身内話だし、物凄く暗いです。
享年96
時刻12時18分
今日、私の曾祖母が亡くなりました。
学校でお昼を食べている最中に担任の先生に呼ばれ、亡くなったことを知らされました。
正直、事態がよく分からなかったけど、心臓の動悸だけは激しかったような気がしました。
病院に着けば、泣いている親戚と祖母。
そして、目を瞑った私の曾祖母。
いつも大抵眠ってたけど、この前会ったときは、確かに目を開けたのに
視えてるか分からないけど、確かに目線があった気がしたのに
筋肉が固まって自由に開くことの出来ない掌には、生きてる証拠の熱があった
額に手をやれば、少し熱っぽいのを感じられた
息をしているのを感じられた
生きている証が、確かにそこにあったのに
今は、
何も、ない。
前に感じた温もりも、
呼吸する度に動く体の動きも、
たまに痰がつまるのか、噎せる音も
何も何も感じられない。
昨日は、体調良かったって、聞いたのに。
何回も危ないって言われても、何回も取り戻したのに。どうして急に、なの。
最期のときは、誰も間に合わなかったらしい。
ごめん、ごめんね。
私が保育園のとき、おばあちゃんは私に毎日ノートにあいうえおの書き方をしろといって、字を練習させてたね。
毎日大変だったけど、すごく上手いって誉めてくれたから、嬉しかった。
おかげでか、私の字はそれなりに上達して、小学6年のとき、書道コンクールの硬筆の部で金賞を取った。
あの時の喜びようは凄かったなぁ。
私もすっごく嬉しかったよ。
小学校のとき、いつも朝は外に出て見送ってくれた。
帰りだって迎えてくれて、あの時はいつも二人でアニメや相撲とか観てたよね。
いつもヨーグルトとかプリンとか買ってくれたし、リンゴの皮剥きとか教えてくれたこともあったね。
そういえば、おばあちゃんの作ったイチゴジャム、あれは本当に本当に美味しかった。
大量に苺が手に入ったときはいつも何時間もかけて煮込んで、美味しいジャムを作ってくれたよね。
私、あれが本当に大好きでね、いつも楽しみだったんだ。おばあちゃんは、結構高齢なわりに元気で、私の自慢だった。
ずっとずっと元気で居続けるんだろうなんて、考えてた。
中学生になってから、おばあちゃんは娘がいるいる所に、暫く預けることになった。
何回か電話をかけるとき、おばあちゃんは私の声を聞いて泣いてたよね。
おばあちゃんだって寂しいんだって思ったら、私だって少し泣いてしまった。
ようやく帰ってきたおばあちゃんは、やっぱり泣いていて、少し縮んだ気がした。
高校に入るとき、家を建て替えるのに、おばあちゃんはまた娘さんの所に行った。
そして帰ってきたおばあちゃんは更に縮んで、自分で動くことや起き上がることが、出来なくなってきていた。
最初は何をするにもすごく心配で、移動する時はいつも付き添ってた。
おばあちゃんの手を持って、しっかり支えて一緒に歩いた。
でも、そんな生活を続けるのは私には難しかった。
おばあちゃんは寝る前にトイレに行く。
何の不思議もないんだけど、それがとてつもなく遅い。
もう寝たいのに全然トイレから出て来ない。
しかも夜、皆が寝静まったときに、トイレに行きたいと皆を呼ぶ。
私を含むおばあちゃん以外の家族は全員2階で寝てたから、1階で生活しているおばあちゃんの声は聞こえない。
だからおばあちゃんは次の朝、悲しそうに怒りながら、何故来ないのと、私達を責める。
それが、ほぼ毎日続く。
私達は、だんだん疲れ始めていた。
いつも人が作業をしているときに呼ぶ声に、
しょうがないことなのにとてもゆっくりなその動作に、
苛ついていたんだ。
だから、呼ぶ声を聞こえないフリしたり、そっけない態度を取ったりもした。
相手は相当の高齢で、誰かの手を借りなきゃいけないのは分かっていたのに、無視をした。
助けを呼ぶ声を、手を、見ないふりしたんだ。
本当に最悪で最低で卑劣で性悪で愚かな行為だった。
そんな時、おばあちゃんが入院した。
その時のおばあちゃんはまだ自分でご飯も食べられた。
だから安心して、病院だってその内あまり行かなくなったりした。
でも、やっぱり体はどんどん衰えていくもので、次第に自分で物を食べられなくなり、栄養物を鼻から注入したり、
最近はすっかり動かず、目すらなかなか開けない状態だった。
そんなおばあちゃんを見て、私はやっと自分のしたことの罪を知った。
なんて酷いことをしたんだろう
私をあれだけ大切にしてくれた人に、なんて態度をとったんだろう!
そして今日、おばあちゃんは永遠にこの世から去りました。