眼底出血レーザー手術のわずかな寸暇を利用して、大学生時分の話でもしよう。

「例えるなら…… そうだなあ、虫とか」

生協会館前のベンチに腰掛けながら、その女性は言った。今後の話の展開にも因るが、ひとまずは耳を傾ける事に注力する。

「花でも良いよ。極端なところ、生物なら何でも」

「はあ」

私は生返事をしつつ、札幌キャンパスの緑々しい景色を眺めていた。瞬く間に夏至を過ぎて、夏日を観測する機会こそ増えたものの、蝉の鳴き声などは聞こえてこない。夏季休暇もまだ…… 煩わしいだけだった大学祭と開学記念行事、そして期末試験を乗り越え、独会における奇妙な仕事にも慣れてきた頃だった。

「生物っていうのはさ、何をするにも、まず食べられないと始まらないんだよ。大抵の生物は幼生の時にどれだけ沢山食べられたかって事が肝心ってわけ。だって、ちょっとしか食べられなかった個体は小さく、いっぱい食べられた個体は大きくなるんだから。これって生物学的には凄く重要なの。体格は色んなものを左右するから。例外もあるけどね。でも、体格が定まれば筋力が定まる。筋力が定まれば体力が定まる。そうなると、行使できる能力も自然と定まる……」

未だ話の落とし所は掴めないが、どうやら発生的類型論のような話をしたいらしい。アメリカの体格心理学者ウィリアム・ハーバード・シェルドンが似たような事を述べていた。

「ヒトってすぐに努力とか才能って言葉を使いがたるけど、あたしとしては懐疑的って言うか…… どうしても概念的な議論に向かうでしょ? そういう議論がしたいヒトはそれでも良いとは思うんだけどさ、精神とか倫理の問題に摩り替っちゃうのはいただけないなって。あたしが思うに、個々の能力っていうのはもっと具体的で、物理的な結果のはずなんだよ。才能にも色々あるだろうけど、体格は一目見て解る才能だって思うんだ。羽が備わっていないと空は飛べないように。目が備わっていないと何も見えないように」

「つまり?」

「つまり…… モデルになって! あたしの、彫刻の! 君の身体は才能なんだよっ!」

両の掌を勢い良く合わせて懇願する女性を他人事のように見やった。
緩いカーブの掛かった短めの金髪を揺らしているその女性は、北海道大学の学生ではない。札幌市の右隣…… 北広島市に拠点を置く道都大学の二年生である。道都大学に存在しているのは福祉学部と美術学部の二つのみであり、北海道では珍しい美術大学と言える。彼女――根建アサヒ(ねだて あさひ)はその道都大学の美術学部デザイン学科に籍を置いており、特に彫刻を学んでいるらしい。彼女について知っている事はそれくらいだ。彼女のほうも、私について知っている事は多くないだろう。
根建アサヒとの縁は、ここ数週間足らずの間に片付けた“仕事”の副産物と言って差し支えない。
私は陰鬱な思いを抱いたまま視線を前方に戻して、噛み締めるように仕事内容を思い起こした。

―――

カンバスには一人の女性が描かれていた。
どこか、暗い部屋の中である。
壁も床も黒く塗り潰され、内装が読み取れるものは何もない。部屋ではなく真っ黒な空間に居るだけなのかもしれない。だが、私の頭は自然と石造りの重々しい牢獄の部屋を想像した。よくよく見ると、カンバスの右側には白い筋が斜めに切り込まれていて、扉の隙間から差し込む光が表現されているのではないかと思えたのだが、やはりドアそのものはカンバスに収められていなかった。
女性は外の光から目を背けるように、或いは逃げるように暗い隅に身を置いて、背を丸めてうずくまっていた。顔は髪に隠れてはっきりとしない。白いワンピースのようなものを身に纏ってはいるものの、そこから伸びる手足は枯れ木のように痩せ細り、服の弛みからは浮き出たあばらが覗いていた。
女性はその骨ばった腕に青い薔薇を抱えていて、交差させた腕の隙間から真っ青な花弁が首をもたげていた。薔薇を抱きしめる皺だらけの皮膚は棘によって傷つけられて、鮮やかな赤が腕を滴っている。そして、傷つく彼女の傍らには光のほうへ首を向ける一匹のトカゲが描かれていた。
青い薔薇を抱く女性。
何故女性は光から逃れようとしているのか。何故傷を厭わず薔薇を抱きしめているのか。
残念ながら、私には理解できなかった。解るのは、女性が暗鬱に蝕まれているという事だけだ。
しかし不思議と不快な印象は受けなかった。抱かれた薔薇が素人目から見ても美しく描かれているからかもしれない。女性も薔薇の美しさに救いを求めているのではないか。“奇跡”なる花言葉を持つ青い薔薇に。

「……それで、今回はこの絵画の持ち主でも探せと?」

私は、カンバスに目を落としたまま訊ねた。

「探すのは持ち主ではなく、絵描きのほうね。まあ、結局は同じところに着地すると思うけれど」

同様にカンバスを眺めていた我が独語研究会の部長――翼が溜息交じりに答える。

「とは言っても、大体の目星はついているわ。この作者は札幌市内に住んでいる房雨桐(フォン ユートン)。名前だけだと大陸の人っぽいけれど、所謂ハーフね。本人は生まれも育ちも日本。去年までこの大学の芸術学研究室に居たものの、芸術作品の考察をしていくうちに自分自身で描く事のほうが好きになってしまって道都大学に編入…… そういう流れよ」

翼は訳知り顔で説明を終えた。

「そこまで判明しているなら終わったも同然だろう。他に何が?」

「もう居ない生徒の作品を置いといても仕方がないでしょう? だから、返してあげようと思って」

私達は今、札幌キャンパス内にある文学部棟の一室に居た。薄暗く、埃っぽい部屋だった。数ヶ月前までは…… もっと言えば、昨年度までは翼の説明にも登場した“芸術学研究室”が使用していたそうだが、半年足らずでここまで老朽化するものだろうか。恐らく、現役の頃から古めかしい造りだったのだろう。壁に西向きの窓が一つ設けられているのみで、照明器具の類は何もない。朝や昼間はさぞかし暗いと思われるが、今は眩しいほどの西日が射し込んでいた。
誰の目から見ても、この空間そのものがデッドスペースとなっている。そんなデッドスペースに絵画が一つ置かれていたとして誰が困る? 誰も困らない。仮に邪魔だとしても、勝手に処分してしまえば良いだけの話だ。わざわざ返却する道理もない。

「もう一度訊ねたほうが良いかい」

意地悪く問い掛けると、翼は唇を尖らせる。

「性格の悪い男はモテないわよ」

「優しさが取り柄の男がモテた試しもないだろうに」

「小羽や鳥居ちゃんに対してはあれだけ優しくして誑かしているのに?」

「誑かしていない」

「さいてー」

「小羽の真似をするな…… と言うか、話を逸らすな」

「十人目のメンバーになるかもしれない」

翼は、簡潔に言い放った。それだけで様々な情報が頭の中に浮かび上がってくる。

「勧誘?」

「端的に言えばね」

翼はゆったりとした動きで腕を組み、再び壁に立て掛けられているカンバスに目を落とした。
要するに、絵画の返却を理由に近づいて独会に誘い込みたいというわけだ。房何某とやらの事情は兎も角、鳥居繭が自由に出入りしている前例があるのだから、大学が異なっていても独会としては問題ないだろう。それに去年までここに籍を置いていたのであれば、堂々とは言えないまでも、この辺りを闊歩していても不自然ではない。不自然なのは、むしろ……。

「……私がやらないといけないのか、それは」

「そういう依頼だから」

「勧誘が仕事だとでも? 一体誰から?」

「スポンサー様から直々に。しかも、あなたをご指名して」

スポンサー…… 古美門間人か。一気にキナ臭くなってきた。奴が標的にしていた正親宗市郎はもう居ない。もう一人の懸念材料である大辻美子も大人しくしている。にもかかわらず、独会は解体される事もなく、当然のように“消毒”を続けている。間人にとって面倒なスキャンダルが残っているという事か? 或いは、この絵画の作者である房何某がスキャンダルの一端を? 考えても解らない。いずれにせよ、これを断れば一層面倒な事になる。

「人員は?」

「今回は、花塚君だけで片付けてもらうわ」

西日を受けて眩く輝いていた二色の頭を睨みつけるも、翼はどこ吹く風とばかりに肩を竦めるだけだった。

「それもスポンサーの意向か」

「そうよ」

「せめて、窪くらいは連れていっても」

「駄目」

ちくしょう。
心の中で毒づくと、見透かしたように翼が口を開く。

「あなたって、窪君を凄く信頼しているわね。月曳之縄の件でもそうだったけれど、事ある毎に彼を重用しているし」

「非常識な環境に身を置いていると、窪のような常識人でバランスを取りたくなるのさ」

実際、独会において窪の存在は貴重だ。いつだったか弱気になっている本人にも告げた覚えがあるが、きっと彼が居なければ独会は遠からず瓦解する。それぞれの癖が強すぎて。そういった目に見えない功績を差し引いても、勧誘を行うにあたって彼の気質はプラスに働くように思えた。少なくとも、小羽や鳥居より何倍も向いているだろう。
翼は溜息混じりに言う。

「情けない事を言わないの。私は今年度で卒業…… 次の部長はあなたなのよ?」

窪もそのような事を言っていたが、本当だったのか。

「……何故私が部長を。来年なら、それこそまだ窪が居るだろう」

「そういう未来なの」

あっけらかんと、翼は言い切った。
未来。鼻で笑って一蹴してやりたいところだが、彼女がそれを口にすれば、重みが違う。そしてそのまま、およそ一年後の状況を語っていった。まるで年表でも読み上げるかのように。

「私とイオが居なくなった、来年の独語研究会は新たに三人のメンバーを迎える事になる。一人はあなたに憧憬を抱いて。一人はあなたに憐憫を抱いて。一人はあなたに殺意を抱いて…… 図らずも多様性を持つ事になった独会はより強固な集団になるわ。それを、あなたが率いるのよ」

「なるほど…… で? その未来とやらに今回勧誘する手筈の房何某は居るのかい」

何気なく訊ねただけだったが、翼は怪訝な表情を浮かべて応えた。