今でこそ
ボークスのドルパや
アゾン・インターナショナルのピュア…も
マネキンから派生した愛玩Dollを祖に持つ。
マネキンが世界に初めて登場したのは…
19世紀のパリ万博である。
そう、ニューヤ-クやロンドンでもなく、ミラノや東京でもなかったのだ。
大正の初めには日本に渡るが、今のマネキンには程遠く、京都の島津製作所という工房の標本部での蝋製マネキンの修理にとどむ。
当時はパラフィンや蜜蝋で出来た蝋人形だったからだ。
また、当時は粗悪な輸送事情にて船が嵐に遭えば、破損する事もしばしばだったという。
一九二五年に彫刻家島津良蔵が京都に日本初のマネキン会社『島津マネキン』を設立。彼は島津製作所二代目社長の惣領(嫡男)だった。
日本初のマネキンは木(もく)の心材に漆喰を盛りつけて、和紙の濡れ紙を表面に貼って乾燥させたモノを胡粉で磨き、地吹きして岩えのぐで彩色する。
所謂ひな祭りなどの和人形の製法の応用だった。
紙や木材ゆえに焼却にて廃棄が簡単だ。
一九三四年には、マネキン専門工場を立ち上げ、西欧のファイバー製をヒントに流れ作業による量産化に着手。
現在のプラスチック製マネキンの基礎を確立する。
だが、太平洋戦争の激化により、一九四三年に軍部の命令で「敵性造形物」と見なされ製造中止。
戦後、島津マネキンの再建はならず、戦地から復員した島津のスタッフが荻島安二や村井次郎、向井良吉ら作家を集め、『七彩工芸』『吉忠マネキン』『大和マネキン』の三社が誕生。
一九五七年には七彩にて島津良蔵、向井良吉の両氏により、現在のようなFRP製品が日本で最初に実用化されたのだ。
Dollは当時のモードや流行の最先端が試され、七彩工芸を語る上でマネキンやDollの発展に寄与したのは、
一九五九年に日本に招聘されたアール・ヌーボーのフランス人作家ジャン・ピエール・ダルナだろう。彼は日本でもバブル期に持て囃されたボディ・コンシャスの先駆けになったスタイルをいち早くDollに取り入れた。
現在、ドルパが京都で開催されるのも不思議な縁(えにし)である!
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