君だけを(3/5)

駅前で電車組と別れ、近くの駐車場に停めてあった車に乗り込んだ。
エンジンをかけ、運転席の背もたれを少し倒して深く凭れ掛かる。
付けっ放しだったカーステレオから、きゃんきゃん煩い女DJの声が響いてきて、オレはそのボリュームをゼロにした。

低く唸るエンジン音と、時折通り過ぎる車の音、そして少し離れた場所から聞こえる電車の音に耳を傾けながらオレは目を閉じた。

栄口と会うことが出来た。話も出来た。
それは素直に、嬉しいと思う。
……なのにどうしてこんなにも胸が痛むのか。
それはきっと、栄口が凄く遠い存在に思えてしまったから。
当たり前のように隣にいたあの頃には戻れないと言う現実を、目の前に突きつけられてしまったから……。

このまま真っ直ぐ帰る気にはなれなかった。
独りきりのあの部屋に……。



カーナビも使わず、思いつくままにハンドルを切って車を走らせる。
ボリュームを絞ったカーラジオから流れる、知らない英語の曲を聞くともなしに聞きながらアクセルを踏む。
何度目かの交差点を右折すると、なんだかこの辺りの景色に見覚えのあるような気がして、だけどどこなのか思い出せなくて。
ふと覗き込んだサイドミラーに映る景色を見て、ようやく思い出した。

住宅街の向こうにちらちらと瞬く灯り、あれはきっと灯台の灯り。
そう、ここはあの時、栄口と一緒に来た……。

無意識のうちに、オレはその灯台の方へとハンドルを切っていた。




あの時と同じ場所に車を停めて、歩き出した。
コンクリートの上を、海を眺めながら。

二年前にたった一回来ただけの場所なのに、オレはこの風景をはっきりと覚えていた。
そしてその風景は、あの頃と何一つ変わっていなくって。

……ただ違うのは、隣を歩く栄口がいないだけ。

波の音が優しくて、なんだか柄にもなく泣きそうになる。
こぼれそうな涙をぐっと堪えて、オレは歩き続けた。
……あの桟橋まで。
栄口と二人で朝日を見た、あの桟橋まで。




だんだんと空が白み始め、朝の気配が迫ってくる。
どうしても日が昇る瞬間をあの場所で見たくって、オレは足を速めた。
遠く薄明かりのなかにぼんやりと見えて来た桟橋を目指して。

ふと、桟橋の先端に人影があることに気付いた。

先客、だろうか?
だとしたら、興ざめもいいところだ。
見知らぬヤツと二人で朝日を見るなんて妙な趣味は持ち合わせていない。

引き返そうか別のところで見ようかと思案しつつ、オレは少し歩みを遅らせてその人影に目を凝らした。
桟橋の先端でじぃっと水平線を見つめるその人影は、遠いし薄暗いから顔かたちまでは見えないけど、髪は短くて……たぶん、男だ。
男にしちゃ小柄で細くて、たぶんオレとそう変わらないくらいだろう。

辺りが明るくなってきて、桟橋に近付くにつれてその人影の輪郭がはっきりしてくる。
水平線の向こうがオレンジ色に染まり始め、その光に照らされた横顔が見えて、オレの心臓は大きく跳ねた。

そして、気付くとオレは走り出していた。
ぐんぐんスピードを上げて、程なくトップスピードになった。
こんなに本気で走ったのは、もしかしたら高校最後の試合のとき以来かもしれない。

まさか。もしかして。きっと。間違いない。

互いの距離が縮まるにつれ、予感は確信に変わる。
そしてオレは声を張り上げて、その名前を呼んだ。

「栄口ィーっ!!」

その声に振り返った、その人は。
やっぱり栄口だった。

板張りの桟橋の上を駆け抜けるドンドンという足音が静かな海に響いて、オレは漸く栄口の目の前まで辿り着いた。
膝に両手を付いて上体を屈め、ぜいぜいと荒い呼吸を整えるオレを、栄口は言葉も出ないのか目を丸くしたままじぃっと見つめる。
オレの方も、なんでここにいるんだとか、聞きたいことは色々あるのに、言葉がうまく出てこなくって。
身を起こすと、海を背にする栄口をまっすぐに見つめた。

波の寄せては返す音だけが響く。
時間が止まったような気がした。

ふと、周囲が急に眩しくなって目を細めた。
栄口の後ろ……遥か彼方、水平線が赤く染まる。
まばゆいばかりに輝いて、丸いオレンジ色の太陽がゆっくりと顔を出す。

どれほど時が流れても、変わらない光景がそこにあった。

栄口はその雄大な光景を振り向いて見ようともせず、ただオレのことを見つめていた。
そして、その目元から一粒の水滴が伝い、朝日を浴びきらりと輝いた。

泣いて……る?

「栄口……?」
どうしたのかと、控えめにその名前を呼ぶ。
すると、たちまち栄口の表情が歪み、オレの声が何かのきっかけだったかのように栄口の両目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「ちょ、お前……」
「ご、ごめ……っ」
謝罪の言葉も最後まで言えないまま、栄口はしゃくりあげながらその場に崩れ落ち、桟橋に膝をつく。
オレは慌てて駆け寄って、栄口の正面にしゃがみこむ。
溢れる涙を両手で拭いつつ、ごめん、ごめんと何度も繰り返しながら泣き続ける栄口に、オレは手を伸ばして……止めた。

……今のオレが、栄口に触れていいんだろうか?
もう付き合ってるわけでもないのに。

迷いは一瞬で、でもここは慰めないわけにはいかないだろうと―友達として―そう思い直し、オレは栄口の背中に掌でそっと触れた。

栄口がしゃくりあげるたびに上下に大きく揺れる背中を、オレは黙ったまま繰り返し繰り返し撫で続けた。




桟橋の上に二人、足を投げ出して座る。
眩しい陽光に目を細めつつ、オレたちはぼんやりと海を見ていた。
栄口も今はすっかり落ち着いて、昔と変わらぬ穏やかな表情でどこか遠くを見ている。

二人の間には、人が一人通れるような……微妙な距離が開いている。

「ここで泉に会えるとは思わなかったな」
海を見つめたまま、まるで独り言のように栄口がそう言った。
「オレも、栄口に会えるとは思わなかったよ」
オレも視線は海に向けたまま、そう返す。
「オレはね、今この近くに住んでるんだ。だから散歩がてら時々来るんだよ」
「え?」
栄口の言葉に、オレは思わず横を向いて栄口のほうを見た。
だって栄口は家から通える圏内の大学に入ったはず……。
「あれ、言ってなかったっけ?」
そう言いながらオレの方を見た栄口は、きょとんと驚いたような表情で。
オレは首を横に振りながら答えた。
「聞いてねぇ」
「2年からキャンパスが変わって、家から通うのが厳しくなったから」
「そーゆーことか」
「うん」
にこっと笑って栄口は頷き、更に続ける。
「泉は?どうしてここに?」
「オレは、まぁ……適当に車走らせてたら、ここに着いたってだけ」
そう言ってオレは、視線を海に向けた。
なんで、とか、どうして、とか、深く追求されたら嫌だなと思った。
栄口とオレがただの他人になってしまったことが辛くて、独りきりの家に帰りたくなくて、当ても無く彷徨っていたのだと。
そんなこと話すつもりは毛頭なかったし、けれども聡い栄口に本心の全てを隠し通せる自信も無かった。
「……そう」
だけど栄口はそう言っただけで、それ以上の追求はしてこなかった。
もしかしたら、これ以上追求するなというオレの本心が態度や言葉の端に出ていて、栄口がそれに気付いたのかもしれない。
何はともあれ、ほっと胸を撫で下ろす。

再び、無言の時間が流れる。
これと言って話すこともなく、だけども「帰ろう」とも言えない。
栄口と離れたくないし、それ以上にこうして二人きりでいる時間が心地よくて。
そんな風に感じているのはきっとオレだけなんだろうけど、だけどどうしても「帰ろう」とは言い出せない。

このままこの時間が、永遠に続けばいいのに。

「……泉、」
名前を呼ばれて、ぎくっとした。
……確かあの時、帰ろうと言い出したのは栄口のほうだった。
だから今も、帰ろうと言われるのかと思って……。
「あの、ね……」
けどオレの恐れていたような言葉は続けられず……なんだか言い出しづらそうな、言おうかどうしようか迷っているような、そんな声で、しかもその後の言葉は途切れてしまった。
「……何?」
だからその先を促すようにオレが聞き返したんだけど、栄口は黙ったままで……、
「やっぱ、いいや」
それだけ言うと、口を噤んでしまった。
「何だよ?」
「いや、いいよ」
「気になんじゃん」
「たいしたこと無いから」
「たいしたこと無いなら言えよ」
「ほんとに、いいんだ」
口を割ろうとしない栄口に、食い下がる。
昔なら栄口が根負けしてくれただろうに、今はそうもいかないらしい。

頑なに話そうとしない栄口に焦れたのはオレの方。

「あーそうかよ」
オレはそう言うと手を伸ばし、傍らにある栄口の手首を掴んだ。



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