こんなに苦いコーヒーを飲んだのは初めてだ(上)



 彼女が父親を嫌う理由は、自分に似ているからだと言う。
 薄暗い室内で、肩を並べて古い映画を観ながら唐突に言われた言葉だ。たしか僕は、ふうん、と返したと思う。そうしてしばらくしてから、ようやくものすごい後悔に襲われ、今すぐ映画を止めたくなった。けれど僕の手を強く握りしめた彼女がそうはさせない。
 後悔というのはもちろん、僕のいい加減な反応についてだ。もっと深く考えてから、慎重に選び抜いた言葉を発するべきだった。単純な僕の脳みそは完全に映画に引っ張られていて、彼女が言ったことを理解するのに、少し時間がかかったのだ。
 僕は隣にいる彼女を盗み見た。彼女は眉間にしわを寄せ、何かを考えるような難しい顔でテレビ画面を凝視していた。映画を観るときにはいつもそうなので、機嫌の程はまったく読み取れない。僕も画面に視線を戻す。やっぱり単純な僕は、画面の中で繰り広げられるストーリーにすぐに夢中になってしまう。

 映画が終わり、エンド・ロールが流れ、自動的にメニューへ戻ると、彼女は僕の手を離す。ずっと変わらない力で握りしめられていた手はじっとりと汗ばんでいた。最近では当たり前になってきたことだ。
 僕は、彼女が父親を嫌っていたことすら、このとき初めて知った。彼女の父親というのは僕の祖父で、つまり今隣で嬉しそうにニコニコと笑っているかわいらしい女性は、僕の母親だ。何が嬉しいのか分からないが、彼女は最近よく笑う。泣いているよりずっといいことだと思う。ただし、会話はあまりできない。
「光彦さん」
 彼女が僕を見て呼ぶ。それは僕の名前ではないが、最近の僕は何と呼ばれても素知らぬふりで応えられるようになっていた。「なあに」と柔らかくほほ笑みかければ、嬉しそうに表情をくずす。まるで少女のようだと僕はいつも思う。
「抱きしめて」
 僕は黙って腕を伸ばした。彼女の望むことなら何でもした。僕の腕の中で、彼女はきゃっきゃと笑っていたが、しばらくすると人が変わったように暴れ出し、強い力で僕を押しのけ、仁王立ちでわんわんと泣き出した。彼女の頬を大粒の涙が伝うのを、僕はしりもちをついたような格好のままぼんやりと見ていた。

 数分後には、彼女は何事もなかったかのように大人しく本を読んでいた。彼女は一冊の本を何度も繰り返し読み、ときにはひどく乱雑に扱うので、本はすぐにボロボロになる。
 しばらく彼女を眺めていたが、あんまり夢中になっているので、僕はキッチンに移動した。最低限の調理ができる程度の狭いキッチンだ。あとは七畳一間しかないアパートに、僕と彼女は住んでいる。
 いつも通り、コーヒーを飲む準備を始めた。必要なだけ豆を取り出して煎る。このときのカラカラという音はなんとなく僕を安心させる。好きな音だ。けれど彼女は嫌がる。彼女のことを考えながら、ふいに気配を感じて振り向くと、いつの間にか本を読み終えた彼女がすぐ後ろに立っていた。
「コーヒー飲む?」
 僕は尋ね、彼女は苦い顔で頷いた。ちょうど二人分のコーヒーをいれ終わるまで、彼女はじっと僕を見ていた。僕はたまに見ると指を噛んでいる彼女の口から、その指を救出してやる。それでもずっと見ていられるわけではない彼女の指は傷だらけで痛々しい。
 部屋を移動し、コーヒーを飲む僕の隣で、彼女は自分の分のコーヒーなど見向きもせず本棚を眺めた。そしておもむろに本棚へ近づく。今度は何の本が犠牲になるのだろうかと、のんきに構えていた僕は、彼女が抱えてきた本を見てさっと青ざめた。それは僕が特に大切にしていた本で、しかも彼女は中身を見ようともせずさっそく破ろうとしている。僕はあわてて彼女の腕を掴んだ。
「駄目だよ、それは」
 言いながら、彼女の目の届かないところにその本をしまっておかなかったことを後悔した。しかしすでに遅く、本は彼女の手の中にあり、やりたいことを止められた彼女はその大きな目にみるみる涙を溜めた。
「いじわる」
「大切な本なんだ」
「いじわるしないで」
「違うよ。これと交換しよう?」
 手元にあった本を適当に手繰り寄せ、彼女に見せる。今まで大抵のことはこれで解決してきたのに、彼女はいやいやと首を振った。
「イヤ。これがいい」
 僕は途方に暮れながら、なんとか彼女の意思を本からそらす方法を考える。
「映画観る?」
「さっきみた」
 いつもはすぐに忘れてしまうくせに、こんなときだけ覚えているから困る。
「そうだ、散歩に行こうか」
「本を読むの!ほうっておいて!」
 彼女が大きな声を出す。僕は泣きたい気持ちになった。
「分かったよ、ごめん。でも破いたりしないで。大切に読んでね」
 彼女は無言で僕の腕を振り払い、逃げるように部屋の隅に移動した。背中に隠れて見えはしないが、さっそくバリバリという音が聞こえてきたので、僕はついにちょっとだけ泣いてしまった。
 彼女が振り向く。僕はあわてて涙を拭う。さっきまで欲しがっていた本を放り出し、近づいてきた彼女の指が僕の輪郭をなぞった。
「こうちゃん」
 懐かしい呼び名に、何の覚悟もなかった僕の心臓がふるえる。目の前にあるのはいつもの彼女の顔だが、とても悲しげで、それは母の顔だった。
「こうちゃんが悲しいの、いやよ」
 泣かせたの誰?ママゆるさないよと彼女は言う。僕はよけいに喉の奥が熱くなるのを必死でこらえていたので、何の返事もできなかった。数分もすれば彼女はすっかりもとに戻り、楽しそうに本を破いた。ふたつのコーヒーカップを持って僕は立ち上がった。扉を開ければ、窓から夕日の入り込んだキッチンがオレンジ色に染まっていた。






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