inconvenient world…
創作する者は、必ずコレと遭遇(実際に会ったりはしないが、よく見掛ける)する。
私は『ミステリィ』と呼ばれる小説の種の一つを、創作物としている。
その『ミステリィ』の中で、更に種は分類される。
また、更に細かく分類されたりもする。
「こういう種のミステリィを創作しよう」とするのは、正直面倒である。
一定の条件を満たす必要があり、トリックを思い付いても、文章の構成には非常に苦労する。
修正をする為に、ある程度書き上げた物をボツにすることもある。
(アナログで創作している人は少ないと思うのだが、アナログの人は更に修正が大変だと思う。)
何より、読者が「コレはこのジャンルじゃない。別のものだ。」「つまらない。何なんだ、コレは。」「面白くない」と、言い張ってくれる事が多い。
その判断は自由だと思うのだが…わざわざ書き手にそれを伝える理由が、イマイチ分からない。
自分の批評が、書き手を成長させると思っているのだろうか?
私に関して言えば…『一切影響も無ければ、反映も無い』。
読み手が居なければ書き手は成り立たない(本職であれば、所得に大きく差が出る)のだが、読み手の感想に、書き手は「そうですか」程度の認識でしかない。
「理解出来る人」「理解出来ない人」が居る事を、書き手は知っている。
「ああすれば良かった」だとか「こうすれば、効果的だった」とは、一切思わない。
出来上がった創作物に、固執する事も無い。
読み手が感想を送る頃には、他の構想・執筆で手一杯である。
「面白かったです」と言う感想も、作品に影響も反映も無いのだが…
「理解して下さって、有難う御座います」とは思うのだ。
「面白くなかった」の感想にも、作品に影響も反映も無いのだが…
「では、面白いと思う物を読んで下さい」とは思うのだ。
読み手>書き手の関係は変わらないが、書き手は読者の為に創作しているのではない。書き手は、書き手の為に創作している。
だから、書き手は読み手同士に不等号を付けて、差を付けたりもしない。
読み手は、自由にしてくれて構わない。
書き手は、不自由(条件)の中に自由(自己表現)を得る。