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▲アリスのしあわせ(下)

ざぁあ、と、水音と間違えそうなさざめきを立てる葉。此処は戦場とは別時限にある、そんな錯覚を覚えさせた。

「そう。」

少女は固定された表情のまま、理解の返事を返した。

「ならば、貴方はこちらへ来るべきよ。」

今にも泣き出しそうな少年の瞳は不可思議な色を浮かべてはいたが、熱に浮かされたように少女の瞳を捕らえた。少女の瞳に、少年が映り込んでいる。その少女の瞳に映る自分の瞳にはまた、少女が映っているのだろう。
合わせ鏡になった二人は小さく笑い声を漏らした。笑う。笑う。笑う。
徐々に大きくなる笑い声は森に響いた。

ただただ純粋に声を上げる少年と少女は手を取り合った。長らく見知った者と踊るように。ただ今この瞬間を寿ぐように。

「あなたは、私の物になるの!」




少年は、逃亡からの生涯を
この森から出る事なく過ごした。













「これが、例の森の調査書かね。」

声からは疲労がありありと見て取れる。
目の下に黒い隈が広がるのを許したまま、何日が過ぎたのだろうと云った調子だ。

過ぎた戦時。
無闇に人の死ぬ時代は過ぎた。
平和の為の歴史の精算に労を組すのは嫌な気分ではないが、複雑そのものである。
(最初から、そんなものを起こさなければ良いのだ。子供でも解る。)

「は、誠に…奇異ではありますが。」

眉を潜めたままの下官に彼は軽く頷き、これ以上に無い労いを込めて言葉をつく。

「ご苦労様、君の兵役はこれにて終わりだ。」

下官は薄汚れた軍帽を脱いで礼をした。
彼には故郷があるのだろうか。家族や、恋人という精神の故郷が。
扉が閉まる。静寂。
ため息は長く漏れた。


「奇異なものか。真実さ。」


あの森には魔性が棲んでいる。


彼がその魔性に出会った事はなかったが、居るのは解るのだ。感じるのだ。
粗末な紙に書かれた内容を、今見る気はしない。

これ以上の疲労は、殊更に不可思議な疲労は、今の彼には重荷すぎるであろうから。


彼はその部屋を後にした。



(少年369番は、逃亡の途中で転倒し、朽ちた木の枝に心臓を突き抜かれて絶命していた所を終戦後に発見された)

(その姿は愛しい者を抱きしめるかのように木の幹に巻き付いていた。)

(身体は腐乱していたが、真っ先に溶け出すはずの眼球は何故か死後直後のそれのように綺麗であった。)

(そして青い色をしていた。)

(魔性の棲む森は、死後にその魔性を現す。)



少年兵369番。
彼は戦争という愚行の被害者にして、一介の死者にして、逃亡者にして、幸福な夢に落ちた永遠の少年。



(少年が死んだのは、いつなのかしら?)

▲アリスのしあわせ(上)






その森の魔性は、アリスと呼ばれた。





xxxxxx



迷い子は青い旗を降り森をいった。
繰り返し繰り返し想った戦からの逃亡が、叶ったのだ。

(少年兵369番は、敵機の襲撃に乗じて見張りについていた壕を捨てたものと思われる。)

降参を示す白等は持っていなかった。
自害するための手榴弾と、母の形見となった浅葱色をした着物の切れ端だけが彼の全てであった。

(国務を捨てる事、即ち非国民である。)

掲げた青は、陰った空の下で陰欝としたままに力無く揺らめいた。不安だ。彼は逃げてしまった。

(この時勢に置いて、かような人物に対し無駄な人民を割くことはしない…がしかし、見つけ次第修正せよ。)

ああ、また転んだ、また枝を引っ掛けた、葉で裂いた。身体には数え切れない程の傷がついて、精神さえも休息を許さない。煉獄だ。

(あの森には魔性が棲んでいる)


「なにをしているの」


それは咎めるような声だった。
煮えたぎるような血を抱えた頭に冷水を撒かれた心持ちで、少年は顔を上げた。
気付けば夢のように美しい金髪の少女が一人、戦の時代真っ只中だという事を忘れさせるような白いワンピースで立っている。

ああ、異国人だと、少年はただそれだけを思った。異国人だからどうせねばなどと、思いすらしなかった。そのはずである、彼は今少年兵たる名を捨てたのだ。

異国人同士であっても、彼らが只一介の少年と少女である事には変わり無かった。それがこの不思議な事柄に関する唯一重要な事実であった。

「なにをしているの」

少女は再び言葉を投げ出す。
風が彼女の髪を揺らすと、カサカサと葉の擦れ合うような音を立てた。

「た、」

少年は応えかけた言葉を飲んだ。
助けて、などと、言ってどうするのだ。

「死にたくない」

脳裏に過ぎる言葉を追ってたどり着いた言葉は、ただ生への渇望のみであった。



▲焼け落ちる空におちる


焦がれて焦がれてやまなかった
あの堅牢たる空が落ちた。

それは苦い妙薬を飲み下すかのように苦く、空に焦がれる想いを病であるかのようにことごとく打ち崩していった。

空がおちる。
原色の微粒子を飲み込んで果てなく
人に高く高く重圧を与えながら

背反である証拠であるかのように高らかに地に減り込みつ、膨脹してゆく空。

これが世界の終わりと言うのならばなんと残酷で抗う術無き美しい終焉なのだろう。

▲喪失の愁い讃歌


彼女の歌は大気に溶けて逝った。
聴いていたのは傍らの猫と少しの風だけだった。

賛美歌のように美しい旋律の、醜く歪んだ物語り。

猫は欠伸を繰り返して、風は吹く事を止めず、日々は繰り返していた。
断崖絶壁に据えられた華奢な椅子は彼女の生きる理由のようにそこにあり、海を見下ろしながら空をも見下ろせる此処は天国に最も近いようにさえ思えた。

彼女は歳老いて
猫はまだ子猫だった

街でも村でもない断崖絶壁に、彼女は住んでいた。
毎日、椅子に腰を据えて世界を眺め、歌う事だけが彼女のすべき事だった。

(彼女の恋人は死んでしまったの)
(船乗りだったの)
(飛行士だったの)
(軍人だったの)
(死んでしまったの)
(だから彼女は椅子に座るの)
(歌を歌うの)


(誰も帰るはずはないのにね)


(死んでしまったの)


(誰も帰るはずはないのにね)


(そして誰も居なくなるの)

▲奇人と天才と凡人と鳥



「でもそれって厄介だと思うの」

彼女は酷く億劫そうに寝返りをうつ。
朝の靄がかった光りを全身に浴びて居る姿は、宗教画のような崇高ささえ感じられる。感じられるだけではあるが、

「厄介、何が?」

彼は椅子の背に肘を乗せて力無く頭を任せていた。白い部屋に置かれるにしては酷く存在感のある青い椅子、何処で買ったでもない。今目の前に居る彼女がいつか取り付かれたように作っていた連作の一つであった。

「だって、世間様は認めやしないもの。」

また、寝返り。
広いベッドに熱の行方を求めるように、白く冷たいシーツを巻き込んで髪を遊ばせる。彼は彼女をただ無表情に目で追っているだけであった。

「何故?」

白い部屋に充たされる朝が、青く色づこうとしている。早朝が過ぎ去るのだ。時計の針は狂う事なく刻む。
彼の何故には答えぬままに、彼女は眠りに落ちていった。

(何故の答えは今晩問うとして、)

この愛すべき奇人は、また新しい世界を創り上げた。残酷で、苛烈で、美しく、洗練されたリアリティ。この壁一面に描かれたような存在感。実際には手の平程の葉書に描かれた小鳥のように小さな絵であるというのに。

心臓が唸る。
彼女を、天才や奇人以外の言葉で語るとするならば、その名を『神』以外で呼ぶ事は許されない程に確固たる存在。

彼女の絵画は世界であり、
その世界の神は彼女なのだ。

「やっぱり、彼女は外の世界を知るべきだ。」

しかし彼女は厄介と言った。
この白い部屋で、小鳥のように閉じ込められたままでいたいなどと。

「世間は彼女を認めないかもしれない」
「世間は彼女を痴れ者と言うかもしれない」
「世間は彼女を天才と言うかもしれない」

彼女は、正に鳥のよう。
飼い殺してしまえば唯の愛玩鳥
放ってしまえば、水面を波立たせる怪鳥

その賽は未だ投げられない。

(エゴに従って)
(彼女を放つ事も出来る彼は)
(また神と呼ばれるのかもしれない。)






後日彼は彼女の絵を持ち出した。

ソレを見た幾人かは発狂した。

ソレを見た幾人かは祈りを上げた。

まともで要られたのは

彼だけだった。


彼は彼女を












…………




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