パンケーキ


マエノスベテ2
2022.8.22 21:54
話題:創作小説
estar.jpより。もとはfindに投稿していました。









13
 なんとなく彼と出会ったときのことを思い出す。ぼくは、ちょうど、思春期の真っ只中だった。彼もぼくも学生だったが、彼は常に保健室登校のような存在だったので教室に居るような居ないような感じで、特に友人に囲まれては居なかった。
ぼくはそれなりに友人は多かったのだが、それは単なる『広く浅く』の成せる妄想じみた仮面であって、卒業さえすれば大抵の相手とはほぼ話もしないだろう間柄だった。
「不思議なんだ」
大体空き教室などに居る彼には休み時間会いに行くことがあったが、よく、そんな切り出しで語り出すことがあった。
「なにが?」
「いや、また、会話もしない、交流もない相手から、いやがらせをされてるみたい」
 彼は友達に囲まれてはいないのに、なぜか見えない場所から石を投げる相手に、囲まれていた。
「誰だ! って聞きに行くほどクラスメイトなんて知らないから、恨みすら買えないはずなんだけどね」
確かに教室にすら居るんだか居ないんだかな彼は、誰からも関わられさえしない、恨みを買えるほどの存在ですらないので、これは不思議な現象だった。
2019/03/27 18:13






14
 それ、は意識を始めると次第に悪化していた。とうとう、何か言わないのかと言ったぼくに、美術準備室に居た彼は机の上の板にある粘土を何かの形にこねていきながらくすりと笑いつつ答えた。
「いつも輪の方から逃げていく。入る入らないは、輪に接触できる人間だからこそ言うこと。それが真相」
何か言おうと無駄だとわかっていたなんて、そんなことが、あるだろうか?
「やってみなきゃわからないなんてのは、やってもわからないやつの台詞だよ、実際やらずにも見たらわかることはたくさんあるんだ。例えばほら。きみは今から僕に説教をするついでに、ノートをわざわざ見せに来つつ、委員会会議に出るために確認しなくちゃならないことがあるから相談しようとしていて、ついでにきみはさっきそこで転んだね」

その通りだったから、ぼくは口を開いて固まった。

「きみが手に持っているプリントは、今日の授業進度とはなんら関係がない。小テストのやつとも紙が違う。ここの先生は企画や保存用以外は大抵が文字通りの再生紙だ。企業から来る試験の紙や、何か細かい用事のものは少しいい紙だけど、このサイズのコピー用紙は試験用には滅多に使って来ない。それに君がわざわざそうやって鞄から出したままやって来たのがなによりの証拠だよ。テストなら畳んで隠すだろうからね」
手にしていたプリントを、彼がひょいっとぼくの手から受けとる。
「うん、少しいい紙だ。いつものより30円くらい高いな」
「音海先輩が、家の紙から作ってきたらしい」
「なるほど」
「でも、生活指導の先生を中心に女子に厳しくなってるみたいだ。彼女は今、なんかよくわからない先生の主張で反省させられているよ。女子たちが群れてることが規律をなんとかどうとか。服装がどうとか。今ちょっとした戦争さ。折り合いがついてないから今回『代わりに男に行かせろ!』とさ」
「やれやれ」
彼は伸ばした髪をクリップでまとめて、大きくのびをした。
「大バカの筆頭が男だから、あまり迫力ないな」
「君が言うと、どの方面の味方なのかもわからない」








15
「この件に関していえば委員会でもなんでも、仲間を作ろうというのは、仲間を選ぼうと言うことなんだという事例のひとつだよ。
やたらと友達を作りたがるやつは、友達を排除しているのが常なのさ」
 ぼくは、なんだか合点がいった。
この友人を排除しようと裏から画策するのは彼らだ。
彼のスタイルが昔気質で排他的な生活指導の目の敵なのだろう。
「それだけじゃない。少しばかりはきみのせいでもある」
「ぼくが?」
「知恵を貸すにしろ、勝手に借りられるにしろろくなことはない。
以前もきみがたよりにきただろ。その口だしを彼は見下されたと顔を真っ赤にして、未だに根にもってるんだ」
「あぁ……」
確かにそう言った思い出はぼくのなかにもまだ顕在していた。
あの教員は、いかなる理由においても、女子、または年下、に先を越されるのが悔しくてならないらしい。どうやら大昔に、チビで太っていたことを周りの女子からからかわれ、年下からも、仕事の出来でからかわれていたのも理由のひとつじゃないかと、いつだったかに別の教員が口にしていた。
「解決しようがしまいが、『別の問題』が『蒸気機関車』になって突進してくるだけ。
この仕組みがわかっているから僕は、あまり関わりたくないんだがね……あのときもグチグチとずいぶんの間彼らは聞き苦しいことを言い出したものだ。ひいては、こっちの責任だ、と、発想を転換させてきたんだよ。だったらなぜ追及もしないで長い間無能を晒したのかと掘り下げられてたが」
そういう相手だとそのときのぼくはよく知りもしなかった。
しかし無自覚にしろ巻き込んだ一因は彼に関わろうとしたぼくにもあるということらしい。
「ぼくに、できることはするよ」
 この話題のおかげで気まずくなってしまったプリントをはたしてどうすべきか。
ちらりと彼の腕のなかを見る。
「遅いよ、もう時は動いている。それにきみだけじゃないからね。他のやつらよりはマシさ、僕の逆恨みを量産するだけでなにも挨拶はしないのだから」
 ひらひら、とその『紙』を振りながらの溜息。
輪の方から逃げていくというのは、手は出せないが顔は真っ赤だということなんだろうか。特になにかせずとも、したとしても、彼はいつも独りだ。

2019/03/29 18:32

「僕に敵や味方はないね」

木の形をしていた粘土がぐにゃりと歪み、あっという間に、泥から沸き上がる腕の形になる。
2019/03/29 17:55











16
 どうにか話題を前向きにしようと頭を捻るがぐるぐると脳裏で巡る疑問が先に口をついて出た。
「確かにノートはいつも見せているけど、転んだかどうしてわかるんだ? それは二つ上の階の教室のことだ。目撃者も居なかった」
彼はじろりとぼくを見たあとで、制服のズボンの膝が汚れていることや、手首がわずかに擦りむけていること、それから……と髪に手を伸ばして、頭についていたらしい綿埃をとった。

「午前の授業のとき僕は下に居たんだけど。保健室で誰かが絆創膏をもらうのを見た。カーテン越しだから声だけだけどね」
「なんだ、そっちに居たのか」
 埃に気がついていなかったことなどとあわせてなんだか気恥ずかしい気もちになった。
「あの様子だと軽傷っぽかったけど、なにかボンヤリしてたのかな」
「委員会の件だよ。あと、しつこい好意から逃げていたんだ」
またか、と彼は楽しそうに笑った。
「ぼくは、好きな『相手』が居る。人間なんかにかまってられないんだ!」
生きている『人間』ではなく、もともとぼくは、『そうでない』相手に興味があるのに。
なぜか『あいつら』、ぼくに構おうとする。
「クラスメイトが泣くぞ」
唯一気の許せる仲だった彼は、とても愉快に言う。
「別にいいよ」
他人が大嫌いだ。
ただでさえ。そして年を増すごとに嫌いになっていく。
 頭にあるこの『耳』の名残もケモミミとか言って世間が流行らせたおかげで、間接的とはいえ僕は世間の晒し者。息苦しい学校生活をしなくちゃならないというのを、近所の作家に言いにいったことがある。彼は『それをネタにした本を発売』した。






 それからは酷いもので、周囲からは、まるで僕が難癖をつけた悪者のようになってしまっていた。ケモミミくらいで!とまで作家のファンが部屋のそばに嫌がらせに来たりしたのだ。生まれついての悩みまで「くらいで」とまで、言いに来られるきっかけになるような『物』に、当事者が救われることはないだろうし、
『コピペ作家なんか死ねばいいのに!』とぼくはよく口にしている。
2019/03/30 21:19








17
 描いて貰えて幸せね、なんて妬むやつも居るけれどぼくはテレビに自分に似たキャラクターが映るだけでも気が動転してしまうし、検索ワードが上がればそれだけ他人が話題にしたり意識されたりしやすくなるわけだから、穏やかに過ごせなくなり充分迷惑しているというものだった。
 どうして他人の希望を奪っている作家の生活を支えなくてはならないんだろうか。
 いわゆる底辺の若者だって、他人の幸せを妬むわりに、
結局買ったその本やDVDだって他人の肥やしになっている、それを支援してるのと変わらない、という構図に誰も気づきはしない。



お前らが喜ぶから犯罪者が付け上がるんだ!
という話について、彼はただ苦笑いしていた。

「人類に妬みだけがあるのなら、きっと商売なんて成り立たないだろう。意外と深い話だ」

 ちなみに、ぼくは本なんて年に数冊買うか買わないかくらいだ。こうやって愚痴を語る時間の方がまだ楽しいってもので、読むのはさほど好きではない。特にケモミミ!
自分の体質の間違った解釈が、『大人気』を貼られてアニメや映画にでしゃばっていると発狂したくなるのも無理はない。

「なにもわからないくせに!」
「検索ワード上げやがって!」
「また『触らせて〜』とか言われる! ラノベじゃねえんだよ!!畜生気持ち悪い!!!」
「最終回希望!!」

と度々ストレスを募らせるぼくに、彼の方も慣れたもので、そういう日に対してはやけに、街でのいろいろな発散に付き合ってくれたように思う。
特に何も暴れられない日には、ふと不思議な話をしてくれたりした。

「――こんな話を知ってるかい?」

ぼくは日頃から、愚痴と謎解きで出来ている。


2019/04/01 14:23















18
「祖母が機嫌が悪いと、この家で、教室が開けなくなります、それで、どうにかならないかと思うのです」
 彼女はケーキを切り分けながらそう言った。現在は大学を辞めて働き出したたあたりのようだった。
「給料が高いわけではないですが、それなりに生きられればいいと思うの」
日本は学歴社会だけれど、みんなが知っているあの有名な会社の経営者、社長などのいくらかは、実は大学を辞めて会社を建てているのだという。
日本もいづれはそうなるかもしれないと『彼』は続いて呟いた。
「いろんな年齢が入り乱れてるだろ、僕もあのギャップが受け付けないね。大人は働くものというイメージがありすぎたのだと思う」

そういうものだろうか。
大人は働くものというイメージは、とはいえ、ぼくも強い方だった。家庭の事情で、家族は常に忙しなく働いていたと思う。それが同クラスの学生となればイメージとギャップが生まれるのは仕方のないことだ。

 高校生だったぼくはちょうどそのあたりに神経質になっていて「どうしようか」と改めて悩んでいたために、この話題には真面目にならざるをえなかった。少し前にオープンキャンパスがあったけれどどこかお嬢様、お坊っちゃま、学生気分の大人のための場所、というか、そんな感じがぼくもいくらか馴染めなかったりして居る。
 もしかするとこうした『無理をしない』道もあるのだろうか。そう考えると少しだけ視界が開けるような感じがした。


 「はい、どうぞ」と出されたケーキはわざわざ客用に用意されていたらしく、流れでご馳走になることとなった。
「ちなみに……これが初めてですか」
細いフォークを渡され、それぞれ受けとるなか、彼が質問する。
「機嫌を悪くされたのは」
「初めてでもありませんが、そう、滅多にないのです」
「なるほど。ちなみに茶会というのは、教室の人たちの集まりですね?」
「えぇ、そうです! そうでなく友人をここに招いたのはあなたたちで久しぶりです」
2019/04/08 20:40






19
「それは光栄です」
 彼、はにっこり笑って返事をした。
 改めて、ただ空気が悪くなっただけでなく会で起きた何かによって、周りにまで取り返しがつかないかもしれない事態だということがわかったが、当事者は、今どこでどうしているのだろうか。機嫌さえなおればいい、というのは思い出や年月の対価には安すぎるような気がする。
「しかし、年齢層は不思議です。なにしろ、ウシさんだけが恐らく周りの倍近い歳上であるように見えます」

 彼は遠慮なしに言い放った。
その会自体に、ウシさんが馴染んでいるとは我々からしたらあまり思えなかった。
彼女は少し寂しげに微笑んだ。
「場をまとめるべく、仕切りを張り切るなど、尽力してくださいますよ。楽しいふれあいの場が保たれるために懸命に」
しかしそれは、あまりに空回りしている発言だとその場に居た誰もに思えたと感じるが、あえてぼくらは苦笑にとどめた。

「此処によくいらっしゃるおせっかいな叔母さんからは、ウシさんがやけに仕切るようになったのがつい最近と聞きました」

そんな話があっただろうかと、ぼくは彼を見上げたが、彼はちらりとぼくを見て今それを言わないように合図した。2019/04/13 23:20







20
「えぇ、そうですね、そんな気がしますわ」
 気を遣うのか曖昧に濁しながら彼女は答えた。汗でもかくのかエプロンの裾で、手をしきりにぬぐっている。
「ああ、そうだところで、昨日知り合いからブルーベリーティー用のバッグを戴いたんで、此処にあるんですが、お好きですか」
 彼女の動揺と対極的にいつの間に用意していたのか、彼は穏やかな様子でポケットから取りだしてそれをひらりと振った。
「素敵! 折角ですもの。このまま席で一緒に戴いて良いかしら」
「もちろん」
 ぼくと彼は頷いた。
程なくして、カップを暖めるために熱い湯が注がれる。
彼女がそれをこなしながらも何やら苦悩した表情だったのが何だか気にかかってしまった。
「実は、叔母さんから聞いた話には続きがありましてね、」
ティーバッグがひとつめのカップに浸かる間に彼は言う。
「それがどうにも、叔母さんに直接文句を吹っ掛ける程の怒りであったということですから、彼女が原因かもしれません。もしもその話し合いで済めば、開けないだなんだというような話にはならない気がしますが」

「わかります、解決なさらなかったでしょう?だから問題なのです。皆、何に対してそれほどまで怒るのかに見当が付かなかったために止めるにも止められず、仲介ともいかず……ただ、激しい怒りを時折り聞くのみです」
「貴女には、何か?」
「いいえ、特には」
葉が湯からはずされ、お茶が入れられたカップに一旦蓋を被せながら彼女は首を横に振って、棚を見上げた。
「棚にジャムがあったはず……」
「お節介叔母さんのそのときの格好は記憶にありますか」
「なぜ、そのようなこと」
「派手なのがいけない、と言うような苦情だったと聞いたのでね」
「……花柄の、前にテレビで観た、オオサカで昔流行ったと言われる強烈な色使いの花柄のスカートと、黒い上着でしたよ。派手なのはいつもです」
2019/04/19 23:33







21
 3つ、カップに茶が入った後彼女は我々の目の前の席についた。
「お砂糖やミルクは?」
「僕は要りません」
「ぼくもいいです」
「そうですか、では戴きましょうか。いい香り。フルーツのお茶は特に渋味や酸味を感じやすいけれど、これは調度いいです」
「そうでしょう、僕も気に入っていますから」
 ぼくは、そんな二人の会話を聞き流しながらきょろりと辺りを見渡した。
 女性らしい清潔さのある部屋だ。ここでお茶を飲んでいる時間がなんだかそわそわと落ち着かない空間に思えていた。ケーキにフォークでゆっくり切り込み、食べる。それは、優しく甘い香りがして美味しかった。
「怒るときの様子はどうでしたか?」
「今は片付いて居ますが、ガラスが割れ、花飾りがぐしゃぐしゃにされて投げられて、ミルクがテーブルに舞い散りましたね。ウシさんはそれで彼女の使っていたカップを自ら割りました。とにかく激しい癇癪をおこしていました」
「何か飲んでいたときだったと言うことですか」
「えぇ。だと思います」
「大体の様子はわかりました。あの。食事中ですが、少し思い出すことがあるのでメールを……」
「どうぞ」
彼がメールを打つ。誰へ打つのかなど想いながらぼくはケーキを味わっていた。
が、ポケットが、ブルブル震えた。
「えっ!」
思わず立ち上がる。様子に彼女が思わず吹き出すので、少し彼、をにらみながらぼくは着信に応えた。
『おばさんの番号は?』がそこに書いてあり、なんだか紳士的と逆の雑な質問の文面に苦笑いしそうになるが、電話帳を開いて番号を貼りつける。
ついでなので、質問もしておいた。
『彼女の夫は、どうしているんだろうか。なんだか聞きにくいけれど、立場によっては迷惑がかかってしまう』

ぼくは、廊下に居たあの『ドレスを着た女神』についてを思いだしていた。
2019/04/20 00:07








22
 彼女は少なくとも、薬指に指輪はつけてないし、お揃いの皿やカップを買うという風習のところもあるが、それらも見当たらない。
 もちろん物だけでは判断出来ないが、いくら彼のような見た目でも結婚していればそう易々と部屋に男性を入れないで、玄関先くらいという場合も珍しくないのだが。
『彼女は、あのドレスのサイズではないよ。背が足らない』
「……」
彼女には見せられない返信だ。
「どうかなさいましたか?」
当人が、カップを両手で包み込みながらも首を傾げる。
「いえ、別に、その」
なんだかぼくは慌てた。彼は至って真面目な顔で、電話をしてくると言って部屋を出ていく。
「ちょっ……」
このタイミングで置いていくということに彼を恨みたくなるがそうは言っても仕方がない。
「ケーキ、美味しいです」
改めて気まずいながらにそんなことを口にするのが精一杯だった。
2019/04/20 00:47


















23
『女郎は浮気らしく見えて心のかしこきが上物』
 これでいう浮気というのは、陽気で派手な気質のことらしい。私には両親が居なかったけれど浮気らしく見える振る舞いはかかさなかった。それこそが良いとして生きてきたのである。春夏秋冬が浮気で楽しく生きていければ素晴らしいではないか。
 散歩コースでたまたま道ですれ違うだけの《彼》と友人になってからというもの、しかし私は浮気に頭を悩ませることとなった。《彼》の言う言葉は難しいものであった。
人と話せば浮気だと言い、人を見ていれば浮気だと言う。
陽気で派手な気質を好まぬ変わり者だったのだ。
独り閉じ籠り陰鬱とする女性が好みだという者も勿論いるだろうけれど、私は元よりそうというわけでもなかった。何もかも浮気な私が否定され、やがて私は私でなくなって居た。


 庭でぼんやりとする時間、フラワーアレンジのために育てられている花たちのプランターを眺めるのが唯一喜びだった。このように咲き、隣の花と寄り添いながら目の前の自然を眺めている小さな浮気たちは、私と違い許されているのである。 ただ黙り、黙々と浮気を許された花たちが誰かの手へ渡る様を眺め、自分を重ねていた。








 彼はこの家に住み着くようになった。彼から逃れる術を私は持っていなかったし、彼は浮気を嫌うのでただ陰鬱としているしかない。客をもてなしていても彼女らが帰るとと力強く頬を叩かれてしまう。
「浮気はやめろと言っただろう」
笑顔を嫌う彼のために、浮気をするわけではないというのに。
「浮気は、素晴らしいことですわ。女性が笑顔を見せたり、他人に話しかけることはとても大事な役割です」
「話しかけるな! なぜそんな必要がある」
 女性は口から生まれるという言葉もあるように、他人と会話したり笑顔でコミュニケーションすることは大事なことだった。
これは社会の男尊女卑がまだ根深いために起きた事のひとつだろう。
 ある日から、浮気、にとって変わる言葉が私を苛み始めた。
「フリンカ!」

呪文のようだった。
2019/04/22 13:37









24
 最初は、ブリンクリーとか、プリンキピアと仰ったのだと思って聞き流したけれど、いつまでも「フリンカ!フリンカ!」の謎はしばらく解けないままだった。浮気も、もしかしたらウワキはなく、彼特有の呪文のひとつだったのかもしれない。

 それから少ししてどうしてもフリンカとしか聞こえない確信とともに、フリンカについて、どこかにないかと辞書を引いた。



スロバキアの民族主義政治家のことだった。しかし私は、あまり図書館へ外出しないしインターネットというものをあまりしない為フリンカについてやはりそれ以上の知識を持ち得ることができなかったし、したところで、私はフリンカではないのだ。
 やがて、ガーデニングの手伝いで、ウワキ、上木が、庭園の上層を成す樹木のことでもある知識を得た。建築では、継ぎ手や組手において上になるほうの木のことらしく、下木も存在していた。ときに私を木に例え、そして、政治家に例えてまで彼は何と戦ったのだろうか。
 私を好いているとおっしゃったのに、私自身を呼ばれることはなく、いつからか私の名前はウワキダであり、フリンカのようだった。
2019/04/22 14:21

25
「フリンカではありません!」
私はある日、ついに涙を堪えながら叫んだ。
「ウワキダでもありません!なんですか、あなたこそ、私の名前をフリンカと間違えたままじゃないですか!」
《彼》は、激昂した。
「知らないフリをするのか、この、たわけ!」

《彼》は恋愛というものの経験が豊富だった。そして自身の理解を押し付けることに充足感を得ていたのだ。あまり理解のない人を見ると自分と相手の間にある暴力的な気持ちをおさえきれないのだろう。
「フリンダ!」
 彼は新たな変化系呪文を唱えて、私を殴り付けた。わけのわからないことばかり唱えては、一方的に殴る、蹴る。あまりにも私を否定する不気味な存在となっていた。
彼は私の名前を呼ぶことはなく、いつも違う方の名前を呼びつけていた。
特に気に入っている方が、フリンカ、フリンダ、ウワキダ。
でも、それらが誰かについて聞こうとすればいつもより顔を真っ赤にさせた。

「ふざけてんのか? お前がフリンダだろ! なぁ?」

私は、いつのまにかフリンダという名前に改名したのだろうか。
フリンカは政治家。フリンダは、オーストラリアにはフリンダーズ川があるという話は聞いたことがあったので、その集落の方なのだろう。
ウワキダは、わからなかった。浮気なのか、上木田なのか。

 ただ名前を呼ばれたかったのに、彼は、フリンダしか見ていない。
2019/04/22 20:32













26
 その頃にはいつしか浮気を忘れてしまっていた。
陽気に振る舞うと、《彼》がウワキダかフリンカ、フリンダと間違えてしまうのだから。
たぶん彼女らはそんな性格の人だったのだろう。
ただ家事に徹する機械のように、ウワキダやフリンカやフリンダとしか呼ばれない自分の名も、もう忘れていきそうだった。
《彼》は特に私に来客があるときに集中して、名前を間違えた。不安なのか焦りなのかわからないが、動転して過去の記憶が混ざってしまうのだろう。

「この、フリン!」

怒りが頂点に達した彼は、それでもまたついに、知らない愛称で呼んだ。
「フリンじゃ、ないです!」
「ダッタラウワキダ!!」

ウワキダさんのフルネームだろうか。
マトリョシカのように、マトリョちゃんなのだろうか?
ダッタラ、ダッタラ!
彼はとても真面目に訴えていたが、私にはやはり意味が通じていなかった。
《この部分》の話になると、いつも恐怖を感じてしまう。
せめて、言葉が通じれば良いのだが、わけもわからず、そしてわからないことすらも認めてもらえないことがとても悲しいことだ。

 そうなれば無心のまま壁に釘付けられてしまったドライフラワーを眺めて、興奮が収まるのを待つのみだった。
目を閉じていると、脳裏に浮かんでくる。

――フリンダ!

私は……
私はフリンダではないのです。

――バカにしてんのかウワキダ! ウワキダ、わかってくれよ!! 意味がわからないなんて、とぼけるなよ!


何を怒るのでしょうか。
私はいつも、ただ他人と話すだけだというのに。
2019/04/22 21:00










27
・・・
「ケーキ、美味しいです」
どうにか絞り出した声に、《彼女》は「そう、よかったです」と答えたがなんだか顔色が悪そうだった。

「どうかなさいましたか?」

聞いてみるが、ただ、あぁ……とぼんやりした呻きを上げている。

「私が、悪い、私が話すから私が、私が、フリンカ、フリンダ、私は、ウワキダ、フリンカ、フリンダ……」

何かの呪文だろうか?
それにしたって聞きなれない
羅列だったので、意図が伝わらなかった。
彼女は、そうしているあいだにも目の前でどんどん青ざめていく。

「あぁ! フリンカフリンダ、ウワキダ、フリンカ、フリンダウワキダ、あぁ!」

「あの」

ぼくは慌てた。
彼を呼べばいいのか、なにか処置が必要か電話で何処かに連絡すべきか、一時的な錯乱ならよいのだが。

「スベテは、俺のだ! フリンカ! フリンカ、スベテは俺のなんだ!」

人の名前だろうか?
明確な発音がわからなかったが、そんな響きがあった。

「マエノス・ベテは、俺だと……彼は、マエノス・ベテという名前で呼びます、だから」

テーブルから離れてしゃがみこんだ彼女に、せめて多少の意識が戻らないかとぼくは呼び掛けた。彼女はしばらくして、はっと我に返り泣き出した。
そして少し泣きやむと、呟くように言った。

「大丈夫です、ごめんなさい、少し話をしますが良いでしょうか?」

2019/04/23 19:04


0



前へ 次へ
ブックマーク トップ


-エムブロ-