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リアタイにはちょいちょい参上していましたが、此方では本当にお久しぶりです。

色々考えた結果、ここを閉鎖し、移転することに決めました。
移転先では更にフリーダムに私という人間を綴れたら…と思っております。
リンクを貼っておくので、移転先でも皆さんにお会い出来たら嬉しいです。


それでは、今までありがとうございました。


移転先:トリカゴダヨリ














二重螺旋ノスタルジー。



・お久し振りです。
春休み中の更新がとうとう二回だったということに自分自身驚きを禁じ得ない私です。笑

不精で申し訳ないとは思いつつも、日々の出来事、想いや考え…ここで綴りたいことと自分の気持ちにうまく折り合いがつかないことが、なかなか参上出来ない理由なのかもしれません。
正直なところ、あらゆる意味で気持ちを整理する場として、ここで綴ることが本当に自分にとって必要なことなのかどうかは、現時点では疑問が残っています。
しかし、だからと言って綴ると同時にここで築いてきた様々な繋がりを断ってしまうのは、何より私が寂しくて。

自分と向き合いながら、時間と相談しながらですので、今まで以上にマイペースな更新となりそうですが、それでも見守って下さる方がいらっしゃいましたら、今後ともよろしくお願い致します。


・さて今週から新学期が始まりました。
大学生活折り返し。就活が無い代わりに実習が山程ある看護学部三年生です。
初っぱなから課題、テストに追われる毎日…ですが私は私なりの恒常性を保ちつつ、日々をこなしていきたいと思います。
恒常性を保つ…普通のようで一番難しいことではありますが。

研究どうしよう。やりたいことと、指導して頂きたい先生とが一致しないというジレンマに苛まれ中。ううむ。












♪涙ディライト/サカナクション

サカナも相対性理論もユニゾンも、アルバム買えていない状況…は、早く聴きたい。涙


あの球体の裏側。



最近思ったことについて少々。

・写真について。
写真には大雑把に分類して二種類のものがあると思われる。
一つは何かのイベントに際して撮られる写真。山に行った。海に行った。どこかに出掛けた。いわゆる記念撮影というものである。これを仮に『思い出写真』と名付ける。
二つ目に、アートとしての写真。切り取る画に、何らかの撮影者の芸術的意図が込められる写真だ。これには個人的にとても興味があり、いつかやってみたいと思っている。

私は思い出写真があまりすきではない。先日某ネズミ王国に行った際も、風景写真一枚すら撮らなかった。
クラス写真等集合写真の類は、大嫌いである。

その理由は恐らく、小学生の時分に教科書で読んだ、最早タイトルさえ覚えていないある小説の一文に起因すると思われる。
その小説の内容はほとんど忘れてしまったが、遠足か何かでどこかに遠出した登場人物達の会話はよく覚えている。
『カメラを持って来ればよかったね』『写真を撮ると、忘れてもいいような気持ちになってしまうから』というのがあった。
この概念は当時の私には大変衝撃的であり、しかしそれ以上に説得力のある内容だった。以来必要以上にカメラを持ち歩くことも、カメラの前に立つこともなくなった。故に、小学校三年生以降の自分が写っている写真は、極端に少ない。

『写真は記憶をないがしろにする』…私はそう考えていた。今でもそう思っている節があるかもしれない。
記憶。頭の中、自分の脳に蓄えられた記憶こそが人生であり、生きた証。記憶信奉者の私は忘却を恐れていた。
しかし、残念ながら螺旋階段のような日々の中で記憶は少しずつ薄れ、細かい部分は思い出すことができなくなる。あんなに衝撃的だった小説の内容を覚えていないのが良い例だ。
私はそれに気付いてしまった。記憶とは決して絶対的なものではないのである。

人々が写真を撮りたがるのは、だから、なのだろう。写真を見て、薄れ行く記憶を繋ぎ止める、当時の空気を、天気や温度を、感じた全てを想い起こす。そうしてまた反復した記憶と、写真を見返した現在の記憶とを同時に蓄積していく。
その手段として、思い出写真は撮られるのではないか。

何故そんなことを思ったかと言いますと、極端にずぼらな私の母が、私達姉弟の幼少時の写真を今まで整理しておらず、帰省して暇を持て余している私に整理を命じ、自分でも覚えていない程幼い頃の写真を自ら整理する羽目になったためです。
自分が赤ん坊の頃の写真を自分でアルバムに貼ってるんですよ…聞いたことないでしょ?
でも、この作業をしていなかったら、写真の真意に気付けなかった。

…そしてここまで書いて気付いたのだけれど、最初に挙げた二者が不可分な場合も存在するのではないか?
すなわち、アートであり思い出でもある写真。
…きっと、どの写真も、そうなのだろう。
何故ならどちらもシャッターを押すのは、心が動いた瞬間のはずであり、記憶の片鱗であることに変わりはないのだから。



・音楽について。
よく論じられることではあるが、音楽は宗教化するべきではない、と思う。
音楽やアーティストが自分にとっての『何か』ではあっても、『全て』になってしまうのは危険なことだと思うのです。

同じ理由で、『No Music,No Life』という言葉が嫌いです。
音楽やってご飯食べてる人が言うならまだしも、私は別に音楽が無くても生活は出来ます。(しかしながら、本気で音楽やってる人はこういうことを軽々しく言わないと思う。)
ただ音楽があることで生活が楽しくなるというだけで、音楽は音楽以上でも以下でもないと思うわけです。
誇大化、神格化は自らの視野を狭くするだけでなく、自分の論理を正当化し、他者を平気で傷付けます。
本来自分にとっての音楽とは何だったのか、問い直すことが重要なのではないか、と思います。音楽は自由である、からこそ。












♪月曜日/無菌室 People In The Box


シュルレアリスムのその奥へ。



・ご無沙汰してます、がテンプレになってしまいました、私です。思いの外潜伏期間が長くなってしまい、すみません。
2月半ば(もう一ヶ月前なのか…!)試験が無事終了しまして、やっとこさ春休み突入。現在は実家でのんびりしております。
年が明けてからレポートだ課題だ試験だと何かと忙しく(善くも悪くも)、やっと一息つけたなあという感じ。
時間の許す限り、行きたいところに行き、したいことをしようと思います。


・3月3日から9日にかけてオーストリアのウィーンに旅行に行って来ました。観劇と観光が目的です。
ここで旅行記を綴ろうと思いましたが、私には『今日はどこそこに行って、何をしました』という文章は、とてもではありませんが書けそうもないということが判明しましたので、割愛させて頂きます。
ただ、得る物の多い旅であり、皆様に見て頂きたいなあと思う物も多々ありました。
なので、今後テーマを絞って紹介させていただければ、と考えています。取り敢えず第一目的のミュージカル『ダンス・オブ・ヴァンパイア』については語りたいと思いま、す…。(需要の有無はともかく。笑)
ご了承の上閲覧して頂けると幸いです。


・一生使う覚悟で(あくまで覚悟の話←)、iPodをnanoからclassicに替えました。黒です。イヤホンも黒なので真っ黒黒。そしてそんな見た目以上に重いその本体。←
容量が大きくなったので、これからはジャケットとかも躊躇わずに入れられそう。…使いこなすぞ。


・髪を切りました。今回はちょっぴり重めのショートボブに。あれです、髪型だけなら、ぱふゅーむののっちだ。笑
私は冬より春のストールを楽しみたい人なので、ぐるぐる巻いても邪魔にならないよう首周りをすっきりさせました。…まあ単純にミディアムに飽きたというのもありますが。
そして実に三年振りのノンパーマ。傷むと思いながらも楽なのでかけ続けていたパーマですが、一度リセットです。
中途半端なくせ毛も、短ければ意外となんとかなってくれました。笑


・Peopleシングル、アニメ話(主にソラヲト)、読書話(主に五條さんの革命小説シリーズ)…書きたいことは色々ありますが、またの機会に。












♪光の旋律/Kalafina

今日カラオケで『光の旋律』と『ブラック★ロックシューター』を三回ずつ歌ったのは、私です。


ホルマリン浸けの視界。



・ご無沙汰しております。
ここで綴りたいことは多々あれど、時間と気持ちにゆとりのない毎日を送っています故中々参上出来ず、読んで下さっている方々には申し訳ない限りです。
更新するからにはそれなりの内容のものを上げたいと思っておりますので、ご了承頂けると幸いです。
取り敢えず、私は生きてます。笑


・1月21日、志村會に行って参りました。
私は彼が亡くなったと知ったときよりも、21日に向けて心積もりをしていく中で、彼は本当は生きていて、中野サンプラザホールの舞台裏からひょっこり登場するのではないかという根拠のない考えが強くなっていたのです。
しかしホールに入り舞台上に置かれたたくさんの花々を見た瞬間、ああ彼は本当に逝ったのだと、こんなにも多くの方に愛されながら旅立ったのだと確かに実感しました。
折しも会場に流れていたのはだいすきな『銀河』で、この偶然に涙が溢れて仕方がありませんでした。
虹色をイメージしたお花を献花して、ありったけの感謝の気持ちを不敵に微笑む志村さんに伝えたつもりなのだけれど…届いているでしょうか。

ご一緒させて頂いたguriさんにはいくら感謝してもしたりない気がしています。
本当に初めてお会いしたとは思えないくらい彼女の存在は私にとって自然で、古くからの友人のようにさせて頂いた(厚かましいですね…)たくさんのお話はとても楽しくて興味深く、時間を忘れてしまう程でした。
是非またお会いしましょう!


・二年間音信不通だった高校時代の友人と再会しました。
誰にとってもそうであるように17歳という季節は私にとっても特別な意味を持っており、その17歳を共にした彼女についてはこの記事一つでは語り尽くせない程たくさんの想いやエピソードを抱えていて、彼女のことを『友人』と表現するのも『親友』と呼ぶのも何か違う気がしてしまうくらい、私にとっては大きな存在なのです。
当時から私はある意味彼女に依存していた面があり、その依存心を引き摺ったまま今日まで生きてきた様に思います。
しかし再会した彼女と私は既にお互い違う道を歩んでおり、高校時代の私達と変わらない部分・大きく異なる部分の両方を孕んでいました。
その変化を哀しく思わない、と言ったらそれは嘘になります。当時のあの張り詰めた透明な空気を、私達は現在進行形では共有出来ないのです。
それでも私には、彼女との関係を断ち切るという考えは浮かびませんでした。
『理由なんて、愛一つで十分だ』…というのは映画『プール』のキャッチですが、正しくそんな心境で。もうこれは、きっと愛着以外の何物でもないのだな、と思っています。
現に二年間音信不通だったのにこうしてまた再会出来たのは、互いの愛着の為せる技。再び私達にふさわしい関係を築いて行けばいいのだ、愛を以て。


・しかし私の精神・外見年齢は共に17歳で止まったままで、未だに高校時代から脱却出来ていない様に思います。どうしたものか。
先日友人と話していて、ふいに口をついて出た『下を向いてはいないけれど、井戸の底から空を見上げている』様な感覚は、恐らくそれに起因すると思われます。
大声で助けを呼ぶか、ひたすら助けを待つのか、自力で足場をつくるのか、はたまたそこに留まるのか。どうしたものか。
取り敢えず、目を閉じたくはない。


・何のために生きるのか。生きる意味を問うことは青年期において必至です。
私はそれらについて一通り考えた上で、こういう質問に対して大抵はうんざりし、『理由や意味がなければ生きられないのか。意味など後付けに過ぎないのではないか』と反発を感じていました。
しかし最近改めて死生観について考える機会があり、それを通して今私が前述の質問に答えるならば、こうでしょう。
『死ぬために生きている』。













♪ヨーロッパ/People In The Box

『天使の胃袋』…CD発売まで私は我慢しようと思います。うう、観たい聴きたい、けれど。


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