存在の耐えられない軽さ








例えばお前が泣いたりしたら、もう俺は何をどうにも出来ないくらい───…











「髪、伸びたよな」


ソファーに寝転びいちご牛乳をすすりながら、銀時は向かいに座る神楽をぼんやり見上げて呟いた。


「髪……アルか? うん、そうネ、けっこー切ってないアルな」


神楽はお気に入りの週刊誌を片手に、空いた手でめずしく結わえていない自分の髪をいじくる。
今日はいつも使っていた髪飾りが壊れてしまい、仕方なく髪を結い上げないままダラダラしていた。
昼頃までは一つに括ってアップにしていたが、ごろごろ寝転んだりしていると乱れるし、そもそもゴムで長時間そうしていると、頭が痛くなるのだ。せっかく新八に朝してもらったポニーテールも解いてしまった。できれば、源外のジイさんのところに預けた髪飾りが、今日中に戻ってきてくれればいいのにと、神楽はずっと洩らしている。
ツヤツヤ、サラサラ、神楽が身じろぐたびに肩甲冑より下で揺れる、きれいなピーチブロッサムの髪。ボブみたいな頃もあったのに、それは確かに伸びたといえた。


「何アルか急に?」
「いやぁ………けっこー伸びたな、って」


相変わらず口元にいちご牛乳を持って、銀時は神楽を見上げる。
どんな感慨をもってそうするかは神楽には伝わらないだろうが、ただ、見上げるだけ。
わからない、とでも言うように神楽はきょとんと小首を傾げたが、銀時はそれに満足して、小さな笑いを口元にくゆらせてから、再びいちご牛乳を口にした。


神楽の、天使の輪っかが織りなす美しい桃色の髪は、見ているだけでも十二分にその手触りを想像できる。
アレは恐ろしくつるりと指に吸いつくのだ。
高価なビロードの毛皮のようにひんやりと、なめらかに、繊細に、触れれば手放し難くなるほどに。


あまり色々と負担をかけたくない。
追い詰めるような真似だけは、少なくとも自分から窮するような真似だけは、したくない。
それでなくとも先日は、銀時の余裕の無さから神楽を追い詰めるばかりだった。 あげくに泣かせてしまって、新八には数日無視されるし、家出先のお妙からは散々嫌味を言われ、後日かわいそうな卵焼きまで送りつけられた。
小さな喧嘩はそれこそ山のようにあるが、あんな風な言い方をして、神楽の女の部分を、頭ごなしに否定するなんて事はあってはならなかったのだ。
ただ単に、はじめて。そう、はじめてだ。いや、大まかに言うとはじめてではない(どっちだ)。今までも仕事上変装をする事はあった。世紀末アイドルなんてものもやっていたし、綺麗に着飾って、握手会やテレビに映ったこともあれば、場末のスナックでオバQみたいな恥をさらしたこともある。
ただ、仕事など他人が手を加えるのと、ふだん自分の意志でそうするのとでは、全く違うのだ。神楽が自らほんのりと唇に紅い色をのせて、出かけようとしただけのことなのに、たったそれだけのことなのに、もう何ていうか、とにかく表現しようのないぐちゃぐちゃな気持ちになった。綺麗だとか、何のためにとか、生意気だとか、餓鬼のくせにとか、危なっかしいとか、誰のためだとか、ロリコンほいほいとか、やっぱり何のためにとか、口惜しいとか、裏切られただとか、こいつ誰よとか、まさに鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。しかも銀時には黙って───たぶん恥ずかしかったんだろう───隠すようにして玄関を出て行こうとするもんだから、次の瞬間、一番最初に銀時をのぼせあがらせたのは怒りだった。固まった自分が何を口走ったか、実はあまりおぼえていない。
何を色気づいてるんだと。そう言って湧きあがる不快な感情を隠さず出してしまったような気がする。正直に言うと、あのまま外に出すのが口惜しかった。とにかく嫌だったのだ。


銀時は神楽のあずかり知らぬところで、内心で小さな溜息を零した。
そんな事はもう百も承知で分かっている。薄々気づいているのだ。




「このまま伸ばすんか?」
「……んー…考えてないネ……。でも、短いか長いかどっちかのほうが楽アル」
「じゃあ、伸ばしゃいいじゃん」
「……えー…そう言われると、切りたくなってくるアルな」
「銀さんは女の髪は長いほうが好みなんだぜ」


銀時がそう言って取って付けたようなニヤニヤを添えると、神楽は呆れたように保護者から視線を逸らした。


「でも銀ちゃんって、短いのが好きデショ、結野アナみたいに」


とだけボソリと言った。
苦笑いする銀時は、またいちご牛乳を口に含み、やれやれとその紙パックをテーブルの上に置く。
そろそろ夕飯の支度をしなけらばならない。
今日は新八は早く帰ってしまったし、米が昨日で尽きたので、それに成り代わるものを、神楽のために用意してやらなければならなかった。とりあえず大量に買ってきたパンの耳で、なんとか数日過ごせればいいが…。
立ち上がって台所に向かうため、小娘の横を通り過ぎる。


ただ、それだけの事だった。


視界をさらった高価な毛艶と純白の肌の対比は、どうしてこんなにも……──、




「……………銀ちゃん?」



「……マジで伸ばせばいいんじゃね?」
「……髪?」
「うん。 神楽ちゃんが、俺の好みに合わせてくれたら嬉しいなー 銀さん」


「どうして」 とは、神楽は聞かなかった。
すぐ傍に立つ、先ほどとは視線の高さが逆転した相手を見上げて。


絶句しているのだと、きっと神楽よりも銀時のほうが先に気づいた。


悪戯にこんなことを言うべきではないと分かっている。
しかし銀時は止まれなかったし、それにセリフは悪戯でも本心だった。
自分を見上げてただ目を丸くする神楽に、銀時はまたへらりと笑った。
その笑みはひどくわざとらしく、音の出そうなほど分かりやすい作りモノだった。


突然、神楽の頭をがしがしと撫でつけ、銀時は楽しそうにくつくつと笑い声を上げた。



「なんてな。 神楽ちゃんは可愛いから何でも似合うって」



あんまり従順な反応は見せてくれるなと思いながらそれでも。
銀時はその髪に触れたいと思う気持ちの、いまとれる最善で最高で、そして最低な方法をとった。



「ちょっ! やめてヨ銀ちゃん!」
「乱れた髪もかーわーうぃーいー、神楽ちゃんは」
「怒るアルヨ!ああっ、もう滅茶苦茶ネ!」


諦めというか呆れというか、突拍子もない銀時からのスキンシップに、神楽は情けない声を上げた。
神楽は銀時をにらみ、そして銀時は神楽にニヤリと笑う。
微妙なこの視線のやりとりを、銀時は楽しんでいた。
これがいまとれる精一杯だからだ。


「おーい神楽、悪かったって。パンの耳でかりんとう作ってやっから、勘弁して」
「むっ……ついでにフレンチトーストも作ってくれるなら忘れてやるネ」
「いいよ。本当に忘れてくれるならな」


銀時の言葉の意味を神楽は正確には把握しなかったが、とりあえずすぐにため息を吐いた。
乱れた毛並を何とかするために、ちいさな手が猫みたいに毛づくろいしている。
鏡はいま手元にないが、銀時の視線に映るその姿は酷い。
洗面所にでも行って、この前みたいに可愛らしく鏡とにらめっこでもすればいいのに。…また、意地悪な気持ちがぞろりと鎌首をもたげそうになって、銀時はそれを必死で押さえた。
──どうして、こんな気分になるんだろう。 自分でもわからない。 いや。ガキか俺は。
苦々しい舌触りのそれは、癇に障るとも腹に据えかねるとも言えない、ひどくささやかな引っかかりだった。
俺が一番なくせに。と、時に突きつけたくなるような、戯言にするにも稚気の過ぎる感情に、どこまでもおこがましい自分を感じる。
つまるところ銀時には、まだこの関係をかき乱す覚悟どころか、態度を変えさせる心の用意すらもできていないのだ。
細い糸だった。たとえば銀時が神楽に、自分以外の人間といつも何をしているんだと、今日は何があったんだと、あれから何をしてたんだと、あの日したことは何のためだったんだと、そう口にすれば、たちまちあの日の二人が舞い戻ってきそうな悪感情が常に付きまとっていた。
あの日、帰ってきた神楽は銀時と口をきかなかった。
けれど次の日には、もう何でもないような顔をして朝ごはんを食べていた。
あれからまた、それまでと同じような日々がだらだらと続いている。
だから銀時は、口を噤むことを決め込んだ。何かしら事情を知るお妙にどう言われようと知ったこっちゃない。いっそ身勝手な心痛を鼻で笑った。
自分のいない間の神楽の時間には、いったい何が起きているのか、今は想像することもできない。仕事がある無し関係なく、当たり前に朝には起きてくるし、夜には寝入る姿を押入れに見送るが、その他の自由な神楽の時間、神楽だけの時間、そこまでの世界には、銀時が生息していないことだけは確実だった。
おまけに神楽は愛想こそ振りまかないが、マイペースな素直な純粋少女で、毒のある口調とは裏腹に、心根のやさしい、駄々っ子な可愛らしさを持った、非常に他人を惹きつける存在だった。それに、色気こそ欠けるものの──紅ひとつで変わってしまうことは、先日思い知ったが──そこいらのアイドルなんか目じゃない美少女であるという認識には、身贔屓でない自信がある。まっとうすぎるほどに純粋で、その裏表のなさが、それゆえにアンバランスな影を垣間見せるが、神楽は大半の人種から可愛がられて然るべき少女だった。交友範囲もたぶん狭くない。
けれど、どうか見えないところで何かしてくれるなと思うことを、銀時は止められないのだ。




「ブラッシングして来いよ」


まだ毛づくろいをやめない小娘にからかうと、神楽は 「犬あつかいするなヨ!」 とふてくされて、もう一度だけため息をついて、むすっとした表情で居間を出て行く。
その姿を見送って、銀時はふぅ、と短く深呼吸した。アイツは俺に甘いなと思いながら。


もしこのまま後をつけて、鏡に映る神楽をわらって、あの日のことを聞き出したら、一体神楽はどんな顔をするだろう。
あのとおりの不機嫌か、それともまさか赤くなったら笑える。


でも、泣きそうな顔をしたら?


それを見てしまったら、自分はどうするのか。





「どうせ、何もできねーよ……」



自嘲ぎみに呟いて、銀時はいちご牛乳のパックをゴミ箱に投げ捨てた。



境界をしっかりと自覚していなければならない。
悪戯に神楽を刺激して、傷つけてはいけない。
神楽の一番は自分ではあるけれど、それに気づいて悦んでいることに気づかせてはならない。
神楽はあくまで保護者として銀時を慕っているのだし、銀時もあくまで保護者として此処にいるのだ。それ以上でも以下でもない。
自分のこのもやもやが何であるかということも、薄々気づきかけてはいるが気づいてはならない。
耳を塞げない、割り切れない自分を認めてはならない。
銀時に捕まえられるのは、目の前にいるときの神楽の表情のみで、不機嫌を知りながらも銀時を無視して不安を露見させる神楽じゃない。


一番の望みは自分の安寧ではあるが、その望みよりも強く大きなモノを忘れてはならない。
忘れるつもりもない。 忘れようと思ったこともない。
その大前提の下にあるからこそ、神楽がいて、そして銀時がいる。


そして、がんじがらめになる。


手も足も出なくて、状況は変化なく、ただ呼吸だけが上がっていく。


何も出来ない。
何もしない。


ただ、何も出来ない愚かな何かを演じていなければならない。








01/29 06:48
[銀魂]




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