「ドーナツの穴って存在すると思うか?」
白い机と、その上には陶器の皿。紙ナプキンを敷かれたその皿の上には揚げたてらしい、いくつかのドーナツが乗せられている。
それをひとつ手に取り、その青年はドーナツの穴越しに私を見た。
「あるだろう、そこに存在しているんだから」
「ああ、あるよ。目に見えてる以上はな。でもこうしたらどうだ?」
青年は手に持ったドーナツを両の手で持ち、それを左右に引っ張りちぎってみせる。ドーナツの穴は半円のくぼみになり、青年はその片方をこちらへと差し出した。
「これでも『ドーナツの穴は存在している』と言えるか?」
「……」
ドーナツを受け取り、まじまじと眺める。確かにこれだけを見ると穴はないと言える。そう言えば青年は満足そうに笑みを浮かべ、手に持った半分のドーナツを口に放り込んだ。
「ドーナツの穴ってさ、結局あるかないかわかんないんだよ」
「はぁ」
「ある、と言われればあるし、ないと言われればないんだ。穴はそこに存在しているし、存在していない。これって面白いだろ」
そうは言われても、難しい話はよくわからない。私は哲学者でもなんでもないのだから。そうすると、青年はからからと笑い「確かに哲学者ってほど、ものを真剣に考えるような性格でもないな」と言った。なんだか性格を非難されたようにも聞こえたが、本人にその気はないのだろう。仕方がないのでその件は無視を決め込むことにする。
「たとえば、そこにものが存在しているとする場合、その後に来るものはなんだと思う?」
青年は再び不可思議な質問をする。質問の意図がまるで読み取ることができない私は首を傾げるしかない。それを見た青年は、気づいたように「ああ」と笑った。
「質問が意地悪だった。じゃあ言い方を変えよう。そこに観測できるものがあって、観測者であるお前は何ができるのか」
何ができるか。
その言葉を一度私の中で復唱する。なんでもいい、たとえば林檎がそこにあって、私はそれを観測している。見ているだけではその性質はわからないが、たとえば質量を調べるのであれば……
「……手に取ることができるか、できないか」
悩んだ末に呟いたその回答に青年は頷いた。
「じゃあ、ドーナツの穴を手に取ることはできると思う?」
「できない。穴は所詮穴でしかない」
触れることはできないものを手に取るなど不可能だ。これじゃあまさに雲をつかむような話だろう。
「でも穴は存在しているだろ? そう形がある以上は」
二つ目のドーナツを手に取り、それを一口かじる。今度は穴の形が残るように、ドーナツの円をギリギリ繋ぐように。
「つまりさ、形があるからこそ、それは穴の証明になるんじゃねーか、って」
「穴の形があるから、穴だと認識する……?」
「だから俺たちはそれを『穴』だと思う。でもそこに本当は何があったのかまでは証明できない。穴は穴でしかないからだ」
ドーナツの穴に指を通し、青年は言葉を続ける。
「これは穴だけど、かつては穴じゃなかった。穴を埋める要素は確かにあった。じゃあその要素はなんだと思う?」
「……わからない」
「そう、わからない。そんなもの、誰にもわからない。もしかしたらドーナツの生地だったかもしれないし、穴を作るための型だったかもしれない。それを知る人間は『ドーナツを作った人』だけだ」
青年はドーナツを皿に戻し、私へと向き直る。青いその瞳はほんの少しの悲しみを見せながらも静かに私を見据え、そして私の胸へ向かって指をさした。
「俺はお前の中に、確かに存在しているか? それが、手にすることのできないドーナツの穴であったとしても」
──目を覚ました。ひどく難解な夢を見たような気がする。ドーナツがどうとか……。
見覚えのある顔、だった気がした。声も、その仕草も、すべてが懐かしい。だが、思い出せない。お前が一体誰だったのか。ただ、懐かしい誰かの夢を見た、という漠然とした感想だけが私の中に浮かび上がっただけである。
ドーナツの穴は、ある。穴を穴として成立させるために構成していたものが何だったのか、それが人であったのか物であったのかすらもう定かではないが、それは確かに在った。なぜなら、私の胸の内にある『穴』そのものがその存在を証明している証なのだから。