堕 楽

2012/07/19 11:03 :SH
さあもう一度恋をしよう(航海士賢女)

ハイパーご都合設定のイドル×テレーゼ




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ふ、とテレーゼは目を覚ます。
慣れた寝台の感触も、知った天井の模様も無い。ざわつく暗闇が、夜空だと気付くまでに暫くかかった。
身体を起こそうと手をつけば痩せた土の温度。立ち上がって、ドレスに付いた汚れを払い落とす。
そうして漸く、辺りをぐるりと見回した。
森だ。不気味なほどの静寂を、風だけが薙ぎ払っていく。
此処は――。しかし賢女がそれ以上のことを察するより早く、不意に背後から声がした。
「おや、お目醒めかい」
反射的に振り返る。その姿を捉えたテレーゼの瞳が、驚きに大きく見開かれた。
何時から其処にいたのだろう。長い金髪を靡かせ、ひとりの男が立っていた。
飄々とした仕草。薄い笑みを湛えた表情。
懐かしさを滲ませた声が、彼の名前を呼ぶ。
「イドルフリート……!」
思わず駆け寄る。記憶そのままの姿で、嘗て航海士を名乗った男が現れたのだ。無理もない。
二人が知り合ったのはそう遠い昔ではないが、最近とも言えなかった。テューリンゲンの森に何時からか顔を出すようになった不思議な青年を、孤独な母子は快く迎え入れた。
決して長い期間では無かったが、容易く忘れることも出来ない程度の時間を共にした。
そのささやかな幸せに、テレーゼが一定以上の愛しさを感じていたのも事実。
「イドと呼んでくれ給え、と言っただろう?」
とはいえそれも過去の話だ。現れた時と同じように何時からか、イドルフリートはいなくなってしまったから。
何かあったのだろうかと懸念こそしたものの、それ以上テレーゼに何が出来るわけでもなかった。自由な人だ、きっとまた海に帰ってしまったのだと思うことにしていた。
そんな男が今、再び目の前にいる。
「生きていたのね……」
ほっと我知らず、安堵の息が漏れた。
イドルフリートがちょっとやそっとで死ぬはずがない。半ば盲目にそう信じていたが、当たっていたようで嬉しくなる。少しは彼を、理解出来ていたのかと。
しかしそんなテレーゼを暫し見つめたあと、エメラルドの双眸は哀しげに伏せられた。
ゆるゆると、イドルフリートはかぶりを振る。
「残念ながらその答えは、Nein、だ」
一瞬。本当に僅かな間ではあったが、その言葉の意味が分からなかった。
生に対する否定。俄かには、考えられない。
テレーゼは試しに眼前の金髪に触れてみた。以前、頓着しないのを勿体なく感じて梳いてやった覚えがある。あの時と同じように、さらりと指に絡む細いそれ。
「どういう……、」
言いかけた唇を、イドルフリートの人差し指が塞いだ。
きゅ、と歪む翡翠色。愉しげで少し意地の悪いその笑顔は、これまで見たことが無かったもの。
けれどそれに見蕩れる暇は、与えられなかった。

「そう言う君はどうなんだい、テレーゼ」

すっと視界が真っ暗になるような、感覚。
どうして忘れていたのだらう。先刻この森で目覚めるよりも前。
蘇るのは紅蓮の炎とその温度。
文字通り身を焦がす熱。自分の肉体が焼けていく臭い。
嗚呼、そうだ、私は。
「世界を呪う、本物の、魔女に」
思い出したかな、とイドルフリートはまた笑った。
宵闇の森に屍体がふたつ。此処は恨み唄の紡ぐ黒い頁。
ざわり、また木々が啼く。テレーゼの耳元で、【イド】が囁いた。

「その憎しみを、私に預けてはくれないか?」

細いながらも力強い腕が、ぐいと黒いドレスの腰を抱き寄せる。
生を弔い死を招くいろ。凄惨な病のいろ。
もしも叶うならこの願いを描こう。
この世界に――復讐を、しよう。
「そんなこと、出来るの……?」
「あぁ、私と君ならね。最高の喜劇を描けるさ」
憾みの紅い焔が、前奏曲を彩る。それ以上何も言わずに、テレーゼはイドルフリートを抱き締め返した。
こんなに、こんなに近いのに。鼓動の音が、共鳴しない。
魔女の嘆きは策者によって唄へと変わり、やがては童話を象って事実を定義する虚構となる。
頁の先は未だ誰も知らない七の地平。
まるで悪魔がそうするように、イドルフリートはテレーゼに口づけた。
今度こそ、幸福になろうか、と。





さあもう一度恋をしよう
(お伽話は姫と王子が望む通りに進むのだから!)





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