まだ若葉の残る六月頭。凛と伸びた背筋と肩幅に開いた足を白と黒の衣が包む。息を吸うように腕を引けば弦はしなり空気もまるで止まったようになる。放つと張り詰めた空気の合間を一直線に進み、吸い込まれるように矢は的の中心を射た。
力を抜くと、
「彼方」
振り返ると友人でクラスメイトの差日壱だった。剣道着を纏う姿も凛々しく一年生にして他校の女子から人気がある。
「この時期から射たせてくれるって普通ねぇんだろ」
先に着替え終わり壱が着替え終わるのを待つ。
「そんな事ないよ。壱の方こそ顧問の先生が職員室で話してたよ、県大会のメンバーには差日を、って」
瞬間剣道部更衣室の扉が開く。
「マジ?やったね」
ボタンの留めきれていないシャツから鍛えられた均整の取れた躯が見えた。
一気に鼓動が跳ね上がる。
「っ、壱、ボタン!」
「だって彼方が嬉しい報告してくれるからさ」
注意されたボタンを留めながら答える。
「よかったね。中学校の大会の時みたいにまた女の子から騒がれるんじゃない」
「誰から聞いたんだよそれ。てかあんな思い二度とごめんだ…」
項垂れた壱を見て思わず笑みがこぼれた。
「そこ笑うか」
「ふふごめん、ほら早く教室行かないと遅刻しちゃうよ」
「話すり替えやがった」
彼方、後月彼方がこの男子校に入学してきて丁度一月が経とうとしていた。家庭の事情で五月からと云う半端な時期からの編入に不安があった彼だが隣の席だった差日壱のお陰でクラスにも容易く馴染む事が出来た。感謝と友情が気づけば恋愛感情になっていた。だが打ち明けようとはさらさら思っていなかった。今のままでいいのだ、と。
「毎朝ご苦労だね、お二人さん」
クラス委員長である通野桔俟だった。
「おはよう」
「あ、お前だな中学の剣道大会の事彼方に話したの」
「そうだけど?」
あっさり認めた通野の肩を掴み揺らす。
「あれほど言うなと言っておいただろー」
「そんな事していいのかな〜」
その言葉にぴたりと止まる。通野がそう言う時は毎度聞かなければ損な時、なのだ。
「止めたぞ!言えよ!」
満足気に笑んで一言。
「いやだ」
「!!!」
はらはらしながら二人を見ていた後月に通野が近づいてきた。
「彼方にだけは教えてあげよう」
耳に顔を近づけ何事か囁いた。
「差日には内緒な」
言って廊下を進もうとする通野を差日が止める。
「そっち教室じゃねぇぞ」
「生徒会室に忘れもの」
「…珍し」
差日が知る限り中学から一度も忘れものをした事が無いからだ。
「たぶん、違う」
え、と見ると穏やかな笑みを浮かべていた。
「さっきの話、一時限目で小テストがあるんだって。化学苦手でしょ、壱。自分が戻ってくるまで確認していいよって事じゃないかな」
「…よく、解んのな」
「そんな事ないよ」
「ううん。昔から人がするこっそりの優しさとか思いとか、俺気付けないんだ。気付けるって凄いことだよ」
「……気付かないからこそ優しいって事も、あると思うよ…」
「何か言った?」
壱は聞こえなかった、その事に彼方は少なからず安堵していた。
「早く教室行かなきゃだね、って」
「そうだな」
「……………………………………」
「……だ、大丈夫…?」
壱の教科書を握る手が震え、たまらず彼方は声をかけた。
授業も終えた二人は三日後に待ち構えている学生恒例テストの為放課後復習していた。
「…う、…うう、ん、ん?」
「ん?」
「後月ーお客さん」
見るとクラスメイトが呼んでいた。
「ちょっと行ってくる」
ドアに近寄るとクラスメイトともう一人、見知らぬ人がいた。
「ハジメマシテ」
「…初め、まして。何のご用でしょうか」
ニィと口角を上げ腰から曲げその顔を耳へと寄せた。
「君、差日クンが好きなんだろ」
一気に顔に熱が集まる。
「っ!」
「ここじゃなんだから、ね?」
使われていない教室は少し埃っぽい。
「脅しですか」
彼は、二年生の旗手開だと名乗り、好きだと云うことをばらされたくなければ自分に協力して欲しいと言ってきたのだ。きっと彼は悟られたくないと知っているのだ。
「好きなように取ってくれて構わないよ」
彼の奥底には何かがあるのだがそれが何か見えない。
「…………」
一つ息を吐いた。
「協力すれば、言わないんですね」
「うん」
「何をすればいいんですか」
土曜日だと云うのに吸い込まれる様に駅に入っていく多くの人。サラリーマン、OL、男性、女性、高校生、果ては小学生。それらの人の群れに、彼方も足を踏み入れた。
切符を買い改札口を抜ける。時計を見れば八時十五分。三分後の列車、その右側後ろから三番目の吊革に掴まり最低二駅列車に乗っていること、それがばらさない条件だった。
人の列に並べばタイミングよく滑り込むように列車が到着し押されるようにして乗り込んだ。通勤通学時間帯のため指定された場所へ行くのは容易ではなかったが辿り着くことができた。
人の多さに窮屈を覚えながらもぼんやりと立っていれば寝不足のせいで瞼が降りてくると同時に昨日を振り返る。散々な一日だった。脅され、教室に戻ってみれば壱は自分の顔を見た瞬間慌てたように用事があるからと帰っていった。メールか電話でどうかしたのか聞きたかったのだが結局はそのまま朝になってしまった。
『次は××駅ー』
車内アナウンスに目を開ければ言われた二駅を過ぎていた。
言われたことはやったと次で降りようとした所で彼方は緊張の為身を固まらせた。
腰を這う手。そしてそのまま下へと降りていく。
ただ当たっているだけかと体を動かしずらそうとする。一度は離れたものの再び這い始める。今度は払おうと手を握るとびくりとした感覚が伝わってきた。だがもう片方の手が前へと向かってきて撫で、揉んでくる。じわりと反応し始めた僕自身。
下唇を噛み必死で抑えれば、気をよくしたのかズボンのチャックを外そうとしてきた。
もうやめてくれと振り返ってみれば、そこにいた人物に呆然とした。