SsSの処方箋
Rudbeckia
2015.1.30
03:33
*Cock Robin
*
「ヤベェ時間ねぇ!伊月、伊月っ!俺のネクタイピン知らん!?」
「えー?あー、『政宗』のお膝元ー」
よく晴れた朝のこと。
今日は室長のお供で警視庁主催のサイバー犯罪に関するシンポジウムの警護に参加することになっていた。
常日頃から身なりに頓着しない為、正装をしなければならないことにテンパりつつ、あくせく身支度をしていたがネクタイピンが見当たらない。
右往左往する俺を見向きもせず、欠伸を噛み殺し、煎れたてのカフェオレを啜った伊月が野暮ったい声でチェストの上を指差した。
『政宗』というのは中学時代に伊月の誕生日にプレゼントで送ったウサギのぬいぐるみだ。
ふてぶてしい顔をしているからと『政宗』にすると伊月が名付け、首にはリボンが巻かれ、わざわざフェルトで作った眼帯まで付けている。
同棲するにあたり、わざわざ実家から連れてくるほど愛着があるらしく、今現在、『政宗』は電話機の横に鎮座している。
そんな『政宗』の足元に、さっきから探し回ってた黒のネクタイピンが置いてあった。
「あれ?日向、ネクタイ替えたの?」
「お前が紫はやめとけって言ったんじゃねぇか」
「だって明るすぎるんだよ、アレ。そっちのが似合うよ」
なんたって俺が見立ててあげたんだからね、と伊月は胸を張った。落ち着いた緑と黒の千鳥柄は確かにいい色合いだ。伊月のセンスは笑い以外は大変素晴らしい。
「つか、そっちは悠長にしてていいのかよ?」
「俺?俺はー、今日は実渕んトコに寄ってくるからー。解析の手伝い頼まれてんの」
「げぇっ、ずっりぃ!」
のんびりとトーストをかじる伊月を睨むが、伊月はとんでもない、と肩を竦めた。
「ズルくないよ、実渕の頼まれごとってロクなのないんだから」
データ解析を一時間以内にして欲しいとか、上の連中を黙らせるネタが欲しいとか、死体グチャグチャ過ぎて部下たちが吐いて使えないから来いとか。
つらつらと指折り数えて『ズルくない理由』を挙げていく伊月。最後のは朝から聞きたくなかった。
「呼び出しが三時だから、終わったら対策室行くよ。多分、六時ぐらいになると思う。戻りは日向たちと同じくらいじゃないかな」
「出勤午後かよ。大した重役っぷりじゃねぇか」
「失敬な。ちゃんと仕事するっつの。室長に話してた情報の件が、そろそろ分かりそうなんだ。今日中に暴くよ」
ニッと妖しく笑った伊月に、見惚れそうになる。言ってることも、やってることも物騒極まりないが、その危うさの中で笑うから、彼女という情報屋は皆を惹き付けるのだろう。
「室長には報告お待ちくださいって言っといてよ」
「分かった。んじゃ、戻り同じなら飯でも行くか?」
「いいね。すき焼き食べ行こうよっ」
「奢らせる気満々の瞳でこっちを見るんじゃねぇ……つか、マジで時間ヤベェ!」
無駄話してる場合じゃなかった。遅刻したら室長に殺される。
ソファーに投げ出されたカバンを引ったくって、革靴を踏みつけ、玄関を飛び出す。
「伊月!」
「うぁーい?」
「行ってきます!」
「ん、行ってらっさーい」
指に垂れた苺ジャムを舌で拭いながら、ダイニングから顔を覗かせた伊月が笑顔で手を振った。今日は珍しく上機嫌だな。いつも低血圧の極みみたいな酷い顔をしてるのに。
"理髪師"の一件以来、伊月の体調はすこぶる快調だ。魘されることもないし、時折見せた物憂げな表情も最近は見なくなった。
うなじに付いた引っ掻き傷は消えないだろうが、心的外傷が癒されたのは、俺たちにしてみれば僥幸なのだ。
どんな形であれ、もうこの世に"殺人鬼―理髪師"はいないのだから。
だからこそ、心置き無くプロポーズしてもいいのに……、自分のヘタレぶりが情けない。
などと沈みかけるが、何にしても彼女の屈託ない笑顔で見送られて、今日が始まるのは悦ばしいことだ。
電車の発車時刻ギリギリだが、足取り軽く、俺は駅への道を猛然とダッシュしていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
長い一日が始まるよ。
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