前に「遺伝子と固体と細胞」∽「文化と国家と国民」を話した。
ここで少しこの「∽」で遊んでみようと思う。
両者をいろいろと比較して楽しもう。
<遺伝子陰謀論>
遺伝子の代わりに文化がなりうると言ったが、では遺伝子は固体や細胞をどのように動かすのか。
前述したように遺伝子は「遺伝子の欠片を残す」という大原理のもと細胞ひいては固体を生成する。
ここで決して間違えてはいけないことは、
この集団は「各々の生存」つまり「細胞同士が生き残るため」に作られたものではない!ということである。
「一人ひとりだと危ないから、僕たち一緒になってようね。がんばろうね。」
ということではないのだ。
これは集団を考える上で犯しやすい間違いである。
固体は細胞というそれぞれの「命」を守るために作られた「契約社会」ではない。
さて、これを「文化」に置き換えると「文化の欠片を残す」 という社会的大原理のもと国民ひいては国家生成する、となる。
僕たちは文化を守るために文化に教育され、文化を守るために国家という集団を作っているにすぎないのだ。
先ほど僕が否定した「各々の共存が目的ではない」というのも「文化と国民、国家」に置き換えて言うと
「国家とは国民一人一人が安全安心に暮らしていけるためのものではなく、文化を守るために存在しているのだ。」
となる。
「文化」は確かに僕たち国民の「価値観」の想像主であるだろう。
これは親から子に社会から国民に、あるいは書物や別の媒体を通して僕たちに時代を超えて組み込まれていくものだ。
文化は長い時代の中多少の変容はあれど、祖先から僕たちに受け継がれ、僕たちから子孫へ受け継がれる。
だが違和感を感じることだろう。国家の存在理由が「国民」ではなく「文化」であることに。
それは僕たちが「国民主権」や「民主主義」と言われる世界に息づいているかもしれない。
そこで、このイメージがわかりやすいように実際に固体内で起こることを例に考えてみよう。
<細胞の総入れ替え>
遺伝子は細胞一つ一つになんか興味はない。
同じ遺伝子を持った細胞、つまり、同じ価値観、同じ労働、同じ分裂をくりかえす細胞であれば、
それがどんな色形だろうと全く関係ない。(実際には同一の遺伝子で色形が違うなんてことはあり得ないが…)
そして、それは国家にも関係ないのだ。
細胞が全部突然緑色になってしまったとしても、細胞がいつも通りであるかぎりは個体もいつも通りである。
これが文化にも言えるかどうか考えよう。
<国民の総入れ替え>
では例えば日本の国民を全部消して、黒人や白人やあるいは宇宙人とか日本人とは全く別の人々が日本にいると想像してほしい。
その人たちは日本語をしゃべるし、日本式礼儀を持ちあわせているし、日本の文化の隅々まで修得している。
ある一部の人は漫画やアニメが大好きになって、あなたの友人の黒人のボブは「萌え萌え!」としきりに叫び、またあなたの恋人である白人のキャサリンを含むある一部の人々は「韓流!韓流!」と叫んでいる。
その人たちはまるで今の日本のような国家を運営するが、今の日本のように政治にはケチしかつけなかったりして、そして今の日本のように総理大臣が(ジミー→リー→ドペイと)すぐ代わりに代わってまた嘆く。
それを見ている人が分析をし、国民はそうだそうだとうなずくような…。
見た目が全く変わってしまってはいるが、今の日本と営みの変わらないそんな見知らぬ国。
僕たちはこれを果たして「日本」と呼べるだろうか?
…僕はこんなもとの日本国民のいなくなった日本を、それでも日本と思うことができてしまった。
もしそう呼んでもいいような気がしたのなら、これはおもしろいことだろう。
元の国民がいなくなったのに国家が成立しているということ、
つまり国家が守っていたのは国民ではなくその文化であったと、僕は感覚的に思ったことになる。
「いや、そんな日本人の国じゃない国はやっぱ日本じゃないよ!」
と思うこともあるだろう。
僕自身これは直感的に「思った」だけであって、どのような国を「日本」と定義するかを僕が決めることはできない。
それに、こんな現実に起こりそうもないことでは意味がないかもしれない。
次はもっと分かりやすいありそうな「総入れ替え」を考えてみよう。
<世代交代による総入れ>
固体の細胞は長い年月をかけて入れ替えられる。
細胞は分裂し、死滅する過程を繰り返して固体の形を守りながら自分たちは入れ替わる。
これと同様のことはもちろん国家においてもある。
国家は国民の寿命と関係なしに生き続けようとするのである。
さて、これは先ほど言った「国民の総入れ替え」と実は何ら変わりないのだ。
「いやいや…さっきのは全く違う外国人が日本人を演じていたのであって、今の話題はきちんと僕たちの子孫の話だろう?全然話が違うじゃないか!」
と、なりそうだが、なんなら先ほどの「総入れ替え」のあの名も知らぬ国民たちはみな僕たちの子孫だったということにしてしまおう。
(この説明が投げやりなのは最後で説明するが、今はこの仮定で話を進める。)
するとどうだろう?今の日本の住民は誰一人生きていないというのにやはり国家はあるのだ。
まるで僕たちの体の細胞が生まれたときとはほとんど変わってしまっているのと同じように。
<文化が変わるとどうなるか?>
今までは「文化が変わらなければ国家はかわらない」という意見を紹介するものだった。
では文化が変わると国家は変わってしまうのだろうか…?
実はこれを考えるのには大きな障害があるのだ。
まずは、遺伝子が変わったらどうなるかということについて考てみよう。
僕と僕の家族とでは遺伝子が微妙に異なっているのだが、それを「遺伝子の変容」ととらえるか、
遺伝子の「欠片の組み合わせが変わった」ととらえるのかはイメージによるかもしれない。 生物学的に言えば後者の方であるが、このイメージのつかみにくさが文化の話をややこしくする。
さて、僕たちが文化が「変わった」と思うのははたして文化自体が「変容」したのだろうか、それとも小さい文化の「欠片の組み合わせが変わった」のだろうか。
残念ながら「文化」は遺伝子のような物体ではないし、実態がないものだ。
手につかめないものなのでどれが「文化の欠片」であるのかは、現時点では分かりそうもない。
よって「文化が変わると国家がどうなるか?」と「遺伝子がかわると固体がどうなるのか」の厳密な比較はできない。
<国家は生殖する?>
ここで、遺伝子のように文化も「欠片の組み合わせが変わった」ことで文化が変わったように見えるとする。
(実は最初に国家の目的として「文化の欠片を残すことだ。」と断言してしまっていた。)
すると僕たちが「文化が変わった」と思うとき、それはどこからかの文化と「欠片のやりとり」が行われているのである。
それは単なる「欠片のやり取り」であって男性女性は関係ない、ただ無性生殖のようなコピーではない。
そこまで人体と国家を類似させてしまうと国家に性別ができてしまい擬人化になってしまう。
そういうのはヘタリアでやってくれたほうがいい。遺伝子とか抜きで。
さて、でもお互いの目的のため「欠片をシャッフルする」ということでは、国家と人体は似ている。
そう考えると「文化が変わる」とは人間で言う「子どもが生まれる」である。
別の文化圏と文化の優れたところを入れ替えて、生まれてきたよりすぐれた子どもに自分の文化がやどっている。
僕はこんなことを考えて「∽」をひとしきり楽しんだ。
最後に後回しにしたところが一つあったのでそこについて言及したい。
<総入れ替え>で言った「あれは僕たちの子孫だったということにしてしまおう」という言葉だ。
そもそもどうして国を担うのが僕たちの子孫でなければいけないような気がしたのだろうか?
僕が先ほど言った単なる「固体∽国家」の考え方では、この現象は説明できないのだ。
これは実は僕たちがやっぱり「遺伝子に作用される固体」であるという本質を抜けきれないことが原因である。
結局人間は「遺伝子の欠片を残すため」に生きているのであって、だから僕たちの子孫が生きていないなど認められないのだ。
この辺のめんどくさい論理を避けるために、あの段階で無理やり「子孫である」と言ってしまった。
「∽」についてだけの証明であるなら「子孫」など関係ないのに、人を納得させるために使ってしまったのだ。