こんなに苦いコーヒーを飲んだのは初めてだ(下)



 光彦さんというのは彼女の兄のはずだ。それなのに彼女は僕にキスをしながら、その名前ばかりを口にする。すがるように呼ぶのだ。まるで頼れるのはあなただけだと言わんばかりに、名前を呼び、抱きついて、離そうとしない。彼女にすがられるのは嫌いではないが、その名前で呼ばれるのが最近どうにも気に入らない。気に入らない名前を連呼する彼女の口を指でふさぐ。くすぐったそうにクスクスと笑う、ご機嫌な彼女の額に僕からキスを落とした。
 彼女は極端に感情の変動が激しく、記憶も曖昧で、一人息子である僕のことをいつも違う名前で呼ぶ。普通の、優しい母だった頃が懐かしくなるときもあるが、僕は今の生活もそれなりに好きなのかもしれない。
 病気の彼女を理解出来ず、近所では悪魔が取り憑いたんじゃないかなんて噂もあるらしい。急激に減ってしまい、残り少ない友人から聞いたことだが、僕はそれでもいいと思う。そうだ、僕は彼女が悪魔でもいい。死ぬまでそばにいてくれるなら。どこかへ行ってしまわないのなら。僕より先に死なないのなら。いつまでも温かいのなら。
「最近お父さん見ないね」
 ふいに彼女が言った。僕を光彦さんと呼んでいるときのことなので、僕の父ではなく、彼女自身の父親だろうと推測する。続けて、あどけない表情で彼女は言った。
「死んじゃったのかな?それなら淋しい」
「嫌いだって言ってなかったっけ」
「そう。嫌い。わたしに似てるから」
 似ているから嫌いとはどういうことなのだろうか。彼女は自分のことも嫌っているのだろうか。少し前にも聞いた言葉のはずなのに、ぐるぐると頭が混乱する。
「光彦さんは好きよ。誰にも似ていないから」
 僕は僕にできる最大の優しい顔で無理やりに笑った。じゃあ幸太郎は、と訊きたくなるのを必死でこらえる。問うたところでまともな答えが返ってこないのは分かりきっていた。今の彼女は僕どころか、長年付き合ったはずの夫のことすら欠片も覚えていない。
 父と彼女、つまり僕の父と母はまだ幼い頃に知り合い、一生の半分ともいえるほどの時間を一緒に過ごした。その父にまつわる記憶がまるまる抜け落ちたとたん、彼女の思考は極端に幼児返りし、感情は至極不安定になり、当然ながら僕のことも忘れてしまった。
 元々、童顔で若々しく魅力的な彼女を、女性として見ていた僕にとって、当初この状況はなかなか魅力的に思えた。けれど数年の月日が流れ、初めて本当の名前で呼ばれた瞬間、僕の考えはがらりと変わってしまった。
 やはり僕は彼女の息子なのだ。どんなに肌を重ねたって、満たされない部分が山のようにあって、積み重なったそれは今まさに僕を押しつぶそうとしている。僕の嘘が僕を締め上げる。自業自得の苦しみだ。そう思った。
「光彦さん、コーヒーをいれてよ」
 コーヒーのいれ方は彼女に教わった。彼女は光彦さんに教わったのだと言う。光彦さんはこうだ、ああだと、この数年で僕はすっかり光彦さんにされてしまった。彼女の認識では今、兄と二人暮らしをしているつもりでいるのだ。学生時代に、数年だけ二人暮らしをしていた記憶が引っ張り出されてきたのだろう。
 僕はキッチンでコーヒー豆を煎る。彼女はじっとそれを見ている。慣れた手つきで準備をしながら、僕はもう一度本当の名前で呼ばれたいなんて思っていた。そして、光彦さんなんて名前では、もう二度と呼ばれたくないと思っていた。
 いれ終わったコーヒーを彼女が飲む。そうして天使みたいに柔らかな笑顔を僕に向けて、やっぱり光彦さんのいれるコーヒーは最高、だなんてつぶやき、僕も一口飲みながら、笑ってそれにこたえるのだった。



20110717






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