ふわりと、何かが舞った。
意識していなかったからか、それは柔らかく鼻先に降り立って姿を溶かした。
……雪が余りにも儚すぎて、冷たいと思う間もなく消えてしまった。
まるで、今の自分のようだ。
久しぶりの休暇を、自分からケテルブルクへ来ることで消費するとは思っても見なかった。
なにかを思い出したかったのか、それとも何かを求めていたのか。覚えていないから忘れてしまったのか、それとも初めから理由なんてなかったのか、分からないままただ雪に晒され続けてみる。
いつも傍らにあるはずの太陽の煌めきは、この地にそぐわないから今だ水の王宮だ。
いや、いつも在ると思ってしまうことこそが罪なのだろうか。だから、不釣り合いな王冠(ティアラ)を乗せられるような状況に甘んじてしまったのだろうか。
ただの軍人が望むには、そんな至高のモノ。不似合いで身分不相応で、……そして最後の賭。
彼にとっては、きっとこれが最善で最短の方法だったのだろう。
皇帝が、生涯独身を貫く旨を違えるつもりはないと言った。だから虚飾の婚礼、存在しない花嫁、破滅の女神が好みそうな脚本を描いた。
かりそめの花嫁を立てる。その役を、担ってもらえないか?
そうして乗せられた冠を、自分はどうしたのだったか。
そうだ、払い落としたのだ。
痛む心をただ隠し、零れそうになる涙と感激を罵声に変えて、馬鹿馬鹿しいことをと捨てさって、彼に視線を合わせず逃げるように休暇を重ねてここまで来た。
彼にとっては、最後の賭だったのだ。
自分が地方の防衛駐留部隊に飛ばされる前に、繋ぎ止められるだけの理由が欲しかったのだ。
それを自分は切り捨て、逃げてきた。
ここへ来たのは、そう、思い出すためだった。
かつて過ごした幼い日々を、かつて抱いた健気な夢を、かつて描いた華やかな未来を、かつて願った大事な約束を。
それを思い出したところで何の意味もなかったのかもしれない。
けれど、今の自分はそれを求めていたのだ。
そのつたない過去を抱きしめて、彼から遠く離れられるように。
だから……気付かなかった。気付けなかった。気付こうとしなかった。
背に向けた場所から人が歩んで来ていたのを、認めなかった。認めたかった。認めたくなかった。
「……こんな所に、どんなご用ですか?」
震えそうになる声を押し隠し、小さくつぶやく。
後ろの人は、ただ笑った。
「いや。何、想い人を尋ね歩いて来ただけさ」
さく。
雪を踏み締め固める音。
歩み寄って来ているのだ、とぼんやり思った。それでも、自分は動かなかった。
せめてもの言い訳は、寒さで体が動かなかったから。
ぎゅ。
立ち止まって雪が圧し固められた音に紛れて、暖かい金糸の太陽に抱きしめられた。
それを認識するよりも早く、彼は、陽だまりの化身は、震える腕で言葉を紡いだ。
「ようやく、見つけた…」
そして、
いなくならないでくれ、と。
「……ご自分の言ったシナリオが、どれだけ穴だらけで実現不可能なものなのか、理解なさってますか?」
嬉しくて嬉しくて、本当は謝りたいはずなのに、口をついて出たのは酷い言葉。
嗚呼、今だけはこの唇から零れる心にもない言葉を葬り去りたい。
ただ、ごめんなさいとありがとうと、……ごめんなさいを伝えたかったのに。
「分かってる。散々ゼーゼマンにも怒られた。だからそれを、全部修正して来た。絶対覆しようのない理由も作ってきた。……周りの奴らに、助けられたよ」
それから。
「やっぱり俺には、お前がいないとダメみたいだ」
その一言に、込められた想いに、抑えていた感情が溢れ出した。
そんなもの忘れたはずなのに、亡くしたはずなのに、まだ自分は人で在れたのかと思いながら……温もりに身を任せた。
「帰るぞ。休暇は俺の傍で潰せ」
「おやおや……酷いお言葉で」
「俺は皇帝だからな」
「……仰せのままに」
少しだけ時間を費やして、二人で街を回った後の船の上で。
誰も知らない、最初で最後の想いを重ねた口付けを交わした。
20071230
(あ。)(どうしました?)(休暇が済んだら、挙式だからな)(……は?)(言ったろ、全部修正したって)