パンケーキ


マエノスベテ3
2022.8.22 22:21
話題:創作小説


28
「以前、此処に《彼》がすみついていたのです。行くところがないからと頼まれ、最初は不憫に思ったのですが慣れるにつれてその正体を知りました。
とても切れやすい、包丁のような人でした。家では、俺はマエノス・ベテと名乗り、
俺はマエノスベテだからな、と常に強気で言い聞かせていました。


私を様々な女性の名で呼びました。
やめてほしいと、頼んだのです……
それらは誰なのかと、聞いたのです。
知らないフリをするのか、なんて卑劣なやつだ、彼は私がその名前に疑問を持つとまず呆れ、次に罵ります。

『お前が、知っているんじゃないのか? まさかボケたんじゃないだろうな!!』

マエノス・ベテは私の髪を強く掴むと耳もとで大声を出してそう罵倒していました。

『わかるか、わかるよな?

俺はマエノス・ベテだ』

そして、何度も私を叩きました。
『誰ですか? なんて、卑しい女だな。計算高いというべきか』

私が何かわからないことにたいしてひどく腹を立て、また自分が、マエノスベテだと他人が思ってないだろうと、信じませんでしたので周りに対してやけに疑心暗鬼で顔を赤くしていました。

計算高いのであれば、私はきっとフリンカやフリンダの正体を知るフリをし、愛想よく、マエノスベテと自分を呼ぶ彼に、そう何度も言い聞かせたはずです。

彼に気に入られることすらありませんでした。

その代わりに彼は、私がいかに計算高く卑しいかという話を
近所に吹聴するほどに怒り狂いその卑しさを雑誌のコラムに投稿までもを目論む始末だったのです……

しかしこの《彼》マエノス・ベテは、笑わない鬼ではありません。
横瀬という名の人と時々電話をしています。
恋愛経験の豊富さが彼の自慢のひとつで、出会い頭に私に毎日のように自分を呼ぶ強要をするだけではなく、横瀬とは常に笑い声をさせていました。

「ヨコセ、マエノスベテだよ!」
彼は横瀬にだけは自分を認めてもらえるのか、それとも一緒にガールズハントを目論むのか、何かと相談し、そのときだけの笑顔は私の見ないものでした」


2019/04/23 19:30


29
「 特に家に来客があると彼は怒鳴るのが多く、こうして今のように誰かを呼ぶなんてとてもでした。
今? それはあとで話します。

 彼は私が出掛けると必ずついてきます。嫌いである私を常に監視する日課があったのです。

 しかし買い物で店の店員と話していたりするような仕方のない場合はマエノスベテが怒らないために、私はよく気軽に会話する機会にしていました。
単なる他人だと、パニックになった彼が違う女性と私に見分けが付かなくなるから。

 ある日も、店員ならば安心と少しだけ会話をしていると帰り道で急に


『なんで俺とは話さないんだよ!』

と彼は叫び出しました。


不思議でしょう?

会話は一方通行、質問も許さず、計算高いと罵り、ひたすら違う方の名前を呼んでいるんですよ。
私の意思なんかなかったので、会話など成り立ちません。


2019/04/23 20:19

30
・・・・・


『俺と話せ! いいな!』

帰宅しようとする間も、彼は、ウワキダ、フリンカ、フリンダと思っている私に対して強引に肩を掴み何度も頷かせようとした。
私は、はい、と言えなかった。
というのも、その頃にはもう、一体どんな性格で居れば、ウワキダ、フリンカ、フリンダと、私の見分けが付くのか、検討がつかなくなっていたから。
陰気に、うつむいていることだけが、彼が私に認めたことだからでもあった。ただ……

『なぜ笑わないんだ!』

道を歩いている際周りが、その暗さに疑問を持つと急に彼は焦って、笑うのを頼んだ。
明るく笑うと、またウワキダ、フリンカ、フリンダが出てきてしまうので、私は首を横に振るしかないのだった。

『笑顔が、見たいんだよ、幸せになってほしいんだ』

私が身を固めているうちに彼はそんなことを言ってまで意思を変えさせようと躍起になった。
『話せ! 笑うんだ!』


「いくらそう言われても笑えば最後。『ウワキダ!』と叫んだ彼がすかさず私を殴り付けるという恐怖に洗脳されていましたし、出会った辺りからすっかりその暗示にかかっていました。

耳元で低い声が今も
『フリン! フリンカー!』と、聞こえてくるようです。

ガタガタ震えて耳を塞ぎ、私は、絶対に笑わない、声も出さない、とその際心のなかで誓いました。
感情が出ては負けなのです。
彼は感情全てを、ウワキダやフリンカの性格に当てはめてしまう。他の他人は見て居ません。
叫びました。声にならない声で私は、ウワキダやフリンカ、フリンダを知りません、もう許してください、他人とふれあってはならないのですか、
何もなく笑うことなどできやしない!


 そこまで言って、彼女は一息置いて、まず茶を飲んだ。
ぼくは、ケーキの美味さとは別に、彼女に降りかかるあまりの出来事にさらに驚いていた。
あらゆる接触の機会を遮断しながら、笑顔を見せろ、話せ、というのは無茶な話だった。
面白いこともなく、ただプライドによって感情を強引に変えることが出来るのは、生きた人間にする行為ではない。

 彼はもしくは生き物と暮らしたことがないのだろうか。
思考実験でよく話にあがるメアリーの部屋を思い出した。
あれは『色』の定義からまず成り立たせる環境が確定していないなど様々な部分があるけれど。感情を発散させる場を持たない、許されない人間が、感情を見せることを試されたとき。急な強要により精神が崩壊しても不思議ではない。

「それは、確かに彼がおかしいと思います」

 何も見えず何も聞けない毎日と暴力を与えながら表では笑え、なにか言えと言われても、殴られる恐怖しか頭にないのは明らかだ。

2019/04/25 00:06


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