マコト君が持ってきてくれたかたまりのお肉をマコト君のために切り分ける。今日の晩ごはんもマコト君の大好きなサイコロステーキ。
背中の方からはマコト君が観ているニュースの音が聞こえてくる。海外のテロリストとか、近所の連続猟奇殺人事件とか、隣の国が何をしたとか、わたしにはよくわからないことばかり。でもマコト君は眠くならずにちゃんと観ている。マコト君は頭がいい。わたしはマコト君が大好き。
わたしが小さい頃に住んでいた家の近くには、食肉処理場があった。処理場の前を通るといつもお肉のいい匂いがして、わたしはよく近くまで遊びに行っていい匂いをたんのうしていた。
マコト君も、処理場みたいなお肉のいい匂いがして、懐かしくなるから好き。
テレビに夢中のマコト君の背中にそう言うと、マコト君はこっちを振り返った。いつもはテレビを観ていると「ふぅん」とか「へえ」とかしか返してくれないのに。
じゅう、とお肉が焼けるいい匂い。なんだか気まずくなったわたしはお料理に戻ることにした。
背中の方からはニュースが終わって、バラエティーで芸能人がはしゃぐ音。それにまじって、マコト君の忍ばせた足音。ああわたしはまたよくないことを言っちゃったんだ。お肉のいい匂いが、マコト君の匂いがふわりと漂う。
マコト君のしっかりして大きな両手が後ろから、やさしくわたしの首を絞める。息が苦しくなる。
マコト君マコト君、ごめんね、わたしマコト君に言わなかったことがあるの。処理場に遊びに行ってた時、いい匂いをたんのうしてただけじゃなかったの。
処理場のおじさんはとても優しくて、わたしを中に招き入れて、いろんなことを教えてくれて、練習もさせてくれたの。
ごめんねごめんねマコト君。たぶん、マコト君よりわたしの方が、上手。
わたしは心の中で何度も謝りながら、まな板の上の包丁へと手を伸ばした。ごめんねマコト君。
重たい銃を床に下ろす。両手にこびりついた真っ赤な血が嫌でも目に入り、それが自分の奥の奥へと染み込んでくるような気がして吐き気を覚えた。何かで手指を拭おうとしたとして、自分の服も自分の下の死体の服も、概ね同じような有り様だ。エルはどうせまたすぐに汚れるからと自分に言い聞かせ、吐き気を堪えて重い腰を上げた。
歩き出し様、裸足の爪先が死体の脇腹を蹴る。男は相変わらず、死体にされてもエルの耳に届く形で暴言を吐いたり、エルに直接的な攻撃を加えたりはしなかったが、エルは足の指の先に触れる屍肉の感触が不快でならなかった。死体は冷たくて硬くて重たい。
全く無害な死体から逃げるようにその一室の扉へと向かい、ドアの取っ手には指一本触れないまま、恐らく銃声で目を覚ましているであろう中の人へと告げる。
「ただの泥棒だった」
短い報告を終えて、エルにはまだいくつかやることがある。身体についた汚れを洗い流して、きれいな服に着替えて、肉屋と掃除屋を呼ばなければならない。しかし足は動かない。まるでさっき蹴飛ばした死体がどろどろに融けて足に絡みついているようだった。悪臭のせいだけではない重たい吐き気に、エルはずるずると扉の横に座り込む。耳の奥の方では男の言葉がぐるぐると回っていて、どんな罵詈雑言よりも深く突き刺さるその言葉を追い出そうときつく目を閉じると、初めて声を掛けてきた時の警察の人の心配そうな顔が瞼の裏に現れて、エルは慌てて目を開けた。目を開けても警察の人の姿は消えず、言葉と一緒になってエルの呼吸を妨げる。
「アーロン、」
空気を求めて口を開けた拍子に、扉の奥にいる何よりも大切なものの名前がこぼれ出た。エルにとって至上の幸福とはその人そのもので、その人の視界に入らなくとも、傍らでその人の存在を感じてさえいれば、それで良い。他には何もいらなかった。
何もいらない。だから人間を一人殺したところで死臭への嫌悪感以外に何も感じないはずで、にも関わらず、何に対してかもわからない薄ら寒い悲しさがエルの胸に広がっていく。警察の人の死体を振り返る。大口径で頭を吹き飛ばされた死体は、もう生前見知った人間とも思えなかった。
「俺、アーロンのところがいいよ」
自分に言い聞かせるように呟いたこんなくだらない言葉を、もうアーロンは聞いてはいないだろう。エルは寝室でのアーロンの様子を見たことはなかったが、既にベッドに戻って穏やかな眠りに就いているかもしれない。
「アーロン」
だからそれを妨げないように、エルはできるだけ小さく口を開いた。
「触っていい?」
返事はない。
やはりアーロンはもう眠ってしまったのだろう。きっと主人はエルとは違って、得体の知れない恐怖や不安にうち震えて夜の眠りを逃すなどということはないのだ。ほんの少しの安堵感を覚え、立ち上がろうと床に手をつき顔を上げた瞬間、寝室の扉が僅かに開き、エルはそのままその場に凍り漬けになった。
「少し」
と、聞き慣れた声が許しを与えると共に、扉の隙間から現れてエルの汚れた頬に触れる手は、暖かく柔らかい。
エルの身体をきつく抱き締める男に身を任せ、しっかりとした肩に額を埋め、男のにおいを吸いながら、エルにはもう少しだけ聞きたいことがあった。
「アーロン、は? 一緒に行かないの?」
その名を口にした瞬間、男の目つきが厳しいものへと変わったが、男の肩口に沈められたエルには男の顔など見えない。男は優しくエルの背中を撫でて首を横に振った。
「あんな奴と一緒にいたら一生幸せになんてなれない。あいつのことは平気だ、俺に任せておけば、」
どむ、と、くぐもった音が男の声を途中で塞いだ。一度大きく身体を跳ねさせた男は両手を震わせながら自ら引き寄せたエルの身体を押しやる。そして腰に提げていた筈の銃の先端が、自分の臍のあたりに押し付けられているのを男は見た。見る間に男のシャツが黒々と染まっていく。赤い血。ぐらりと頭が揺れる。身を起こしていられず、男はエルを見上げながら床へと崩れゆく。
「エル? なん、で?」
あまりにも呆気ない。男がアーロンのことを否定してる間に、そうと悟られず男のホルスターから銃を引き抜いて安全装置を解除し撃鉄を上げ、引鉄を引くことなど、エルにとってはとても簡単なことだった。何故と聞かれてもエル自身にもその理由などよく解らない。強いて言えばアーロンの命令通りに侵入者を片付けた、といったところだろうか。両手で固定した銃を片手に預けながら、エルは空いた手で横たわった男を仰向けにして、のろのろとその身体の上に腰を下ろした。小刻みに震える男の口が血を吐き出す。臭い、と、エルは思う。
「生き物って、死ぬとすごい臭いんです。血の臭いも嫌だよ。手に付くとなかなか落ちないし、染み付くんだ。それに、生き物は怖いよ。生きてるし、いつか死ぬ。……痛いのも嫌いだ」
じわじわと床に血の染みが広がっていく。それと同時に臭いもひどくなる。エルを見上げる男の、汗の滲む額を見下ろしながら、エルは不快感を煽る臭気に眉間へと皺を寄せた。
「でもアーロンの為なら、アーロンの言うことなら全然平気なんだ。臭いのも怖いのも痛いのも、少しもこわくない、平気です」
エルを見詰める男の目は、化け物を、自分とは全く異質のものを畏れ蔑む目だ。誰かが初めてエルを見る時の、いつもの目だ。男も何処かの誰かと全く同じだ。なんだ、こんなことなのか、と、あまりに単純な真実にエルは笑いを堪えきれなくなった。腐りきった心とは、きっとこういうことをいうのだ。
「俺、幸せですよ? だってまだアーロンの側にいても良いんだ、幸せだ。……だからおまえなんかとは一緒に行かない」
男はまだ助かる余地があるだろう。急所は外した。出血こそひどいが、すぐに病院に連れていけば助かる筈だ。
「いきたいなら一人でいけば?」
しかし、男はアーロンの居場所を知っている。扉一枚隔てた向こう。そこにアーロンはいる。エルは男の口に熱をもった銃口を押し込んだ。熱い鉄のその奥で男が何か喚き散らす。
「最後に一つ教えてください」
“嫌だ”だろうか。“助けて”だろうか。意味もない悲鳴だろうか。それともひどい罵声だろうか。そのどれもがすっかり聞き慣れたものだった。
「アーロンが居ない幸せって、何?」
エルは引鉄を引いた。
「君は優しい女の子だ」
女に間違われるのもいつものことだ。なのに何故だか胸の痛みはどんどん増していく。警察の人がエルの肩に両手を乗せて、エルはびくりと身体を震わせた。
「幸せになれるところに行こう」
――幸せ?
警察の人は何を言っているのだろう。エルが彼を見上げると、彼もまたエルをじっと見ていた。嘘や冗談を言っているような目ではない。きっと何か勘違いをしているのだと、エルはそう結論づけた。間違いは正さなければ。
「ででも、俺、女じゃない、です。それに、人間でも、ないし……」
次に震えたのは警察の人の手の方だった。しかし一瞬緩んだ手は、すぐに一層強い力でエルの両肩を捕らえる。
「知ってる、それも知ってる。大丈夫だ、西の国にどんな病気でも治せる医者がいるって聞いたんだ。治して貰いに行こう」
――病気?
自分は病気なのだろうか。病気だから女でも男でもなく、病気だから死に難く、病気だから血が翠色で、病気だから右目が人間のものではなく、病気だから石を投げ付けられ、病気だから人間に拒絶されるのだろうか。薬でも飲まされたように、胸の痛みが急速に鎮まっていく。
「ほら、こうすれば普通の女の子にしか見えない。君は可愛い――とても綺麗な人間の女性だ」
警察の人の右手が肩から離れて髪を撫でる。白銀に近いような薄く翠色がかった髪が、さらさらと流れてエルの異形めいた右目を覆い隠した。警察の人がいつもの優しさで淡い笑顔を作る。
「首のこれも、すぐに消せるさ。普通の女性として、君は幸せになるんだ」
それから彼の手は“首輪”を掠めて、またエルの肩に戻ってきた。優しい手だ。凶器も持っていないし堅く握られた拳でもない。しかしもはや微塵も感じない痛みに代わって胸に巻き起こるものは、大きな違和感だった。違う。何か間違っている。
「だけど、」
違和感に首を振って口を開いたエルの声を塞いだのは、警察の人の口だった。柔らかく少し湿った感触。彼の熱くなった鼻息が頬を撫でる。口と口をくっつけるのは、好きな人に好きだと伝える為にすることだと、エルは仕事仲間から教わって知っていた。しかし、背中を抱き寄せて頬に触れて、更に口の中に舌を入れてくるのはどういう意味を持つのだろうか。エルは知らない。
知らないが、エルは内側を舐め回されるこの感触に覚えがあった。遊劇団にいた頃の仕事の後の“もう一つの仕事”の時だ。エルの好きなところを開いた客の男がたまに、開いた内側に対してこんなことをしていた。エルはその感触を気持ち悪く感じながら逃げるという選択肢も知らず、ただひたすらに耐えていた。
それを思い出すと同時に、今エルを抱き寄せる男の背後でナダが首を擡げたのが見えた。目線だけでナダを制すとナダは何も言わずにエルを見返す。男は背後に人を食う悪魔がいるなどと知りもせず随分と長い間エルの口の中をまさぐって、漸くエルの口を開放した。
「エル、何も心配するな。俺が愛してやるから」
愛。それは人間が生きる上でなくてはならないものなのだと、エルは仕事仲間に聞いたことがあった。
しかしエルは人間ではない。
窓から差し入る僅かな月明かりが、室内と侵入者を照らす。
「……あ、れ?」
淡い光に照らし出された泥棒でも暗殺者でもないらしい意外な侵入者の正体に、エルは拍子抜けして思わず声を上げた。その声に侵入者がエルを振り返る。
「静かに」
口先に人差し指を立てて声を忍ばせたのは、ふとした切っ掛けで知り合ってからというもの、いつもエルに優しくしてくれる警察の人――彼はエルに名前を教えてくれたが、エルは人の名前を覚えるのが苦手だったので彼をただ“警察の人”と呼んでいた――だった。いつぞやのパーティーにエルを誘い出したのも彼だ。
それが何故ここに、と思うと同時にエルは、一気に全身から血の気が引くのを感じた。警察の人には自分がここに住んでいることは一度も教えたことはない。というのもアーロンが他の人間に住家を教えるのを禁じたからで、敵の多いアーロンにとっては居所を教えるということはそれだけで面倒なことだったからだ。警察の人には仲間も多く、加えて何かとエルのことを気にしているようでもあり、彼と会った後はいつもより気を付けているつもりだった。
にも関わらず、警察の人は今、つい先程まで呑気に寝息を立てていたエルの前にいて、しかも足音を殺してエルに近付いてくる。もう警察の仲間にも家の場所が知れ渡っているのかもしれないと思うと、それだけでどうしようもない不安に駆られて胸が苦しくなる。
「大丈夫だ。何も心配するな、安心しろ。この場所は他の誰にも教えてないから――さぁ、武器を下ろして」
エルの不安は警察の人にも伝わったらしい。身を屈めたエルの目の前に片膝を落とすことで目線を低くして、彼は声を潜めたまま諭すようにエルの手からパラベラムを引き離す。手元に武器がないのは不安だったが、パラベラムに縋る指先を警察の人の手に優しく押し止められ、追うに追えずにエルは毛足の長い敷物に手を下ろした。
「あの。ど、どうして……ここが?」
一番の懸念がなくなったとはいえ、不安はそれだけではない。痛む胸を押さえながら、エルも警察の人に倣って扉一枚隔てた向こう側のアーロンを起こさないように声を落とした。
「悪いけど尾けさせて貰った。それから、少し調べて……君も、ここの仲間だったんだな」
ずきりと、ナイフでも刺されたように心臓が疼く。警察の人に仕事のことを話したことはない。仕事をしているということは何度か話してはいたが、その内容については口を噤んでいた。聞かれなかったから答えなかったというだけのことなのだが、それでも騙していたような罪悪感がエルの背中にのしかかり、警察の人の真っ直ぐな視線に耐え切れなくなりエルは顔を俯かせた。
「でも本当はこんなことやりたくないんだろ? 君は心まで腐りきってるここの奴らなんかとは違うって、俺は知ってる」
エルが仕事を嫌っているというのは本当のことだ。できることならば生き物を殺したくなどないし、誰の血も流れないところで生きられるならばそうしたかった。しかし、“心が腐る”というのはどういう意味なのだろうか。肉が腐ればひどい臭いを出すが、一緒に住んでいる仕事仲間でいつも腐った臭いを漂わせている者など一人もいない。エルは的外れだと自覚しながらそんなことを思った。