現れる。もちろん寝間着用のサーフパンツは下半身を隠している。
いつからの習慣になったのかもう覚えていなかった。
去年の夏の終わりには、すでにこうだったはずだ。暑さに弱い神楽の──白い分厚い花びらのような──白魔の膚は、夏の時期、とくに苦しげに妖しく、毎日じっとりとしたメランコリーな疲労をくりかえす。
銀時が清潔な洗剤の匂いがする綺麗なタオルの要求を、こうして朝一番にのんでくれるのも、ひとえに神楽の風呂場への直行を見張るためでもある。夏場に朝はシャワーを浴びたいといったら、節約のために毎日は無理と拒否られた事があるので、それがはじまりだった気もする。毎日じゃないならいいと甘やかされているのは神楽にもわかった。


というより、夏はどの季節よりも、銀時が神楽をさらに気にかけ手厚く保護する気配が濃厚だった。
昼間の熱気にやられて家の中でさえぐったりすると、氷枕やアイスノンはもちろん、カキ氷をシャリシャリ作ってくれるときもある。
お金に余裕があればクーラーのきくファーストフードの店内や、屋内プールにも連れていってくれることもあった。
本当はシャワーだって、朝からは駄目だが、昼の(夜用に溜めた)水風呂はたいてい許してくれる。ときに銀時と一緒にプール代わりにして遊ぶこともあった。
他にも、どうしてもキツい外での仕事のときなどは、お留守番だったり、陽の差さない涼しげな屋内にいれるようにお願いしてくれたり、朝の日課である結野アナのお天気ニュースをその存在以上に真剣に気にかけ、ラジオ体操や定春の散歩にまでついてくることもあった。
出かけの傘の有無も神楽以上に敏感に確かめてくるし、もし外で日射病になろうものなら、おんぶに抱っこで水まで手ずから飲ませてくれるのだ。夜は扇風機を貸してくれたり、和室で銀時の横で寝るのも許してくれたり。布団をビショビショにしても怒られることはなかった。
食事にも気をつかって、これは主に新八だが、体力が落ちないように夏バテ対策のメニューが可能なかぎり食卓に並ぶ。
まず十分に食事からエネルギーがとれないと、夜兎である神楽は免疫力が著しくさがるということを学習したらしい。栄養失調状態が続くと、とんでもないことになりかねないのだ。
まず傷の治りが遅くなる。人間ほどではないが、いつも数時間や数分で治る傷が何日たっても治っていなかったり、そういうのを以前の神楽はこっそり隠していたのだが、銀時にバレてからはたとえ金がなくても、神楽の食事だけはお登勢のところでとらせたり、自分のぶんを分け与えたりしてくれるのだった。
以前、豆パンがつづき、一杯のラーメンを三人で略奪しあって食べるような金がない毎日が続いていたとき、ひさしぶりに仕事にありつき、そこで負った神楽の怪我が一週間しても治らなかったことがあった。銀時は内心酷く反省していた。その辺にいる小娘なら困らないことでも、バイオレンスな神楽には命取りとなる。
夏風邪が原因で入院したときなども、二十四時間完全看護体制で病院にまで泊り込んだりしたのだ。(正しくは途中から仮病で酷い目にあったし、割に合わない他人の制裁に本当にお陀仏になるところで、神楽が死んだと思いこんでいた銀時はというと、幽霊のように心ここにあらずで現実を受け入れられず放心していたが)。
それからというもの輪をかけて夏は酷く過保護だった。もし神楽が本気でねだれば、クーラーさえ、この貧乏な万事屋に備えつけてくれるかもしれない。それほど銀時が神楽に甘いのも、過保護なのも、人知れず言いなりで小さな奥さんのように神楽を可愛がっているのも、それが神楽にも他人にもわかるのだ。



銀時は、神楽が清潔なタオルで、全身を何度も拭いていく仕草をぼんやりと観ている。
その緻密な皮膚に蔽われた華奢な首から、まるみのある肉しか詰まってないような細い腕へ、それから胸もとと、足先まで、何度も毛づくろいするように──まったりとした獣の仔の仕草を、ぼんやりと観ている。
神楽は銀時の好きなようにさせているが、目の前に突っ立たれたままあまりにじっと見られると、さすがに居心地が悪くなる。が、こう毎日つづくとそれも慣れだった。別に厭な感じではないのでそのままにしている。
すもものようにねっとりとみずみずしい、神楽の青い果実ともいえる寝起きの物憂さを、たっぷりと浸された冷たいタオルがすっとぬぐっていく気持ちよさに目を細めた。
その肌理の中へ、視る者の眼を吸いこんでゆくような皮膚の上を擦ると、神楽の皮膚から幽かに立ち昇っては空気にとけこむ、汗の香りだけではない何か…。幽かな、清新な、その透き通るような鼻腔をくすぐる香りが、銀時の感覚に訴える。
それは春の始まりの、南国の果樹の芽の香りのようであり、花のようにも思えた。
だが銀時には綺麗な感覚はない。神楽自身は綺麗なものだが、そう感じる自分自身への感覚だ。銀時はただ、やりきれない重い誘惑の、その輪郭さえも掴み得ぬ大きな、茫漠とした塊を体に受けとめ、ふと頭が空になるように感じるのだ。自分が途方もない道化や、ただただ腹を空かせた野良犬になったような気分になる。
神楽が可愛いし、神楽が苦しむようなことは出来る限りとりのぞいてやりたい。
神楽が快適で健康に、銀時を気に入り、毎日銀時のそばで満たされて生活してくれていることにどんなにか、自分こそが満たされているのだと、そう知悉しながら、こういった機会を一切逃したくないと、これは己だけの特権なのだと思い上がってもいる自分が駄目だった。
執着にも似た一途さがもうずっと続いているのは確かだった。
銀時はいつか、きっと、自分が神楽を真の意味で失望させるかもしれないと思っている。
人生を神楽に滅茶苦茶にされてもかまわないとは思うが、自分が神楽の人生を滅茶苦茶にするのは許されないことだった。



ようよう拭き終わって、お行儀わるくもパジャマを押し入れの外に押しだした神楽に、銀時はしゃがみこんでそれを拾ってやった。
そうしてタオルも受けとり、寝癖のついた神楽の髪をブラシで梳くようにしっとりと、額を撫であげつつ愛撫した。
本当は脇の下に手をかけて神楽を自分に向け、無理やり自分が着替えさせてやりたいという欲望がむくむくと押しあがってきたが、そんなことできるわけもない。ぐっとこらえる。
もっと手荒くしてやりたいのを、無理に自分を圧し鎮めているような男の異常さが、神楽にも何となくわかった。
神楽は銀時がまだイラついていたのかと疑った。自分がそうさせた原因を一瞬さぐってみようかと思ったが、面倒なのでやめた。
ふつう同居人が不機嫌だとそれなりに気にかけるが、銀時のあつかいは神楽もお手のものだった。


「銀ちゃん、ありがと」


神楽は着替えのために押し入れを徐々にイタズラっぽく閉めていく。全部閉めると真っ暗になるので、ほんの少し開けたまま。
その隙間までは見ないように銀時は踵を返す。


「帰って来たとき用に水は溜めといてやるから、今は我慢しろな」
「うん」


神楽はにんまりと果肉のような薄桃色の唇を引き上げて微笑った。
だが、ふと、きょとんとしたように口をつぐみ、銀時がまだそこにいる気配に少しだけ驚いた。
銀時はいくらか躊躇ったように襖に近づき、そこをざらりと撫で上げたようだった。



「俺も、昼は一緒に入ってい?」



銀時は虫を抑えた、撫でるような声で言った。















fin



more
08/26 23:59
[銀魂]




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