真体功で、新たな発見とか発展があるとき、そのときは随分劇的な進歩をしたように感じるのだが。
ほどなくして、こんな風にもおもう
「こんなの、誰だってこうやっているんじゃね?今まで自分が出来ていなかっただけなんじゃね?おめでたいね…笑」
身心が、「あたりまえ感」を感じるのです。あるいは「すっかり忘れていたことを思い出した感」。
だから、スペシャルに進化したという感じは最初のうちだけ。この体感は、このシンタイは、当然すぎて特別でもなんでもありゃしない。それの繰返しです。
センターに感じる光だとか、中芯の空だとかは、自分が自分だけが修行もしくは妄想でこさえた特別なものなどでもなんでもなくて、ソレは、自分の身体内にだけあるものではなくて、ほかすでにすべてにあまねくある光と同じものであり、≪何もしていない≫ものと同じ空なのであります。
その純度が高まるほどに感動も味わうのだろうが それは一瞬であり、即当然となり、とけていく。
むすんで ひらいて
手をうって むすんで
またひらいて
手をうって
その手を
深夜に目覚めて、肥田式強健術と真体功ば行った。
気功では一般的に、夜は「陰の気」だから気功は控える、とされる。が、真夜中の冴えざえとした空間では意識が研ぎ澄まされて、陰陽など生じていないような感覚ですらある。
本動作の「極め」の瞬間は、「キメる」瞬間ではない。肚腰をキメるのは準備動作の時点でである。
本動作のその瞬間は、「捨てる」瞬間である。
その瞬間に、決めようだとか決まるかな?だとかの意思や期待をもって肚腰を据えるものではない。タイミングなど計るものではない。タイミングを決めるのは意思でも期待でもない。肚腰の力などは細い1本の線に乗せてまとめて真下に落っことしてしまえばいいのである。そうしてはじめて、爆弾は腰を巻き上げて肚で弾け飛ぶ。
肥田春充が腰を反ったまま行った第四動(聖中心悟得の瞬間)というのは、その姿勢でいつものように肚に力を込めたのではないと確信する。放棄したのだ。単に姿勢を変えたイキミ運動をしたのではなく、放棄してしまったのだ。
キメゴトは破られて極めごととなる。
著書「宇宙船地球号」で有名な リチャード バックミンスターフラーの提唱していた「テンセグリティ」という構造学の概念は、現在において実際、建築物にどれだけ実現開発されているものなのか?わかりませんけれども、ロルフィングなどの筋膜治療において、そのテンセグリティの概念が採用されているようです。
テンション(張力)×インテグレート(統合)の造語がテンセグリティ。 ロルフィングでは、各筋肉は別々のものでなく筋膜に包まれた1つのものであるという見立てをするということでありますが。
私は、典型的なテンセグリティ運動の最たるものは肥田式強健術に他ならないとおもう。
強健術は十種の筋肉を別々に鍛える運動であるが、実際はすべて中心力を礎とした張力運動である。
バックミンスターフラーは単なる建築家ではなく、深遠な哲学を持った人だったようですが、彼の打ち出す色々な理論は当時は実現不可能の絵空事ばかりだと酷評されてもいたらしい。
かたや肥田春充は、オノレの身をもって聖中心構造を証明した。が、それを誰もが実践することが出来ない。
テンセグリティと聖中心運動の共通点は、土台に負荷をかけて建物や人体を立たせはしないということである。強健術の第一動から第三動にしたって、あれは一般的なイメージのいわゆる足腰を鍛える運動ではない。 ドテッとした下半身にする運動でもなんでもないのである。
8割か9割方は、実は本当の原因は特定できないという現代病の慢性腰痛は、構造を治したり重力のせいにして筋肉を鍛えたりしても、治るとは限らない。もっと根源的な【在り方】の問題だからである。
余談
昨日は160円拾った。
気 と一言でいってもどうやら人により何をもって気としているか、気という名で何をどう扱っているかが結構チグハグである。
インド、中国、日本の、古典的な気の説明は微妙に同じで微妙に違うっぽいし、人によってまたさらにバラける。
あと、上中下丹田やチャクラでそれぞれの性能があるけれども、そういうのは中芯との掛け合い兼ね合いでナンボのものである。中芯にも深みや明るみがある。
そして、エーテル、アストラル、コーザルなどというエネルギーの区別は私はあまりわからず気にせずだったが、何のことをいってるかなんとなくではあるがわかってきた。
そんなこんなで、バラッバラなわけだよ。
気功療法を受けるにせよ 気功を習うにせよ、ビギナーならどこで誰のところへ行けばいいか、はじめは見当がつかないとおもう。まずは何となく当たり障りのなさそうなところを選んだりとかするものかもしれない。
でもビギナーだろうが最初から持っているものがある。それは、
動機
ある程度の直感
縁
である。
そもそも持っているそれが、まずは「気」のタネだといってもよい。
そして結局は、それが芽吹いていくのである。
その課程もまた様々である。
腰が立っちゃって立っちゃってどうしよう。
頭頂部にも未だかつてない何か妙な様子があるが、デリケートな問題な気がするので安易な記述はとりあえず控えておくことにする。
腰が立つ立つ。この身体で、鉄槌とか打ったら威力がありそうな気がする。
肥田式が広まって国民的体育になってなくてマジでよかったとおもう。教育でヘタに採用されてたらどうなってると思いますか?昭和時代であれば間違いなく「姿勢を正せ!」「腰を入れろ!」「重心を落とせ!」「力を抜かんかい!」とやる(やられる)わけですよ。
もしそうだったら私は今ここでこうしてはいないだろう。
肥田式、気功、真体功、なんでもいいけど、何かをやるうえでの必須条件はただ1つ。
気持ちよくて 楽しいかい?
それ以外ぶっちゃけ何もいらない。 そしてさらにつきつめて言うなら、そのメソッドが気持ちよくて楽しいかなのではない。
自ら気持ちよくて楽しいことをしているかい?
そしてさらにさらにつきつめて言うなら、自分が自力でそれをやってるわけでは結局ないんですよ。
愛しあってるかい?
忌野清志郎的に結ぶ。