いよいよ全盲も目前だが、時間だけはあるので大学生時分の話でもしよう。

「先程は失礼しました」

縁側に腰掛けて庭の景色をぼんやり眺めていた私に、房は牧歌的なアンティークカップを差し出した。家も和風、衣服も和風なのだから日本茶が出てくると思っていたのだが、注がれている中身はコーヒーだった。私は会釈して皿を引き寄せた。

「こちらこそ、申し訳ありません。本来ならば予めアポイントメントの一つでも取るべきだったのでしょうが、急に押し掛けてしまいまして。それに声も掛けず…… あまりにも気持ち良さそうに寝ておられたので」

「お日様が心地良くて、ついうとうと舟を漕いでしまって……」

房は頬に手を当てて、「お恥ずかしい限りです」と俯いた。彼女の声は瑠璃のように透明で、訛りのようなものは一切なく、淀みない。翼も“日本生まれ日本育ち”と言っていたわけだから当然だが、改めて彼女の顔立ちを見てみると、ハーフという先入観を抜きにしても、やはりどこか日本人とは異なっている。
私は添えられた砂糖とクリームをカップに注いでから、ゆっくりと口を付けた。コーヒーはどうも苦手だが、これは割かし飲み易い。

「ドミニカ産の『アタベイ』という銘柄です。父が現地から送ってきまして」

「お父さんはドミニカでお仕事を?」

「ええ、以前までは。今の勤め先はベルギーです」

貿易商でもやっているのだろうか。

「では、房さんはお母さんと二人暮らしで?」

「母は二年前に他界しています。なので、今この家に住んでいるのはわたし一人です」

二年前に他界。あまり掘り下げてはならない話題な気がした。
それにしても、これだけ立派な家にたった一人とは。庭木の手入れも房が一人で行っているという事なのだろうか。

「それで今日は、あの、ええと……」

「ああ、すみません。花塚と申します」

「花塚さんは今日はどのようなご用件でいらっしゃったのでしょうか。北大の理学部の方が、わたしに何か」

「そうでした」

私はカップを皿に戻して、縁側に立て掛けたままのカンバスに手を伸ばした。

「房さんは、昨年度まで北大の芸術学研究室に在籍していたそうで」

「ええ」

房が頷いたのを確認してから、想定していた幾つかの策の中で、どれが最も適切かを考えた。
今回の目的は独語研究系への勧誘だが、彼女にはその取っ掛かり…… 契機となるものがない。第一関門となる接触こそ突破できたものの、そこから勧誘へと繋げるには、さらに幾つもの関門を通らねばならない。

「……今年度から、とある研究会の運営に携わっておりましてね。吹けば飛んでしまうような集まりです。御存じやもしれませんが、北海道大学に存在している部活動・サークルの数は非公認まで含めると百、二百は下らない数になります。従って、活動場所も限られてくる。割り当てられた場所に文句は言えない。活動場所があるだけマシというわけですが…… どうやら私の研究会が割り当てられたのは、昨年度まで芸術学研究室なる団体が使用していたところのようでして。そこで、かつて芸術学研究室で活動されていた房雨桐さんの絵画が見つかったので叶うのならば返却を、という話になったのです」

慎重に言葉を選ぶ。まるきり嘘ではない。が、純度百パーセントの真実というわけでもない。脚色と誇大表現の範疇。後々になって不都合が生じた場合は、その時に考えよう。
房は、どこか神妙な面持ちで口を開いた。

「わたしの絵が、北大に……?」

「はい。これ、房さんのもので間違いありませんか」

私はナイロン製の袋からカンバスを取り出して、房に示して見せた。青い薔薇を抱く女性。明るい陽の下で眺めると、迫力のある作品だった。房のような女性が何故このような作品を描くに至ったのか…… 気になるところではあるが、今は棚上げにしておこう。
当の房は床に膝を立てて、難しそうに目を細めていた。

「房さん?」

房はしばらく黙ってカンバスを見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。

「これは、わたしのものではありません」

「え?」

「わたしではありません」

「……本当に房さんの絵ではない、と?」

「はい」

沈黙が降りる。
彼女の反応に、私は閉口するしかなかった。絵画の作者ではないとなると、想定していた策のほとんどが水泡に帰す…… 参った。早くも不都合が生じるとは。それなのに、フォローしてくれそうな人間はここに居ない。
現時点で私という人物は、房雨桐からすれば、「訳の分からない絵を担いで現れた不審者」に過ぎない。
横目で様子を窺うと、予想に反して彼女は小さく微笑んでいた。

「でも心当たりはありますので、こちらでお預かりしましょうか? そのうち渡す機会もあるでしょう」

「それは、私としては願ったり叶ったりですが…… 構わないのですか」

「勿論です。わたしはこの通り一人暮らしですから、絵の置き場に困る事もありませんし」

できた女性だ。淑やかで、良識がある。
私は顔を合わせる以前から勝手に房雨桐なる人物を“突飛で非常識な人間”と決め付けていた。あの翼が十人目のメンバーとして勧誘したがるような人間…… それが普通のはずはない。偏見だと解っていても、今の面々を考えれば仕方のない事だろう。
とりあえず、私は彼女の厚意に遠慮なく甘える事にした。作者本人に届ける事はできなかったが、元からして房雨桐に近づく為の口実でしかなかったのだから。それを考慮すれば、まずまずの着地点だった。これで一応の関係は構築できたはず…… だが、この流れから勧誘に持っていくにはもっと段階を踏まねば。それには世間話が必要だった。私は傍らの荷物の手を借りる事にした。

「花言葉などには疎いのですが、やはり何らかの意味があるのでしょうか」

私の言葉を聞いて房は、「そうですね」と思案した。

「薔薇の花言葉は色や品種によって様々です。例えば桃色だと幸福、気品。白だと純潔、素朴。赤は情熱や愛ですね。ただ、キリスト教において薔薇の花弁は神の愛、赦し、殉教などを意味するそうです。そして棘にも罪という意味があります」

「ほう」

「取り分け赤い五弁の薔薇はキリストの血や聖母マリアを象徴していて、宗教画にも度々描かれます。絵の中の薔薇と言えば、花言葉よりそちらを連想してしまいますが、この絵に関しては真っ青な薔薇…… かつては不可能の象徴とされていましたが、今は」

房は口元に手の甲を当てた。そうしてしばし黙考した後、畳張りの床に目を落としたまま呟く。

「夢は叶う」

「……そういえば、まだ大々的に公表されていないものの、青い色素を有する薔薇の開発に成功したとか。それが関係しているのでしょうかね」

「だと、思います」

心ここに在らずといった様子で、房は頷いた。

「房さんも絵を描かれるのですよね」

「ええ。ですが、あまり上手くはありません」

「見せて貰う事はできますか?」

社交辞令ではない。この『青い薔薇を抱く女性』は房雨桐の作品ではなかった。では、彼女の本当の作風はどんなものなのか。純粋に興味が湧いたのである。

「スケッチで良ければ」

房は家の置くから青色の表紙のスケッチブックを持ち出してきた。「何だか照れますね」とはにかむので、私も笑顔で応じた。
スケッチブックに描かれているのは鉛筆の素描で、ラフではなく、細部に渡って緻密に描写されたものだった。題材はすべて、人間。それも身体の一部が肥大化している人間の絵だった。
たとえば、半裸の男が正面を向いている絵。左目だけが顔の半分くらいの大きさで、輪郭の外にまではみ出ていた。
他にも右の膝下だけ肥大化した絵だとか、左手、鼻、口、右耳…… どれも身体の中で一部分だけが異様に大きく描かれていた。
写実的とは遠くかけ離れた、抽象画のような作風と言える。だが、違うのだろう。少なくとも彼女にとっては。

「すみません…… 気味悪いですよね」

房は困ったように笑いかけてくる。私はスケッチブックから顔を上げて、その整った顔立ちを真っ直ぐ見つめた。

「率直に伺っても?」

「どうぞ」

「これらをどこで?」

そんな質問が投げ掛けられるとは思っていなかったのだろう。
房は驚いたように目を見開いてから、ふっと口元を緩めた。