なあ、そこのぶっさいくなおでぶさんよう。
ぐうぐう寝てばっかりだな、最近のおまえは。いや、いつもこんなに寝てるのか?
まあ、でも、今日くらいは俺の話を聞いてくれよ。そうやって転がったまんまで、いいからさ。
今朝の話だよ。
会社着いてすぐだった。遅刻ギリギリで慌ててデスクに向かうと、そこに上司が立ってたもんだから、俺はてっきりお叱りを受けると思った。
が、どうにも様子が違う。訊けば、その上司の飼い犬…『もぐた』って名前らしいんだけどさ、そいつ、死んじまったんだって。だから明日は休みをもらいたい、許してくれって。言われたんだよ。
氷野って言うんだが、その名の通りの冷血漢って有名な上司がだぜ。ぺーぺーの俺に、なんでか許しなんか求めてきたんだ。
「今朝、飼い犬のもぐたが死んだ。明朝火葬場に連れて行きたいので、出社が遅れることを許して欲しい」
俺は呆気にとられて、はあ、としか言えなかったよ。いちいちこの状況が理解しがたいものだったから。
氷野の口調はあくまで業務連絡みたいな、平坦な声だった。
「そう、すか。分かりました。その…ご…愁傷様、です」
なんとかそれだけ言うと、上司は訊いてもいないのに、今朝の様子を話し始めた。ひとつ、横を向いて咳払いをする。
「…今朝、目が覚めて、いつも通りもぐたに挨拶をしに行ったんだが、そのとき既に彼は血を吐いて死んでいた。呆気ないものだな。老衰だったようだが、15年も共に過ごしたのに、死期すら悟ってやれなかった。…初山、おまえも、猫がいると言ったな」
そう問い掛けられてようやく、何故氷野が俺に話を振ってきたのかを、ぼんやりと理解した。
「い…ます。年寄りの、デブ猫が、います」
「そうか。大事にしろ」
もうすっかり業務命令の口ぶりだったが、俺は素直に同意した。
「氷野部長、あの、虹の橋って、知ってますか」
踵を返す氷野へ、俺は思わずそう口にしてしまっていた。振り向いた氷野が俺を睨むように見た。すげえ後悔した、が、もう言葉は口に戻せない。
「知らん。なんのことだ」
「作者不詳の、古い詩…です。生前誰かに愛されたペットは、死んだらそこに行くんです。天国へ繋がる虹の橋の、袂」
自分が気色悪いくらいメルヘンな話をしてるのは解ったが、仕方がない。事実、そういう詩なのだから。
「そこにはメシもあるし、年中あったかいし、もぐたは若い頃みたいに元気になって、楽しく遊びながら過ごすんです。いつか橋を渡るとき…、氷野部長が死ぬそのときまで」
一息ついて、俺は常識的にかなり失礼な発言をしたことに気付いた。氷野は眉間に皺を寄せたまま、俺を見ていた。感情の読めない、瞳だった。
「もぐたは、淋しいけどずっと待ってます。部長が死んだら、そこでまた会えるんです。ふたりで虹の橋を越えて、その先の天国で、また…一緒にいられる、って…話で、す」
氷野に睨まれると、大抵の人間は理由もなく謝りたくなる。俺はすぐにでも土下座したいくらいだったが、10秒経っても氷野は沈黙のまま、俺の目をじっと見ていた。そして、呟いた。
「私のような人間でも、死ねばそこに行けるのだろうか」
よく分かんないけど、その言葉を聞いた途端、俺はすげえ悲しくなって、必死になって頷いたんだ。
「行きます。行けるはずなんです。だって、もぐたが待ってるんですよ。部長が来るまで、部長と一緒に行くために、ずっと」
さいごは声が上擦って、我ながら情けなかったが、氷野は笑わなかった。
だから、俺も、目のふちを赤くした上司のこと、笑わなかったんだ。