風が吹いている。
風が吹いている、しかし。なぜ風が吹いているのか。
説明できるようで、説明できない。
検索すれば情報としてその仕組みはわかる。もしくはわかったつもりになる。しかし風がなんなのか、知ったことにはならないだろう。
人間を、生命の仕組みを知ったからといって、目の前に対峙する人物のことを理解できるわけではないのと同じように。
同じ風はひとつもないのだ。
年に数回、旅行に行きたい病が猛威を振るう。行きたい!行きたい!
歌詞を作り終えたとき、長い演奏旅行が終わったとき。
自分の慣れ親しんだ環境や、習慣になった思考というのは、一種の停滞感に結びついている。頭の周りに霞がかかったようになって、無感覚、無感動がにやにやしながら僕の頭に忍び込んでくる。
何に関しての停滞感か。自分でもよくわかっていない。無感覚、無感動をなくしたいわけではない。冷めている、醒め切っている。そういう一端は自分にとっては振り幅という意味において重要な感覚でもある。
僕は他人に理解して欲しい、という思いが標準よりも強いのではないかと思っているが、それと同時に他人の無理解を意にも介さない自分というのも、また確固として存在する。その無意識下のバランスは行動パターンに直結する。
例えば「こんな狂った考えは自分しか持ち合わせていないのではないか」と思ったことがあったとして、後に「いやそんなはずはない、誰もがそう思っているはずだ」と必ず転化する。
僕は異なる環境に身を置く度に思う。意識というのは思っているよりもカラフルだが浅く、無意識は暗いが広大だと。
よくいわれることだが、僕たちは色について話をする。美しいと言ったり、汚いと言ったり、似合うと言ったり、赤で止まって青で進んだり。しかし、あくまで他人の眼でものを見ることはできない以上、視ている色が同じだという保証はどこにもない。前提として同じものを視ている「ことにして」いる。
言葉を拠りどころにして共有できるもの。それは、意識の世界。
僕にはそれがとても心許ないものに思える。
エメラルドグリーンの絵をみて、「これは青だ」「いや、緑だ」。
世界に溢れる論争は、僕にはほぼこの形式で成り立っているように思える。あるひとには青にみえて、あるひとには緑にみえる。それで話がすめばなんの問題もないはずだが、世の中の複雑な共同体としてのしくみのなかでは、そうもいかない。共通認識の手がかりとして言葉を共有するということが必要になってくる。
それは想像を遥かに越えて困難で切ないことのように感じる。共有を目的として新しく言葉ができたとして、そこでさらに細分化が生じることになり、共有はまたひとつ遠のいていく。そこが意識の限界である。
意識の浅い底。
共有とか、認識とか、それらはそもそも幻想であるということを、共有、認識する必要がある。というか、それが閉塞を融解する鍵である。
今、これを書いている僕に吹き付けている風の一部は、ニューヨークのマンホールから吹き上げたものかもしれない。
手に負えないもので満ちあふれている。
僕は自分の環境を離れてほんとうの意味でひとりになったとき、バタフライエフェクトや、エントロピーのことを考えて楽しい気分になる。誰かに不可解を頂く。かわりに僕も不可解を差し上げる。という交感がしたい。わかったつもりになるほど退屈なことはないものね。だから、
旅行したい。
濡れた頬の温かさは
恐らくお前がくれたんだ
学校祭疲れた〜(´;ω;`)
楽しかった、総合1位!
なんかいも死にそうになった(笑)
もう若くないから睡蓮歌やめてえらい(´・ω・`)笑
おくもちのルイージの萌え袖と
山形くんの5分待ちの札と
面白かったあ
ほんまうち女子無理(笑)
どうしよかな〜
男子に産まれたかった。
世界がさっぱり女子ばっかりになればいいのに!
雰囲気の大蛇に呑まれて笑う
猿の学生さん
ハヌマーン解散
お疲れさまでした。
寂しいなあ
初めて聴いて衝撃受けたときにはもう活動休止やった(´・_・`)
ライブ一回ぐらい
行きたかった
バズマザーズかGRIKOか
知らんけど
バズマザーズで猿とかやるんなら
ハヌマーンでできるやろ・・
馬鹿にしとる訳じゃないけど
バズマザーズはポストハヌマーンやと思う。
リズムうるさすぎるし
ハヌマーンにも追い付けてない。どこも抜きん出た特徴がない。
山田色の曲に山田さんに惹かれるひとらが集まっとるだけじゃない?
こんなやつがここにかいたって
仕方ないけどさ。
理由はしらんし女関係とか言うけど解散して他のバンドやるならやるで方向性違う音楽やって欲しい。
バズマザーズ確かに惹かれるとこいっぱいあるけどそれはハヌマーンの模造でしかないんだよ
と いうことで
まとめるとハヌマーン戻ってきてほしいなあということで(笑)