ぬるめの描写ではありますが、Xの自傷的な場面を含みます。苦手な方はご注意ください。
数年ぶりに再会したVは弟達の記憶する兄とは別人のように変わっていた。
口数は減り、視線は冷たく、常に険しい表情をしていた。
特にWに対しては距離を置いていて、時折顔を見ては眉を顰めているようにさえ感じた。
「前から言いたかったんだけどよ」
Wがぶっきらぼうに切り出すと、Xが本から僅かに視線を上げる。
「何だ」
冷たく、乾いた声だ。あの優しかった兄の声とは思えない。
「お前、俺の何がそんなに気に入らないんだよ」
確かにWはXが盲信するトロンに対し反抗的ではあった。
だがXのWに対する態度はそれだけでは説明がつかないほどに冷徹だ。
Wが不満を持つのも無理はない。
「何かと思えば、下らない」
Xは僅かに上げた視線を再び本に落とした。
「そうかよ」
WはXに詰め寄った。顔を乱暴に掴み、無理矢理に自分へ向けさせる。
「そんな下らねえことか」
Xの仮面のような表情に明らかな動揺の色が浮かぶ。Wはそれを見逃さない。
めったに感情を見せない兄の表情の変化が、Wの瞳を嗜虐でぎらつかせる。
「どうした?」
声が上擦る。Xの一挙一動を獲物を待つ獣のように見つめる。
「……離せ」
絞り出された声は震えていた。
何がXを揺さぶるのかはわからないが、Wにとってこれほど愉快なことはそうそうない。
「何だよ、冷たいな」
わざとらしく顔を寄せると、Xの碧眼に怯えのような感情と、Wの歪んだ笑みが映る。
「頼む……離してくれ」
Xは顔を掴まれたまま、精一杯目を背ける。
「……はあ?」
Wの笑みが凍りつく。兄が何に怯えているのか、気づいてしまったのだ。
悔恨でもなければ畏怖でもない、蓋を開けば気にしていたのが馬鹿馬鹿しいと思うほど単純な理由だった。
「何だ、お前。もしかして、この傷が気に入らないのか」
Xは押し黙る。肯定と取っていいだろう。Wにとっては拍子抜けもいいところだった。
W自身も顔の傷にはよい感情を持っていない。他人のXからしても、おそらく見ていて気持ちのいいものではないだろう。
むしろ、兄がそのような人並みの感性を未だに持ち合わせといたことの方がWにとっては驚きだった。
「まぁ高貴なオニイサマには、こんな醜い傷は刺激が強かったかな」
明らかに嫌みだと、言葉を投げつけるW自身も自覚していた。だが別に、Xを責めるつもりはなかった。
ただ、優しく宥めることも、笑って許すことも、今の二人には出来なくなってしまっただけだ。
それほどに二人は、いや、この家族は歪んでしまったのだ。
Xの瞳が揺れる。何か言いたそうに口を開く。またいつものように叱るだろうか。Wは目を細めた。
かつての兄は、大人しいものの情感豊かな人間だった。
カートゥーンアニメを見て笑い、いたずらをされれば怒り、悲しい結末の小説を読んで涙を浮かべた。
ひきかえ、笑わない泣かない今の兄は、整った外見も相まって人形のようだ。
Wは人形は好きだが、人形のような人間など不気味で不完全なつまらない存在でしかない。
だからWはXが怒るのを見るのは嫌いではなかった。兄がまだ感情を持っていると思い出させてくれるからだ。
「お前の傷は、」
言いかけてXの顔が苦々しく歪む。
身勝手なのは分かっているが、怒りのこもらない声にWは苛立った。
顔を掴む手を離し、胸ぐらを掴み直す。それでもXは怒りを滲ませたりはしなかった。
本当に、自分の知っている兄とは違う、つまらない人間になってしまった。Wは兄の変わりように、改めて失意した。
「兄様方、何をしてるのですか」
割って入ったのは末弟のVだ。
急停止したティーワゴンから、食器やフォークやナイフがぶつかり合う耳障りな音を立てる。よほど焦ったのであろう、温厚で物腰の柔らかいVにしては珍しいことであった。
WはXから手を離し、観衆の前でデュエルをするときのように大げさな仕草をした。
「なんでもねえよ、下らねえことだ」
わざとらしくXの言葉を借りたが、実際本当になんでもない、Wにとっては下らない些事であった。
完全に興がそがれたWは、Vに場を任せドアに手をかけた。
ティーワゴンに乗せられたケーキは大きさから三人分だろうとは思ったが、生憎、Xの顔を見て食事をするなんて気分にはなれなかった。
正確にはXに顔を見られながら食事をするのを躊躇ったのだが。
しかし。
「X兄様!何を、おやめください!」
Vの声に振り返ると、Xが顔から血を流していた。
「に、兄様……」
真っ青になって立ち尽くすVを押しのけ、Xに掴みかかる。頬だけでなく唇からも血が漏れ出す。傷は口腔内に達しているのだろう。
手に握られているのは、ケーキを切り分けるためのナイフだろうか。
「何やってんだ!馬鹿が!」
暗い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
Xの頬に右手をかざし紋章に意識を集中させると、紋章が淡く光る。
今まで紋章の力を人を傷つけることばかりに使ってきたせいか、うまく力をコントロール出来ない。
Xの血は止まらない。とめどなく頬を伝う血が涙のように見えた。
(こんなツラが見たかったわけじゃねえ)
Xがこれ以上自分の知っている兄から変わってしまうのを放っておけなかった。
こんな顔になるのは自分一人で充分だった。
だんだんと紋章の力が弱まる。慣れないことに力を使ったからだろう。人を助けるためにこの力を使ったのはこれが二度目だ。
「くそ!止まれ!止まりやがれ!」
悲鳴にも近い叫びだった。
Xの顔が白く見えるのは元々の白さや紋章の光のせいだけではないだろう。
焦りもあって紋章の力の制御を今にも失いそうだった。
「W兄様、どいて」
落ち着きを取り戻したVが、Wの右手に左手を重ねると、紋章の光が強まる。ゆっくりとXの傷が塞がっていく。
優しいVはこういうことにばかり紋章の力を使っていたのだろう。Wも何度かこうやって手当てをしてもらったことがある。
「V……」
見苦しく叫んだことも気にせず、Wは思わず安堵を漏らした。
「X兄様、どうしてこんな真似を……」
濡らしたタオルでXの頬を拭いながらVは嘆いた。
Xはぼんやりとソファに背中を預け、傷の癒えた頬をさする。
「私がどんなに苦心しても、Wの傷は消えなかったというのに」
その瞳は暗く、宿る感情も読めない。
愚かな兄だと軽蔑できればWの心は軽くなっただろう。
しかしどんなに関係が歪んでしまってもそれだけは出来なかった。
「……お前がつけたショボい傷とは訳が違うからな」
この傷はトロン曰わく『ご褒美』らしい。
親愛を憎悪に、知性を狂気に翻倒させた、かつて父だった少年。
彼の言う『ご褒美』などWを縛るだけの傷でしかなかった。それだけその『ご褒美』は根深く、強く、残酷であった。
「そうか、すまない」
Xは暗い瞳を伏せた。ただでさえ読めない意図が途切れる。
何がすまないのかもわからない。
「X兄様、それは答えになっていません」
Vはこういうときに頑固だ。Wなら面倒くさがって看過するところを、決して見逃さない。
これは長期戦になりそうだ。面倒になる前に退散しようとWが立ち上がるのと、ほぼ同時にVは立ち上がった。
「W兄様」
「なんだよ」
てっきりVはXを問い詰めるのだと思っていたので、呼び止められるとは思っていなかった。
「紅茶が冷めてしまったので入れ直してきます。W兄様はX兄様について差し上げて下さい」
「俺が?」
「ありがとうございます」
Vは笑った。誰も引き受けるとは言っていない。
普段は控えめな弟だが、ときどき有無を言わせないように我を通すのは末子の特権だろうか。
部屋を後にする華奢な後ろ姿にWは思わず苦笑を浮かべる。
「V、怒ってるぜ」
弟が怒るのも頷ける。正直Wもかなり頭にきていた。Xの奇行、いや蛮行と言っても差し支えないだろう。それを、きっちり叱ってやるようVに言っておかないと。
「あの子には悪いことをしたな」
この期に及んで、兄は罪悪感を感じる方向がずれていた。
「なんであんなことしたんだよ」
口を挟むのも馬鹿馬鹿しいと思ったが、Vと同じ質問を重ね、方向修正を図る。
「W」
突然に名前を呼ばれ、どきりとする。
それくらいにこの名前は使われるようになってから久しい。
「座りなさい」
手のひらで自分が座っているところの隣を軽く叩く。
ここに座れという合図だろう。
その言葉と仕草が、少しだけ昔を思い出させて、胸を締め付ける。
渋々と隣に腰を下ろしXに向き直ると、思いのほか距離が近くて言葉に詰まる。
XはまっすぐにWの顔を見つめていた。
そういえば、手当てをしようとしたときもこんな風に見つめられていた。
「お前の傷は醜くなんかない」
やがて口を開いたかと思えば、右頬に触れ、傷に唇を落とされる。
そこから熱が伝わったように顔が熱くなる。
「だが申し訳ないことをしたと、思っている」
Wの反応など構いなしに視線を伏せる。手だけが優しく頬を撫でる。
まるで、自分にはこれしかしてやれないと言わんばかりだ。
「お前を行かせなければ……」
Wに対して自分は無力だと言っている様に聞こえた。
頬を撫でる手を乱暴に掴む。
「やめろよ」
今更だ。言い訳がましい。相変わらず答えになってない。
そのままXの手も、言葉も引き剥がしてやるつもりだった。
「……誰のせいでもない」
Xの手は冷たかった。触れられた顔が熱くなるのを差し引いてもなお冷たい。
昔はどうだっただろう。
そんなことを考えながら、掴んだ手に頬をすり寄せる。
「だからもう、こんなことするなよ。バカ兄貴」
本当に愚かな兄だ。心底そう思った。
だが、その言葉に伴う感情は軽蔑ではなく、むしろ愛おしさに似ていた。
この愚かな兄を叱るのは、弟一人に任せるには少し荷が重そうだと思い直した。
END
2012-7-3 13:04