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05.The perplexity and craftiness and expectations


今、創作物の構想を練っている。


クローズ・ド・サークル、猟奇的、快楽殺人者…


この三つを柱に、構想に少しずつ肉付けをしながら、書き進めている。


クローズ・ド・サークルでは、閉鎖された状況下での殺人のデメリットが多い為『動機』が非常に重要とされる。


殺人を犯すこと、その行為そのものがデメリットを孕む。
例え、どんな状況下であっても、デメリットはある。


Q.01『それでも、何故、人は、人を殺すのか?』

A.01『興味が無いし、知りたくもないし、分かりたくもない。』


私は、殺人犯の動機を理解することは出来ないし、許容することも出来ない。
理解・許容したくもない。

「理解して、何になる?」
「それを知って、どうする?」
「ああ、なるほど…と、思うのか?」


私のこの思考は、探偵役の思考にも、大きく反映されている。

殺人の『動機』は微塵も興味を持たず、その状況やトリックなどの『謎(問題)』に対する興味で動いている。


動機が不明でも、物理的に可能な唯一の人間(犯人が複数であっても)を導き出せるのなら、それで構わない。

それが、私の中での探偵の役割。謎や問題を『証明する』ことに秀でた存在。


よって、殺人犯が逮捕された後に、本人から語られる動機の扱いは、非常に小さい。
動機に関する扱いは、1〜2P程度だ。



クローズ・ド・サークルだから、動機を詰めて考える…等もしない。殺人者は、抑え込めなくなった時点で異常だ。理解の範疇を越えている存在になる。
そんな人間の衝動、動機を、言語化なんて出来るわけがないのだ。

自分の思考の言語化ですら、非常に困難であるのだから。





今日もまた、構想の中で、人が死に…
明日もまた、構想の中で、人が死に…
今日もまた、知らぬ所で、人が死に…
明日もまた、知らぬ所で、人が死に…
いつか来る、先の未来で、私が死ぬ。

04. Whereabouts of Bullet


熱々のコーヒーを口に運んだら、口内を少し火傷した。


今朝も熱々のコーヒーを飲んだが、火傷をしなかった。

何故だろう……不思議だ。



不思議を、不思議のままにしておける人。
不思議を、不思議で片付けられず、調べて結論を見つけてしまう人。


きっと、色々居るだろう。


私は後者。前者にはなれない。


前者は、きっと倖せだろう。


後者は、謎を謎のままにせず、答えを欲しがる。

答えを求める度、謎は減っていく。

謎や不思議が減る度、楽しみは減っていく。


人は、楽しみを一つ一つ廃絶しながら生きている。

そんな気がする。



けれど、熱々のコーヒーは飲もう。


少しヒリヒリするし、飲みにくくはあるけど…


不思議が解けても…淹れ立ての熱々のコーヒーが美味しいと、私は経験で知っている。


03.INCONVENIENT WORLD



inconvenient world…


創作する者は、必ずコレと遭遇(実際に会ったりはしないが、よく見掛ける)する。


私は『ミステリィ』と呼ばれる小説の種の一つを、創作物としている。

その『ミステリィ』の中で、更に種は分類される。

また、更に細かく分類されたりもする。


「こういう種のミステリィを創作しよう」とするのは、正直面倒である。

一定の条件を満たす必要があり、トリックを思い付いても、文章の構成には非常に苦労する。
修正をする為に、ある程度書き上げた物をボツにすることもある。
(アナログで創作している人は少ないと思うのだが、アナログの人は更に修正が大変だと思う。)


何より、読者が「コレはこのジャンルじゃない。別のものだ。」「つまらない。何なんだ、コレは。」「面白くない」と、言い張ってくれる事が多い。

その判断は自由だと思うのだが…わざわざ書き手にそれを伝える理由が、イマイチ分からない。


自分の批評が、書き手を成長させると思っているのだろうか?



私に関して言えば…『一切影響も無ければ、反映も無い』。

読み手が居なければ書き手は成り立たない(本職であれば、所得に大きく差が出る)のだが、読み手の感想に、書き手は「そうですか」程度の認識でしかない。


「理解出来る人」「理解出来ない人」が居る事を、書き手は知っている。

「ああすれば良かった」だとか「こうすれば、効果的だった」とは、一切思わない。

出来上がった創作物に、固執する事も無い。

読み手が感想を送る頃には、他の構想・執筆で手一杯である。


「面白かったです」と言う感想も、作品に影響も反映も無いのだが…

「理解して下さって、有難う御座います」とは思うのだ。


「面白くなかった」の感想にも、作品に影響も反映も無いのだが…

「では、面白いと思う物を読んで下さい」とは思うのだ。




読み手>書き手の関係は変わらないが、書き手は読者の為に創作しているのではない。書き手は、書き手の為に創作している。

だから、書き手は読み手同士に不等号を付けて、差を付けたりもしない。


読み手は、自由にしてくれて構わない。

書き手は、不自由(条件)の中に自由(自己表現)を得る。

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02.Revelation Of The Destruction


小説の執筆作業を一時中断し、ブログの更新をする事にした。

『暇だから』更新している訳ではない。

ブログ更新も、私にとっては"一つの作業"である。


更新理由が『暇だから』になることは、以降も恐らく無いと思う。


『暇を持て余す程、暇は無い。』ではなく…
『すべき事が多く、暇というものが無い。』のである。


だからといって、暇は欲しくはない。

「暇が欲しい」と思う人が、私には信じられない。

暇であることに、メリットを見い出すことが出来ない。

暇が欲しいと、何故思えるのだろう?

有り余る程の時間が有るのだろうか?


「有意義な時間を過ごす為には、暇が必要だ。」
「暇があれば、色々なことが出来る。」
と、思っているのが俗世によくある考え方なのだろう。


けれど、色々な事がしたいのなら、食事や睡眠時間を削れば良い。
削れば、その分の時間を他に費やす事が可能である。

食事や睡眠等の欲求を満たす行為は、他の思考の妨げにも成り得る。"削る"という思考を妨げてしまうのだ。
結果、自身で時間を潰しておきながら、必要以上に時間を欲しがる。可笑しな話だ。


それに…有意義な時間と、無意義な時間の分別は、出来ると思い込んでいるだけだ。
有意義も無意義も、その分別をしようとする時に、在るように感じるだけの幻想なのだから。

普段は、有意義も無意義も存在していない。その中間点も、存在していない。
それが、良い証拠なのでは…?

暇が有っても、有意義も無意義の分別や判別も出来ないのなら、暇は別に必要では無いと言える。

『自分の逃げ口を、オブラートに包み込んで…人に上手く飲ませる為の口上。』と、私は考えてしまう。


私の『暇』に対する考え方と、気付かぬ内に洗脳されてしまった人間達の扱う"一般論"という常識は、きっと相容れないと思う。

表向きは、俗世に合わせているが、内心はこう思っている。

ただ、面倒は嫌なので、わざわざ口にはしない。

口にする欲求を制御すれば、他の事に時間を費やせるのだから…。




『世の中は、言葉のオブラートに、何を包み込んで、人に何を飲み込ませようとしているのか、分からないね。』


01.The Apostle In The Birdcage


熱々の、ブラックのコーヒーを飲む。

頭の中がクリアになり、思考が素早く切り替わる。

深く、深く、黒い この液体に、何故このような効果があるのだろう?

とても、素晴らしい、劇薬だ。

少なくとも、私にとっては…なのだが。



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