存在の耐えられない軽さ -2-







しばらくは静かな時が続いた。
台所ではパンの耳を揚げる音だけが単調に響き、銀時は最後の一本を揚げ終わるまで、一度も鍋から目を離さなかった。
神楽との約束でもあるし、フレンチトーストも作ってやらなければならなかった。
とりあえず冷蔵庫の中には、卵だけは2パックあったので助かった。


ふと、神楽が居間にいないことに気づいたが、別に神楽とて四六時中、銀時の観える範囲にいるわけじゃない。
神楽には神楽のやりたいこともあるし、いつも傍にいられては銀時だって困るのだ。


例えば趣味のようなギャンブルや酒が、その頻度を増してしまうことだってある。
もやもやしたものに駄々を捏ねるように、鬱憤をどうにかして晴らしたいと思うことがある。
決して晴れ渡るわけではないと分かっているのに、愚かなことだ。


こんなことを思うべきじゃない。
だが日ごと強まっていく動揺と衝動に、抗う術はそろそろ底を突いている。


そうだ、動揺していた。
自分は、あの日から、ずっと動揺していた。


銀時は神楽と約束した通り、卵をふんだんに使ったフレンチトーストを何枚も仕上げて、それを居間に運んだ。















「………頭いてぇ」


呟いた言葉は別に特に意味はなく、無意識だった。
けれどそれは的確に今の自分の心境を表していると思う。
皿を適当に机の上に並べて、ソファーに背をのけ反らせて目を伏せる。
眠気は来ないが、いっそ眠ってしまいたい。
全ての思考を混濁する意識の中に捨ててしまいたい。


ふと、その時、玄関の戸が開いた音が聞こえた。
同時に体を起こす。
自分のあまりに素早い反応に、思わず吹きだしかけた。
廊下の向こうにいるのが神楽でないはずがないと思いながら、要は神楽であると確信しながら。



「あ、ただいまヨー」
「……どっか行ってたのか?」
「うん。 源外のジイさんの所までちょっとナ。行ってきますって言ったヨ」
「マジでか…、聞こえんかったわ」
「銀ちゃん超集中してたネ」


素っ気ない言葉とともに、神楽は銀時の居座るソファーまで歩いてきた。
その艶やかな桃色の髪は、平素の通りまとめられて、きっちりとお団子の中におさまっている。
なぜか苦笑いして、銀時は仕上げたフレンチトーストと、かりんとう、そしてそれらとはまったく釣り合わない具沢山の味噌汁を神楽に差しだした。



「こんなに作ってくれたアルか」
「そうだよー、銀さん頑張ったからね。 約束しただろ?」
「そうだけど…………ありがとネ、銀ちゃん」


いつになく大盤振る舞いな銀時にほんの少し目を丸くしつつ、神楽はしっかりとまだ出来たてほやほやのフレンチトーストに齧りついた。 数枚をむさぼり、何の不都合もなく味噌汁を美味しそうに飲みほす。
その様子を眺めがら、銀時はあらわになった神楽の首筋を見るとはなしに見つめた。


細っこい首。
白すぎる肌。


何度も無防備に触れてきたそれらに、他の誰かも意思をもって触れてみたことがあるのかを聞いてみたい。
心の底から。 いま手を伸ばして確かめてみたい。



触れたい。 神楽に。



悪戯のように粗雑にあつかうのではなく、そっと。



――――でも…



触れたいけど、触れない。





「そうそう、せっかく約束守ったんだからさぁ、お前に頼みたいことがあんだけど」
「………約束を守るのは当然アル」
「まぁそう固いこと言うなって」
「……何アルか?」
「聞いてくれんの?」
「私に出来ることならネ」
「簡単かんたん。今日一日は、寝るまで髪下ろしといて欲しいだけだから」


言った言葉に、目に見えて神楽は表情をしかめた。


「なんでそんなこと―――」
「別に。 ただ純粋に、そうして欲しいだけ」


いとも簡単に言っているようだと、神楽は思うだろうか。
銀時は頬杖をつきながら神楽を覗きこみ、またもへらりと笑って見せた。
こういう笑いは得意中の得意だ。


もうさっきみたいに、気安く触れていいのかわからないから、ただ見ていたい。


神楽には理解してもらいたかった。
これは求めているのでも、追い詰めているのでもなく、ただ許しを請うているだけなのだと。
そろそろお互いの鬱屈も限界なのは感じているから。
少し、境目を緩めてみないかと。


「別にサラサラしてりゃいいじゃん、天パを馬鹿にするようにサラッサラ見せつけてりゃいいじゃん」
「……何でいきなりグサグサ自分で刺してるネ。羨ましいアルか、羨ましいアルなコノヤロー」
「べっつにー」


神楽の毒舌にどーせくるくるパーだよと苦笑いしつつ、どこかで落胆しつつ、銀時は頬杖を解いた。


「悪りーな。 嫌ならいいから」


神楽の大切な髪飾りが直って戻ってきたのを喜ぶように銀時は立ち上がる。
その行動に神楽は少し身を固めて、だがそれは一瞬のことで、すぐに小首を傾けた。


「どっか行くアルか?」
「んー…金ないから長谷川さんのところ」
「また麻雀アルか」
「おう、めずしく先週は長谷川さんが勝ったからなー。早く再戦して元とらないと。銭形のオッサンもうっさいし。 お前はもう寝るだけだろ?」
「Mステとドラマ見るアル………」


今日一日髪を下ろせと頼みながらすぐ出て行くと言われては、神楽としても少し困るのだろう。
神楽は何か言いたそうだったが、結局はかりんとうを頬張ってそれをスルーした。
二人そろって部屋を出て、銀時は廊下を。
神楽は何をしに行くのかと思えば銀時の後をついてくる。
どうやら玄関まで見送ってくれるらしい。



「あんまり遅くなるんじゃないヨ〜、お母さんは心配デスヨ〜」


律儀な神楽に笑って、銀時もうなずいた。


「わぁってるよ」


軽くいう銀時に、神楽はまたタメ息をしつつ、「いってらっしゃい」 と小さく手をふって背を向けた。
向けた瞬間に、銀時の手が伸びることも知らずに。
銀時自身、自らの手が伸びることを意識できなかった。












「えっ─────」

「あ、」


神楽の髪が半分落ちるように肩口を滑る。
片方の髪飾りを手に持って、銀時は自分の行動を把握するのに数秒の間を要した。
時間にすればそのほんの僅かの間に、神楽がこっちに振り返る前に、銀時は全ての意思を駆使して神楽の髪飾りを握ったまま背を向け引き戸を開けた。平然と、そうしようと思ってした行動だと言わんばかりに。


「やっぱり、今日一日はおろしとけよ。どうせもう寝るだけだろ?」
「っっ、銀ちゃん!」
「明日の朝には返すから」


背後から届く非難の声に笑って応え、銀時は足早に階段を降りきった。
やがて後ろから戸が閉まるのが聞こえて、ほっと息を漏らす。
静かに路上に立ち止まって振り返れば、そこには髪を下ろした神楽が戸の前に立って、額を押し付けているようなシルエットが浮かび上がっていた。


物言わずそれを眺めて、銀時は神楽の髪飾りを握り締めた。


今、どんな表情をしているんだろう。
自分でも予測できなかった行動は、神楽を傷つけたかもしれない。


何も、出来ないくせに───。


もしこのまま階段を駆け上がって、無理やり戸を開けて、腕を引いて覗き込むことができたなら。



神楽はどんな顔を。
どんな言葉を。


どんな毒を自分にくれるのか。


消えていく後姿のシルエットを、銀時は許さなかった。
気がつけばその後を追いかけていた。

次第にまた大きくなっていくその姿と、膨れ上がる衝動───。




「神楽!!」



戸をガラリと開けて後ろから声を掛けたが、神楽は振り返らなかった。足音ですでに気づいていただろうに。
銀時はその細い肩を無理やりに引いて立ち止まらせ、振り返らせる。
ちゃんとおろした桃色の髪がなびくように揺れ、それに続いて、神楽の可哀らしい顔が銀時の目に飛びこんだ。




どんな顔をしているのかと、思っていたのだ。



「……っ」


振り向かされた体をまた翻して、神楽は何も言わず銀時に背を向け駆けだした。


「神楽、待っ…、神楽ッ!」


銀時は靴のままその後を追い、再び腕を引いて神楽の足を止めた。


泣かせるつもりなんて、これっぽっちもなかったのに。
泣きそうな顔をしているかも知れないと思った。
そうであればいいとも思ったし、そうであれば困るとも思った。


けれど、本当にその涙を見てしまったら。



「銀さんが悪かった、ごめん」
「放してヨ……!」
「放っておけねぇだろうが」
「構うなヨっバカっ………!」


神楽は自分を掴む銀時の腕を振り払おうと、乱暴に腕を振る。
片手で銀時の体を押しのけようとするが、銀時がそれを阻み、両手とも男の手中に落ちた。
暴れるという表現にちかい神楽の抵抗を、銀時は力で押さえつける。


怖くなるほどその腕は細く、気が遠くなるほど、その感触は心地いい。


衝動と動揺と制止と理性が対立し、銀時の思考を鈍らせる。
ただ神楽の涙は止まらず、その涙を拭うこともできない。
こうしてただ激昂している神楽を、その自由を奪って見ていることしかできない。


「銀ちゃん、放せヨ! 放してヨっ!」
「駄目だ。 お前が泣きやむまで放さねえ」
「誰のせいで……っ」


目に涙を溜めに溜め、神楽は声音すら震わせて言った。
その言葉が銀時の胸を刺す。
小さく、けれど絶大な裁きが下される。



「……ごめん、俺が悪い。 頼むから……」



泣かないでくれとはもう言えなかった。
これほど無責任な台詞も他には無いと知っている。
ここで抱き締められたなら。


けれど神楽はそれを許してくれるかわからないし、その意味での銀時を本当に求めてくれるかもわからない。
そうと分かっていて自分も踏み出せない。
それは線を緩める程度の話ではなくなる。
あまりに自分と神楽は近くになりすぎて、大切にしすぎて。

それを再確認するようなことを。





「ごめん…………」


泣いてるお前を抱き締められなくて。


「悪かった」
「…………放してヨ、銀ちゃん」
「かぐら」
「私だって………」


その続きを、神楽は言わなかった。
けれど銀時はますます神楽の腕を掴む手に力を込める。
引き金を引くような事を言わないで欲しい。

全く以って自分勝手でずるくて臆病で、どうしようもない男だと思う。




「………お前が、大切なんだ」




それが銀時にとっていま可能な限りの、最大限の、譲歩と懇願だった。


抱き締めない。
そういう意味で、神楽にはまだ指一本触れない。
だからその言葉が精一杯だった。




「………私も………銀ちゃんが、大切アル」



応えるように、神楽も鼻を鳴らして小さな声で言った。
ともすれば聞き逃しそうになるような、小さな小さな声で。
ふっと銀時の腕の力が弱まる。
神楽はその瞬間に銀時の両手を振り払い、背を向けて今度こそ自分の押入れに逃げ込んだ。




…早く、神楽が泣き止んでくれるといい。
神楽が泣くとどうしていいか分からなくなる。
そんな情けない自分がいる。

二度と神楽に、割り切れない感情で触れない事を誓わなければならない。

それはお互いを傷つける。
男女である前に、自分達は一回りも年の離れた仲間である事を忘れそうになる。
それを自覚しなければならない。



だがそれでも、割り切れない時はどうすればいいんだろうか。


抱き締めて、涙を拭って、その髪に触れ、大切だとささやくことを。


もしそれが出来ていたら、さっき神楽は泣き止んでくれただろうか。
それとも怒りに打ち震えただろうか。


――――ますます、傷ついて泣いてしまっただろうか。






何も出来ない。
何もしない。


そうして出来上がった境界線を、何時まで維持できるのかは分からなかった。



でも可能なかぎり長く。



頭が熱くて、目の奥がぐらぐらと痛んだ。
どうかしている。


やっぱりあの日も、自分以外の誰かが少なからず神楽の役割を勝ち得ていたことに困惑し、何に対してか解せぬおそろしい熱風が内臓を煮え尽くした。
「神楽ちゃんは女の子なんですよ」と、分かりきったことを言う新八も、その他周囲の人間もうんざりだった。
ただ、銀時は自分の知らない神楽を誰からも聞きたくなかった。銀時は息を飲んだらいいのか吐いたらいいのかわからなくなり、ただひとつ、網膜に焼きついた神楽の後姿を睨んだ。


自分は怒っているのだろうか。
それも何に対してだ。



触れたいけど、触れない。




その事に対してなのか。




だとしたら銀時はやはり動揺した。
ただ、動揺した。











fin


汚れないのは、届かないから
(触れたいけど、触れない)





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02/01 20:08
[銀魂]




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