かわいそうな弟 3



 結局、浜茄子を見る前に弟は倒れて、わたしは母にひどく叱られた。病院から戻った弟はまた暗い部屋に籠もり、母はかいがいしく弟の世話をした。
 早朝、日課のランニングコースにも浜茄子は咲いている。小さな海岸へ続くゆるやかな丘に、何でもないことのように。せめて写真を撮って弟に送ってやろうかと思ったが、やはりやめて朝日を撮った。いつ見ても夕日のような朝日だ。これは本当に朝日なんだろうか。朝日なんて存在するのだろうか。
 カモメが鳴いている。海の方から、甘い匂いのする風が吹いた。携帯電話をポケットにしまい、わたしはまた走り出す。昨日、弟と長い時間をかけて歩いた道を、あっという間に通り過ぎる。家の下から見た弟の部屋のカーテンはいつも通りぴったりと閉まっていて、なぜだかわたしはほっとした。
 弟が浜茄子を見たいと言ったとき、本当は少し怖かった。彼がなにかをやりたいと言って、さらにわたしを頼ってきたことなんて初めてだった。今までとは明らかに何かが違って、彼は変わろうとしていた。母もわたしも、彼が変わることを望んでいるはずなのに、いざその兆しが見えたというだけでこんなにも恐ろしいなんて思わなかった。弟の気持ちを気にしながらわたしたちは他人の目もしっかりと気にしているし、長く続いた状況が変わるのはやはり不安で、変わってほしいと思っているくらいがちょうどいいのかもしれないとすら思う。母が同じ気持ちでいることはすぐに分かったし、夜でもいいから浜茄子を見に行きたいという弟に対して、何かと理由をつけて許さないのはそういうことだ。
 弟は不幸だと思う。母もわたしも、不幸だと思う。そしてわたしたちはそれを望んでいる。本当はいつでも幸せになれるくせに、怖いから、不幸でいることを選ぶ。そして、幸せになりたいなあなんて考える。ばからしい矛盾を抱えて生きているが、矛盾こそ人間らしさだ。人間らしい弱さと強さだ。「幸せを望む不幸な現状」に、わたしたちは満足している。

 家に入る。早朝はまだ涼しいが、部屋に戻るとドッと汗が噴き出すような気がする。コップに注いだ冷たい水を飲みながら、強い日差しの下でわたしを見つめた弟の双眸が脳裏によみがえる。頬を伝う大粒の汗。びしょびしょのシャツ。長いまつげの先にも小さな汗の粒が震えてたりなんかして、きれいだったな。あのときの弟、ぜんぶ。
 あんなにぐしゃぐしゃになってまで、見たかったのかな。浜茄子なんて珍しい花でもないのに。弟が望むなら、いつでも持って帰ってあげるのに。いや、浜茄子を見ることが目的じゃないんだ。自分で決めたことを実行する、そのことが大切だったんだ。何も聞かなくたってなんとなく分かっていた。だからこそわたしはあの日わざと遠回りをして、彼に浜茄子を見せなかった。本当はもっと近く、家のすぐそばに、浜茄子は咲いていたのに。
 わたしは心から、弟が幸せになることを願っている。そしてそれと同じくらい、今のまま不幸でいることを願っている。例え何があってもわたしだけはあなたを愛しているわと言いながら、わたし以外に愛されない弟のままでいてほしい。わたしだけに頼ってほしい。母だって同じだ。こんな姉と母に守られて、ああ、なんて愛おしい、かわいそうなわたしの弟。





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