出遅れましたが六十の日ネタ。
瞬間、何が起こったのか分からず、筧は目を白黒させた。そのすぐ前には海野の青白い顔があって、両手はそれぞれ耳の横で海野のそれによって床に縫い留められている。今の今まで横並びに座していたというのに、どうしてこのような状況になっているのか―――天地がひっくり返ったのだ、と思った。
「……ハ、貴方らしくもない」
何か言わなければと無理矢理紡いだ声は醜く掠れる。その掠れに対してか、或いは筧の言葉自身に対してか、ともかくも海野は愉快そうにくつりと笑みを零した。歪んだ口元は、平生の彼とはまるで違う人間のもののように見える。
「私らしいと言うのは?」
「いや……こういうことは、お嫌いかと」
「そのようなことを言った覚えはないな」
「しかし、いつも拒絶しやすでしょう―――」
どれほど言葉を尽くして口説こうと見向きもしなかった男が今更、突然何を思ったのか自ら歩み寄って(というよりは駆け寄って、とばかりの勢いで)接近してきたのである。「らしく」ないだろう。
「確かに、組み敷かれるのは御免被りたいものだ」
「逆ならば良いということで?」
「さてな……」
言葉を濁した海野の細面からは笑みが絶えない。筧は何やら背に薄ら寒いものを感じた―――それは恐らく、背が床に付いているからでは、ない。
「そこからの景色はどうだ」
海野の声音は一々挑発的である。
「そうですねィ―――貴方の顔がよく見えて、悪かないでさァ」
笑みを繕おうにも、未だ上手く笑えない。それをごまかすように、貴方は、と問いを返した。
「お前の顔だけは嫌いではないのでな。このままいけるやも知れぬ」
思いもよらぬ言葉に、筧は己の頬が一気に上気するのを感じた。この反応には海野もぎょっとしたように目を見張る。
「何だお前、生娘でもあるまいし」
「……あ、貴方が…そんなことを言うからでさァ」
実際、自分がこんなにも容易く赤面したこと自体、どうかしていると思う。しかし一度こうなってしまうと、今の瞬間まで麻痺していた羞恥心も大いに励み始めて、筧は海野から目を逸らした。
「……もうよい。興が冷めた」
そう言いながら息をついた海野は、筧の手の戒めを解く。
「え、」
「らしくないのはどちらだ。妙な反応をして」
「お、俺のせいじゃアねぇでしょう、それは……」
「喧しい、いつまで寝転がっているつもりだ」
冷ややかな言葉を吐き捨ててそっぽを向く海野は、筧が起きるのを手伝おうともしない。筧は渋々半身を起こして男の後頭部をねめつけた。
「ひどいでさァ、期待させておいて!」
海野は答えない。
「海野ちゃんの意気地無し!」
その言葉は流石に聞き捨てならなかったと見えて、仏頂面が筧を振り返る。筧もまた顔をしかめているので、互いに睨み合う形になった。
「貴方が出来ないのなら、俺が貴方を抱いて差し上げまさァ」
「結構だ」
ふん、と鼻を鳴らして言う海野はたいそう不機嫌そうである。これは平生の如く己が折れなければなるまい、と筧の肩が落ちる。これぞ惚れた弱みだ。
うなだれた筧の名を、海野がぶっきらぼうに呼ぶ。筧は視線だけ動かして応え、再び息を詰めた。海野の顔が近付いて、すぐに離れていった。
「情けない顔ばかりするな。それで我慢しろ!」
そうして一つ覚えのように背を向ける照れ隠しに、筧は心ノ臓がうっかり飛び出してくるのではないかと案じ、自身の左胸を抑えつけた。
「ず、ずるいでさァ……! こんなんで足りる訳がねぇってのに……っ、」
言い、筧は文字通り頭を抱える。今日は、調子が狂ってばかりである。
まるでド素人の愛
(こんなに惚れさせておいて、どうしようって言うんですかィ!)
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