2017-5-26 01:50
*犬苗綴
*声を取り戻した代わりに失ったものも大きかったよ、という話。
私はただ会いたかっただけだった、もう名前も思い出せないあの人に。
人魚姫──昔、読んだことがある。とても悲しいお話しだった気がした。
私もそうなのだろうか。この世に再び生を受けるため……いや、あの人に会いたいがために、あの人と唯一取れるコミュニケーションの仕方も失って。
それでも、それでもいいと私は願った……そのはずだった。
私はもう『二綴』ではないのだと、気づいていた。
新たな体を得て、名前ももらって、住む場所も、家族も得た。
あの人のことがどうでもよくなったわけではない。ただ、後ろめたい感情が付きまとっていたのは確かだった。
私はもう、あの人の知っている私でないと、そのことを知ったとき、私の中には一つの考えが浮かんでいた。
もし、私があの人の一切合切を忘れ、感情もすべて無くしたそのときは、きっと笑顔で笑いかけることができるのではないか。
あの人に対する後ろめたさも嘘もすべて捨てることができるのではないか、と。
……それは、きっと幸せなのだろう。
だって、私はもう一度あの人に会いたい、会いたいけれど会えないのだ。
どんなに名前を変えたところで、私が『二綴』で、あの人のことを思っている限りは。
ならいっそ捨ててしまおう、リセットしてしまおう。
それで、あの人との関係性をやり直せるのだとしたら、それ以上の幸福はないはずだ。
かくして、愛する人のために声を捨てた人魚姫は、愛する人のすべてを失うことにしたのでした。
「俺、『人魚姫』でした」
「変な話ですよね、その人を思って俺、戻ってきたはずなのに、結局その人のこと忘れちゃうなんて」
少し悲しげな笑みを浮かべて彼は言う。
それでも、記憶の彼方にほんの少し残った感情だけは本物だった。