寝ぼけたままで教室に向かうと、黒板には1限目は体育と書かれていた。
よし、勉強せんで済む。体操着は元々持っているので、鞄から取り出し、教室内でガヤガヤと着替えるクラスメート達に混じって、同じようにネクタイをするりと解いた。
瑛樹まだなんかな?
家から直接通う瑛樹とは登校時間が違うので、瑛樹が今学校に来ているかは教室に着くまで分からない。
後ろの机である筈の瑛樹の席に鞄がないことから察して彼はまだのようだ。
早く来んかなぁーと思いつつ、大あくびをした。
「璃音」
聞き覚えのある声が後ろからする。瑛樹のものではない。
その人物を確信しながら振り向いて、まだ眠たいままに笑顔を向けた。
「あー祐樹。それに蓮池と、甲山と、田崎やん」
元クラスメート達が何故かこの、1学年下の教室にいる。先輩という無言の威圧感がそこだけを鮮やかに浮き立たせていた。璃音の寝起きの無防備な笑顔に口元を押さえながらも、祐樹たちは、よぉ、と挨拶を返す。
まさか自分の笑顔が悩殺モノだということに璃音は気付いていない。
「どうしたん?」
「いや、後輩になった璃音がどうしてんのかなぁって気になって」
「ふぅん」
璃音はへらりと笑って相槌をうち、ブラウスのボタンを外していく。
「俺これから体育なんよ。やから着替えんと」
「っ……、璃音まだ眠そう」
蓮池が璃音の手元に釘付けになりながらそう呟いた。
周りの、何も知らない新入生は遠巻きに彼らを見るばかりだ。
璃音はまた1つあくびをして、なんか眠くて、と答えた。
「そんなんじゃ着替えらんないだろ」
甲山がボタンを外そうと悪戦苦闘している璃音の細い指に触れる。
あれ、甲山なんか優しくなったなぁ。
異様に変化していく空気に気付かないのは張本人の璃音だけで、新入生は初めての光景に固唾を呑んで見守る。
甲山は璃音の手を握り、顔を近付けて、璃音はどじだから、寝ぼけてたら怪我しそうだ、と言い訳をつけ、俺たちが着替えさせてやる、と璃音の手を下に下ろさせた。
「うーん、分かった」
頭の回らない璃音をいいことに、璃音のブラウスを脱がせていく甲山。
端から見たら妖しいこと極まりない光景だ。
また、田崎がごくりと喉を上下させるので、今からやらしいことでも始まるのではないかと、周囲に変な緊張が走った。
ブラウスが肌から剥がれ、さっと取り去られる。
白い絹肌を目の前にした祐樹たちの反応が一番誤解を招く要因だった。
「っ、璃音超綺麗な肌」
「……舐めたい」
ぽろりと零した言葉を慌てて咳払いで誤魔化した祐樹は、体操着のポロシャツを手に取って、璃音に被せた。
璃音の腕を取り、袖口に通してやろうと掴んだ。
片や田崎は下も着替えさせてやる為に、ベルトに手をかけた。
「ごめんやらせちゃって」
「いや……むしろ毎回やりたいくらい」
祐樹がにやりとしながら、璃音の頭を撫でた時だった。
「璃音ぉおォーーーっ!!!!!」
この声は、まさか。
璃音が振り向いたのと、誰かが璃音を抱き締めたのと、周りにいた祐樹や田崎が吹っ飛んだのと、全て同時だった。
ガタガタと机にぶつかる音で目が覚める。
「……瑛、樹?」
璃音は目をぱちくりさせて、友人を殴り飛ばして璃音を抱き締めた張本人を見た。
瑛樹はかなりの剣幕で祐樹たちを睨み付けながら、璃音には優しい声色で尋ねる。
「璃音、大丈夫かっ!?変なことされなかったかっ!?」
確かに瑛樹が見た光景は誤解を招くには充分すぎるものだ。新入生たちはクラスメートが先輩を殴ったことに固まっている。
皆石化したように、ピクリともしない。
「あー、瑛樹?あの、別に俺何もされてへんし」
「良かった、間に合った」
「そうやなくて、その、祐樹たちは友達なんやけど……」
「……は?」
次は瑛樹が石化する番だ。瑛樹がまじまじと殴った相手を見詰めると、祐樹たちが痛ぇ、と呟いて起き上がる。
祐樹と瑛樹の目が合う。
バチッ、と音がした気がした。
「お前が噂の、ナイトか」
「殴ってすいませんでした」
祐樹の見せる不穏な空気にも関わらず、瑛樹は棒読みに謝る。全く悪びれない様子だ。
「いきなり殴るんじゃねぇよ」
瑛樹をきつく睨み付ける田崎。それを必死で宥める甲山と蓮池。辺りは騒然としていた。
「だから、つい。すいません」
瑛樹はどこからどう見ても喧嘩を売っているようにしか見えない。璃音をぎゅっと抱き締めたまま、睨み返すものだから困る。
璃音はじたばたと瑛樹の腕の中で暴れ、この状況をどうにかしようと、打開策を練った。
な、なんかヤバそう。
「あ、あの祐樹?」
璃音が瑛樹に抱かれたまま祐樹に少し強張った笑顔を向ける。
「ん?なに、璃音」
異様な空気の中、璃音は続けた。
「ごめん、瑛樹勘違いしたみたいやで、許したって?な、友達やから、ね?」
「……、まぁ仕方ないか」
祐樹は小さなため息と共に顔の表情を緩めた。
「璃音がそこまで言うんならもう怒んないよ。お前、名前は?」
祐樹が満面の笑みでそう言って、璃音を見た後、表情は変えずに瑛樹の方を向いた。
「あ……名塚 瑛樹です」
「名塚くん、もう先輩は殴るなよ?今度殴ったら……。素敵なナイトだ」
祐樹は瑛樹の耳元で何か囁いた気がしたが、何を言ったのかは璃音には分からなかった。
一瞬ピリピリとした空気が流れたのが分かる。
「じゃあね、璃音」
祐樹は笑顔で教室を後にする。後からついて行く蓮池たちも璃音にだけ笑顔を向けて去って行った。
なんだか、一気にどっと疲れが押し寄せる。
「はぁー、……あ、あぁっ!時間ヤバいっ!あと5分しかないやんっ!瑛樹離してっ!」
璃音は瑛樹の中でばたばたと足掻き、やっと解放されたかと思うと急いで中途半端だった格好を、半袖短パンという姿に変えた。
早く瑛樹も着替えんと、と急かす。
瑛樹は慌てて頷いて、着替え始める。
途端に固まっていた空気が再びかき混ぜられたように、いつもの喧騒が戻る。
新入生たちにとっては、初めての学校でとんでもない事件として深く記憶に刻まれたのは、言うまでもない。
「はよ行こっ!あ、皆も早くせなっ!」
璃音はクラスに明るく声をかけたのだった。