最近思ったことについて少々。
・写真について。
写真には大雑把に分類して二種類のものがあると思われる。
一つは何かのイベントに際して撮られる写真。山に行った。海に行った。どこかに出掛けた。いわゆる記念撮影というものである。これを仮に『思い出写真』と名付ける。
二つ目に、アートとしての写真。切り取る画に、何らかの撮影者の芸術的意図が込められる写真だ。これには個人的にとても興味があり、いつかやってみたいと思っている。
私は思い出写真があまりすきではない。先日某ネズミ王国に行った際も、風景写真一枚すら撮らなかった。
クラス写真等集合写真の類は、大嫌いである。
その理由は恐らく、小学生の時分に教科書で読んだ、最早タイトルさえ覚えていないある小説の一文に起因すると思われる。
その小説の内容はほとんど忘れてしまったが、遠足か何かでどこかに遠出した登場人物達の会話はよく覚えている。
『カメラを持って来ればよかったね』『写真を撮ると、忘れてもいいような気持ちになってしまうから』というのがあった。
この概念は当時の私には大変衝撃的であり、しかしそれ以上に説得力のある内容だった。以来必要以上にカメラを持ち歩くことも、カメラの前に立つこともなくなった。故に、小学校三年生以降の自分が写っている写真は、極端に少ない。
『写真は記憶をないがしろにする』…私はそう考えていた。今でもそう思っている節があるかもしれない。
記憶。頭の中、自分の脳に蓄えられた記憶こそが人生であり、生きた証。記憶信奉者の私は忘却を恐れていた。
しかし、残念ながら螺旋階段のような日々の中で記憶は少しずつ薄れ、細かい部分は思い出すことができなくなる。あんなに衝撃的だった小説の内容を覚えていないのが良い例だ。
私はそれに気付いてしまった。記憶とは決して絶対的なものではないのである。
人々が写真を撮りたがるのは、だから、なのだろう。写真を見て、薄れ行く記憶を繋ぎ止める、当時の空気を、天気や温度を、感じた全てを想い起こす。そうしてまた反復した記憶と、写真を見返した現在の記憶とを同時に蓄積していく。
その手段として、思い出写真は撮られるのではないか。
何故そんなことを思ったかと言いますと、極端にずぼらな私の母が、私達姉弟の幼少時の写真を今まで整理しておらず、帰省して暇を持て余している私に整理を命じ、自分でも覚えていない程幼い頃の写真を自ら整理する羽目になったためです。
自分が赤ん坊の頃の写真を自分でアルバムに貼ってるんですよ…聞いたことないでしょ?
でも、この作業をしていなかったら、写真の真意に気付けなかった。
…そしてここまで書いて気付いたのだけれど、最初に挙げた二者が不可分な場合も存在するのではないか?
すなわち、アートであり思い出でもある写真。
…きっと、どの写真も、そうなのだろう。
何故ならどちらもシャッターを押すのは、心が動いた瞬間のはずであり、記憶の片鱗であることに変わりはないのだから。
・音楽について。
よく論じられることではあるが、音楽は宗教化するべきではない、と思う。
音楽やアーティストが自分にとっての『何か』ではあっても、『全て』になってしまうのは危険なことだと思うのです。
同じ理由で、『No Music,No Life』という言葉が嫌いです。
音楽やってご飯食べてる人が言うならまだしも、私は別に音楽が無くても生活は出来ます。(しかしながら、本気で音楽やってる人はこういうことを軽々しく言わないと思う。)
ただ音楽があることで生活が楽しくなるというだけで、音楽は音楽以上でも以下でもないと思うわけです。
誇大化、神格化は自らの視野を狭くするだけでなく、自分の論理を正当化し、他者を平気で傷付けます。
本来自分にとっての音楽とは何だったのか、問い直すことが重要なのではないか、と思います。音楽は自由である、からこそ。
♪月曜日/無菌室 People In The Box