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功利主義について考える。

なんともまぁとても久しぶりに、長文で議論したくなることが見つかったので戻ってまいりました。

功利主義というのは、人の幸せを数値化して比較することで望ましい解をだそうという考え方。
つまりは、幸福を比較する「通貨」が存在して、それが増加する方向に動けということ。

Wikiでは

功利主義(こうりしゅぎ、: Utilitarianism)は、行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用(功利、有用性)(:utility)によって決定されるとする考え方である。帰結主義の1つ。実利主義(じつりしゅぎ)とも呼ばれる。また、「功利主義」という日本語の語感がもたらす誤解を避けるため、「公益主義」あるいは「大福主義」[1]という呼び方が提案されている。

また、それを提唱したベンサムについては

ベンサムは法や社会の改革を多く提案しただけでなく、改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。「快楽や幸福をもたらす行為が善である」というベンサムの哲学は功利主義と呼ばれる。ベンサムの基本的な考え方は、『正しい行い』とは、「効用」を最大化するあらゆるものだと言うもの。ベンサムは、正しい行為や政策とは「最大多数個人の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)をもたらすものであると論じた。「最大多数個人の最大幸福」とは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という意味である。しかし彼は後に、「最大多数」という要件を落として「最大幸福原理」(the greatest happiness principle)と彼が呼ぶものを採用した。ベンサムはまた、幸福計算と呼ばれる手続きを提案した。これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪の程度を決定するものである。


と表現されてる。

僕はこの考え方がすごく好きなんだ。
なんたって、数値で比較できるんだからね!

僕自身いろいろな問題は「その問題に対するアクションによって”何か”がどれだけ変動するか」というのに書きかえられると思っている。
例えば瓦礫処理の問題なんかは
「瓦礫を広域で処理することの”何か”は被災地復興などで増加し、放射線の害によってどれくらいか減少する。合計する”何か”はプラスになるか、マイナスになるか」という問題に見えるのだ。
そして、その”何か”ってのはベンサム曰く”効用”と呼ばれる快楽になるらしい。

さて、いろいろ問題点はある

問題点@命の価値
効用という概念はめんどいので、社会問題について考えるのだったらお金に換算して考えましょうって時に出てくる問題。
誰かの命を救うより、見殺しにしておいた方が社会的には利益がありますよーって場合に、果たして見殺しにするのが正しいのか?という問題になるかな。
もちろん道徳的に考えてそんなことはないのだけど、お金を軸に効用を測ること(費用便益分析って言うの?)を実行するとすぐにこういう問題にぶち当たる。

問題点Aいじめ
いじめなんかの多数派が少数派をいびるような場合だと、幸福計算が道徳的直観と矛盾する。
いじめっ子はいじめることで幸福を得られて、いじめられっ子は不幸になる。
だけどもいじめっ子の方が圧倒的な数が多いので、合計すると全体の幸福をプラスになる。
ってことはいじめてもいいの?という話になる。道徳的はNOだよね。
つまり、少数派の人権ってのを軽視しがちになってしまう。

問題点B他人との効用の違い
人が思う「何が幸せか」なんていうのは一人ひとり違ってるわけだよね。
通貨として使用するわけだから、これを均一にしなきゃいけないのが功利主義。
当然いろいろ不都合が生じてくるわけだ。

問題点C質のいい効用悪い効用
これはのちにミルって人がいってることなんだけど、効用には質の高いの悪いのがあるらしい。
例をあげてみると「熊と犬を殺し合わせるショー」なんていうのは、人間は誰も不幸せになってない。
むしろそれを見て興奮して楽しいわけだからこれな絶対的にプラスの効用になると思われる。
だけどこれによって得られる効用は「質の悪い効用」であって、得るべきものじゃないってのがミルのいうこと。

ざっと思いつくのでこんなものかな。












死刑制度について

僕は以下の条件が成り立つ時、死刑(社会へ二度と出さない刑罰)を認めます。
条件(1)犯人が確信犯である(冤罪の可能性が極めて低い)
(2)更生が不可能である
※更生が不可能と言うのは事実上不可能であることを意味する。
理由:再び重罪を犯しかねない人を社会に出した場合、その人がもたらす社会への害が許容範囲を大きく超えるため。

注意(1)例え重罪の理由に犯人の人格形成時の問題があったとしても、「その問題を取り除くことで更生できる」ということが証明     されない限り、死刑に処すべきと考えます。
(2)社会に出ることがなければ死刑でも終身刑でもかまわない。

トゥギャでまとめて疲れてしまったので、ブログではここまで。

http://togetter.com/li/262253

勝敗

久しぶりに、ブログを書こうと思い立った。
ずっと忙しくて、忙しい間に書きたいことがたくさんあったのだけど、
暇になると途端になんだかその気が失せてしまって、書かなかったけど今日は書こう。

今日は「選択されること」の「勝敗」について考えてみようと思う。
この話をしようと思ったきっかけは「世界共通の言語:エスペラント語」
(Wiki)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88
この言語は全ての人が国際補助語としての意味を持てるだろうと作られたもの。
文法が簡単で、確かに国際語として英語を勉強するより楽そうな気はする。
みんなが英語なんて勉強するのをやめて、エスペラント語を勉強すれば今までよりずっと効率がいい。

だけどこの言語は客観的に見て「負けている」。
なんたって僕だって、エスペラント語勉強するより英語勉強しようかなって気になるから。


流行りの服や、つぶれない店、現存する種、は全て選択されることにおいての勝者であると言える。
逆に、流行らなかったもの、おもしろいけどダメだった娯楽なんかは選択されることにおいては敗者だった。
そしてこのエスペラント語も、負けてるよね。

こういう選択で勝つためにはどうしたらいいか考えると、便利とか合理的とか、
とにかく素材がいいだけじゃダメだということがわかる。
もしそうだとしたら、エスペラント語はもっとはやるべき。

選択されることで勝つためには「負けた相手を消す」というのが条件だと思う。
もっというと「勝つ」とは「負けた相手を消す」ということだと思う。
例えば流行りの服は流行らなかった服を市場から消してしまう、なぜなら売れないのに売ってると損だから。
現存する種は、今まで自分たちとにかよりながら少し違うような種を絶滅させてきたから残っているだけ。
というか、進化というのは正しい道を選んで進んだというよりは、間違った道に進んだものはすべて死んだというだけだし。
つまり、「自分と異なった選択をするもの消しちまうからな!」という強迫めいたものが勝者には必要なのだ。

エスペラント語はその点が皆無だった。
効率よくて、勉強しやすくて、すべて合理的だったけれど、
「英語を選択する」という選択を消滅させる―その選択をする人に損させるような―ことは考えてなかった。
それが目的でなかったというのもあるだろうけど、それがこの言語の流行らなかった理由だろう。


もし選択されたい事柄があるなら、それが「それ以外の選択肢を消滅させれるか」
そこから発展させれば「それ以外の選択をしたものを懲らしめられるか」が重要になるんじゃないかな。







道徳を「理解」する

「ある女性が特殊な癌を患い死に瀕していた。彼女を救えると考えられる薬があったのだが、その値段はあまりにも高い。
その薬を作ることにお金がかかるとはいえ、開発した薬剤師が製造費用の約10倍の値段をつけていたのだ。 
女性の夫は薬を買うために奔走したが、集まったのは薬代のの半分だけだった。
彼は薬剤師に妻が死にかけていることを話し、もっと安く売ってくれ、あるいは後払いにしてほしいと頼んだ。
しかし薬剤師は首を横に振った。これで金もうけをしようと思っているのだからできないというのだ。
そのため彼は自分の妻のために薬を盗もうと薬剤師の店に押し入った。彼はそうすべきであったのか?」 



「そうすべきであった。」

これが模範解答である。
その理由はこうだ。
「いかなる価値のあるものも【人命】には及ばぬ。【人命】は無条件に何よりも優先されるべきことである。」
道徳の授業で道徳の先生が言ったのだから、僕はこれをひとまず信用することとしよう。 

さて、ここで今道徳は「【人命】は無条件に優遇されるべき」と主張しているのだ。
先ほどの文章ではあたかも【人命】と【法規】が比較されているようだ。
ならば主張通り【人命】をとった彼の行為は正しいだろう。

【人命】と【法規】ならばそうかもしれないが、【人命】と【人命】ではどうするのだろう?
道徳の守ろうとしている「命」とはなんなのだろう?

そこで以下では二者択一で「道徳的に」選ぶのはどちらがいいかを考えようと思う。

両者の中で助けられるのが一方のみである場合を考える。

(1)100歳の老婆50人と10歳の子ども25人
(2)35歳の子どものいない女性と40歳で子どものいる女性
(3)35歳の妻子持ちサラリーマンと25歳のニート
(4)外国人の青年と日本人の青年
(5)赤の他人5人と家族のうち1人

<タイプ1>
命の重要度が「個数」によって決まる場合。
答えは
(1)老婆
(2)なし
(3)なし
(4)なし
(5)赤の他人
となる。

<タイプ2>
命の重要度が「残りの生存時間の総和」によって決まる。
ここで「生存時間の総和」とは平均寿命からその人の年齢を引いたものの和。
(1)では平均寿命80とすれば「-20×50」と「70×25」となり子どもを優先することが自明となる。
すると答えは、
(1)子ども
(2)35歳女性
(3)25歳ニート
(4)なし
(5)なし

<タイプ3>
未来に生まれ来るであろう子どもの可能性や既存の子どもの成長を考慮に入れる。
(1)子ども
(2)40歳女性
(3)30歳サラリーマン
(4)なし
(5)なし

これが今のところ考えられる道徳の厳密な判断基準である。
タイプ1より、タイプ2、タイプ2よりタイプ3のほうが共感できないだろうか?
少なくとも僕自身はタイプ1→3までは「進化を遂げた」という感覚を持っている。
僕がこんな感覚を持ち合わせている理由を考えると、それは
<タイプ3>が「命を最大限に活用できるようになっている」からだ。
何に活用するのだろうか?それは本人たちが決めることかもしれないが、
一番称賛される――つまり道徳的に最も優れた――答えは「命を作る、守るために活用すること」だろう。
なぜなら道徳は「人命が何よりも優先される」のだから。

さて、上記5つの質問で道徳的に答えられなかったものが1つある。
(4)だ。
残りの生存時間や子どもをどうするのかといった判断基準がほとんどない。
こういうのは上記の「命を大切に」というだけの道徳では判断ができないのだ。
さらに言うなら<タイプ3>で判断できなかった(5)も議論の余地がありそうだ。

(4)と(5)…あなたならどちらを選ぶだろうか?
道徳は答えを出してくれなかったが…


(4)で日本人
(5)で家族
と答えてしまったのなら、それは一体何故なんだろうか?
道徳は何故、それらを助けることを「公に」認めてくれないのだろうか?

それはまだ道徳が未発達であることを証明しつつある。
もし「平等」に道徳が進化を遂げれば<タイプ1>が最も優れている。
人の性質に関わりなく判断を下すのだから…
もし「感情」に道徳が進化を遂げる…つまり利己的であることをある程度許すのであれば
<タイプ3>…または利己的な(4)(5)の解答を認めるだろう。

今の道徳はどちらでもない。
どっちがいいのか多分、意見が割れるだろう。

僕は後者の方がわかりやすいし、現実的だと思うが、どうだろうか?

「∽」を楽しむ

前に「遺伝子と固体と細胞」∽「文化と国家と国民」を話した。
ここで少しこの「∽」で遊んでみようと思う。
両者をいろいろと比較して楽しもう。

<遺伝子陰謀論>
遺伝子の代わりに文化がなりうると言ったが、では遺伝子は固体や細胞をどのように動かすのか。
前述したように遺伝子は「遺伝子の欠片を残す」という大原理のもと細胞ひいては固体を生成する。
ここで決して間違えてはいけないことは、
この集団は「各々の生存」つまり「細胞同士が生き残るため」に作られたものではない!ということである。
「一人ひとりだと危ないから、僕たち一緒になってようね。がんばろうね。」
ということではないのだ。
これは集団を考える上で犯しやすい間違いである。
固体は細胞というそれぞれの「命」を守るために作られた「契約社会」ではない。

さて、これを「文化」に置き換えると「文化の欠片を残す」 という社会的大原理のもと国民ひいては国家生成する、となる。
僕たちは文化を守るために文化に教育され、文化を守るために国家という集団を作っているにすぎないのだ。
先ほど僕が否定した「各々の共存が目的ではない」というのも「文化と国民、国家」に置き換えて言うと

「国家とは国民一人一人が安全安心に暮らしていけるためのものではなく、文化を守るために存在しているのだ。」

となる。
「文化」は確かに僕たち国民の「価値観」の想像主であるだろう。
これは親から子に社会から国民に、あるいは書物や別の媒体を通して僕たちに時代を超えて組み込まれていくものだ。
文化は長い時代の中多少の変容はあれど、祖先から僕たちに受け継がれ、僕たちから子孫へ受け継がれる。

だが違和感を感じることだろう。国家の存在理由が「国民」ではなく「文化」であることに。
それは僕たちが「国民主権」や「民主主義」と言われる世界に息づいているかもしれない。
そこで、このイメージがわかりやすいように実際に固体内で起こることを例に考えてみよう。

<細胞の総入れ替え>
遺伝子は細胞一つ一つになんか興味はない。
同じ遺伝子を持った細胞、つまり、同じ価値観、同じ労働、同じ分裂をくりかえす細胞であれば、
それがどんな色形だろうと全く関係ない。(実際には同一の遺伝子で色形が違うなんてことはあり得ないが…)
そして、それは国家にも関係ないのだ。
細胞が全部突然緑色になってしまったとしても、細胞がいつも通りであるかぎりは個体もいつも通りである。
これが文化にも言えるかどうか考えよう。
<国民の総入れ替え>
では例えば日本の国民を全部消して、黒人や白人やあるいは宇宙人とか日本人とは全く別の人々が日本にいると想像してほしい。
その人たちは日本語をしゃべるし、日本式礼儀を持ちあわせているし、日本の文化の隅々まで修得している。
ある一部の人は漫画やアニメが大好きになって、あなたの友人の黒人のボブは「萌え萌え!」としきりに叫び、またあなたの恋人である白人のキャサリンを含むある一部の人々は「韓流!韓流!」と叫んでいる。
その人たちはまるで今の日本のような国家を運営するが、今の日本のように政治にはケチしかつけなかったりして、そして今の日本のように総理大臣が(ジミー→リー→ドペイと)すぐ代わりに代わってまた嘆く。
それを見ている人が分析をし、国民はそうだそうだとうなずくような…。
見た目が全く変わってしまってはいるが、今の日本と営みの変わらないそんな見知らぬ国。
僕たちはこれを果たして「日本」と呼べるだろうか?
…僕はこんなもとの日本国民のいなくなった日本を、それでも日本と思うことができてしまった。
もしそう呼んでもいいような気がしたのなら、これはおもしろいことだろう。
元の国民がいなくなったのに国家が成立しているということ、
つまり国家が守っていたのは国民ではなくその文化であったと、僕は感覚的に思ったことになる。

「いや、そんな日本人の国じゃない国はやっぱ日本じゃないよ!」
と思うこともあるだろう。
僕自身これは直感的に「思った」だけであって、どのような国を「日本」と定義するかを僕が決めることはできない。
それに、こんな現実に起こりそうもないことでは意味がないかもしれない。
次はもっと分かりやすいありそうな「総入れ替え」を考えてみよう。

<世代交代による総入れ>
固体の細胞は長い年月をかけて入れ替えられる。
細胞は分裂し、死滅する過程を繰り返して固体の形を守りながら自分たちは入れ替わる。
これと同様のことはもちろん国家においてもある。
国家は国民の寿命と関係なしに生き続けようとするのである。 
さて、これは先ほど言った「国民の総入れ替え」と実は何ら変わりないのだ。
「いやいや…さっきのは全く違う外国人が日本人を演じていたのであって、今の話題はきちんと僕たちの子孫の話だろう?全然話が違うじゃないか!」
と、なりそうだが、なんなら先ほどの「総入れ替え」のあの名も知らぬ国民たちはみな僕たちの子孫だったということにしてしまおう。
(この説明が投げやりなのは最後で説明するが、今はこの仮定で話を進める。)
するとどうだろう?今の日本の住民は誰一人生きていないというのにやはり国家はあるのだ。
まるで僕たちの体の細胞が生まれたときとはほとんど変わってしまっているのと同じように。

<文化が変わるとどうなるか?>
今までは「文化が変わらなければ国家はかわらない」という意見を紹介するものだった。
では文化が変わると国家は変わってしまうのだろうか…?
実はこれを考えるのには大きな障害があるのだ。
まずは、遺伝子が変わったらどうなるかということについて考てみよう。
僕と僕の家族とでは遺伝子が微妙に異なっているのだが、それを「遺伝子の変容」ととらえるか、
遺伝子の「欠片の組み合わせが変わった」ととらえるのかはイメージによるかもしれない。
生物学的に言えば後者の方であるが、このイメージのつかみにくさが文化の話をややこしくする。
さて、僕たちが文化が「変わった」と思うのははたして文化自体が「変容」したのだろうか、それとも小さい文化の「欠片の組み合わせが変わった」のだろうか。
残念ながら「文化」は遺伝子のような物体ではないし、実態がないものだ。
手につかめないものなのでどれが「文化の欠片」であるのかは、現時点では分かりそうもない。
よって「文化が変わると国家がどうなるか?」と「遺伝子がかわると固体がどうなるのか」の厳密な比較はできない。

<国家は生殖する?>
ここで、遺伝子のように文化も「欠片の組み合わせが変わった」ことで文化が変わったように見えるとする。
(実は最初に国家の目的として「文化の欠片を残すことだ。」と断言してしまっていた。)
すると僕たちが「文化が変わった」と思うとき、それはどこからかの文化と「欠片のやりとり」が行われているのである。
それは単なる「欠片のやり取り」であって男性女性は関係ない、ただ無性生殖のようなコピーではない。
そこまで人体と国家を類似させてしまうと国家に性別ができてしまい擬人化になってしまう。
そういうのはヘタリアでやってくれたほうがいい。遺伝子とか抜きで。
さて、でもお互いの目的のため「欠片をシャッフルする」ということでは、国家と人体は似ている。
そう考えると「文化が変わる」とは人間で言う「子どもが生まれる」である。
別の文化圏と文化の優れたところを入れ替えて、生まれてきたよりすぐれた子どもに自分の文化がやどっている。



僕はこんなことを考えて「∽」をひとしきり楽しんだ。

最後に後回しにしたところが一つあったのでそこについて言及したい。
<総入れ替え>で言った「あれは僕たちの子孫だったということにしてしまおう」という言葉だ。
そもそもどうして国を担うのが僕たちの子孫でなければいけないような気がしたのだろうか?
僕が先ほど言った単なる「固体∽国家」の考え方では、この現象は説明できないのだ。
これは実は僕たちがやっぱり「遺伝子に作用される固体」であるという本質を抜けきれないことが原因である。
結局人間は「遺伝子の欠片を残すため」に生きているのであって、だから僕たちの子孫が生きていないなど認められないのだ。
この辺のめんどくさい論理を避けるために、あの段階で無理やり「子孫である」と言ってしまった。
「∽」についてだけの証明であるなら「子孫」など関係ないのに、人を納得させるために使ってしまったのだ。
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